火曜日, 7月 28, 2026

攻撃は29分、暗号の寿命はマイナス5年 ── 情報セキュリティの現在地と2031年までの5年展望

2025年から2026年前半にかけて、情報セキュリティの前提がいくつも書き換わりました。攻撃者が初期侵入から横展開に移るまでの平均時間は29分になり、AIが攻撃タスクの8〜9割を自律実行した諜報作戦が公表され、耐量子暗号(PQC)への移行期限は「2035年」から「2030年」へと一気に5年前倒しされました。どれも単発のニュースとしては流れていきますが、並べてみると同じ方向を指しています。

本稿では、公表されている一次情報(各社の年次脅威レポート、政府機関の勧告、警察庁・IPAの統計、大統領令やEU規則の条文)を突き合わせて、いま何が起きているのかを整理し、そのうえで2031年頃までの5年間に何が起きそうかを検討します。日本国内の事例と規制も含めて扱います。

先に結論を書きます。今後5年の主軸は①攻防双方でのAIエージェント化、②2030年前後に前倒しされた耐量子暗号移行、③NIS2・CRA・能動的サイバー防御法という「規制の執行フェーズ」入りの3つです。そして実務上の最優先事項は、これら3つのどれでもなく、アイデンティティの防御です。理由は本文で述べます。

本稿の後半は将来予測を含みます。確定した事実(インシデント、統計、法令の施行日)と、予測・推計(Q-Dayの時期、AI攻撃の進展、市場規模の見通し)は文中で区別して記述しますが、後者はあくまで現時点の見通しであり、精密な予測ではありません。また、脅威レポートの統計の多くはベンダー各社の顧客・テレメトリに基づくサンプルであり、業界全体を代表するとは限らない点にもご留意ください。

1. 2025年の脅威ランドスケープ:速度と「回復妨害」

2025年を総括する主要レポートは2026年前半に出揃いました。まず、数字を並べます。

レポート 公表時期 主要な数値(2025年実績)
Mandiant M-Trends 2026 2026年3月23日 世界の滞留時間の中央値は14日(前年11日)。諜報/北朝鮮IT労働者事案に限れば122日。初期感染経路は脆弱性の悪用が32%で6年連続首位、ボイスフィッシングが11%で2位に急浮上、メールフィッシングは6%まで低下。内部検知率は52%(2024年は43%)。IR実績50万時間超が母集団。
CrowdStrike 2026 Global Threat Report 2026年2月24日 eCrimeの平均ブレイクアウトタイムは29分(2024年48分、2023年62分)、最速27秒。AI活用型攻撃者の活動は前年比89%増。検知の82%はマルウェアを伴わない。脆弱性の42%が公開前に悪用。クラウド侵入37%増、国家系のクラウド標的は266%増。中国系38%増、北朝鮮系130%増。
Microsoft Digital Defense Report 2025 2025年10月16日 動機が判明した攻撃のうち恐喝・ランサムが52%超、諜報はわずか4%。インシデントの80%でデータ窃取が目的。初期侵入は28%がフィッシング/ソーシャルエンジニアリング、18%が未修正の公開資産、12%が露出したリモートサービス。対象期間は2024年7月〜2025年6月。
GTIG「2025 Zero-Days in Review」 2026年3月5日 実際に悪用されたゼロデイは90件(2024年78件、2023年100件)。うち企業向け技術が43件・48%で過去最高、その約半数(21件)がセキュリティ/ネットワーク製品。エッジ機器は14件。ブラウザは10%未満まで低下。

ここから読み取れる構造変化は3つあります。

第一に、時間軸が壊れました。M-Trends 2026が指摘するように、初期アクセス業者が足がかりを得てから二次グループへ引き渡すまでの時間の中央値は、2022年の8時間超から2025年には22秒に短縮しました。初期アクセス業者が侵入時点で二次グループ好みのマルウェアやトンネルを事前配置するようになったためです。実務的な含意は明白で、「マルウェア検知の軽微なアラート」を数十分後に処理する運用は、その時点ですでに手遅れになり得ます。さらにM-Trends 2026は、脆弱性が公開修正前に悪用されるまでの平均時間をマイナス7日(推定値)としました。パッチが出る前に悪用が始まっているという意味で、パッチ適用速度の競争は前提として成立しなくなりつつあります。

第二に、ランサムウェアが「暗号化」から「回復妨害」へ軸足を移しました。M-Trends 2026は、REDBIKE(Akira)やAGENDA(Qilin)といった主要グループがバックアップ基盤・ID基盤・仮想化管理面を狙い撃ちする体系的な変化を報告しています。具体的には、設定不備のActive Directory証明書サービステンプレートを悪用してパスワードローテーションを回避する管理者アカウントを作る、クラウドストレージのバックアップオブジェクトを削除する、ハイパーバイザーのデータストアを直接暗号化してすべての仮想マシンを一斉に停止させる、といった手口です。ゲストOS側にどれだけEDRを入れていても、Tier-0であるハイパーバイザーを取られれば意味をなしません。

第三に、身代金は払われなくなりました。Coveware(2025年にVeeamが買収)の四半期レポートによれば、身代金支払率は2025年第4四半期に約20%と観測史上最低を記録しました。データ窃取のみの恐喝(DXF-only)でも約25%です。従来25〜35%のレンジで推移していた支払率が明確にその下を割り込んでおり、Covewareはこれを一時的な変動ではなく構造的に低い新しい均衡と評価しています。2026年第1四半期は約23%とやや戻していますが、水準としては歴史的な低さです。

この「攻撃は増えるが払われない」というねじれが、攻撃者側にビジネスモデルの再設計を迫っています。Covewareは今後の見通しとして、恐喝アクターがデータ窃取型からデータ暗号化型へ回帰する可能性を挙げています。実際、2025年第4四半期のランサムウェア市場シェア上位2つ(Akira 14%、Qilin 13%)はいずれも暗号化を主たるレバレッジとするグループで、3位以下のデータ窃取専業グループより成功していました。CL0PがOracle E-Business Suiteのゼロデイ(CVE-2025-61882/CVE-2025-61884、遅くとも2025年8月9日から悪用)を使って実施した大規模窃取キャンペーンですら、CL0Pの過去5回の同種キャンペーンの中で最も収益化が低調だったとCovewareは分析しています。

2. AIは攻撃側で「実運用」に入った

2025年11月13日、Anthropicが公表した脅威インテリジェンスレポート「Disrupting the first reported AI-orchestrated cyber espionage campaign」は、この分野の議論の前提を変えました。同社が2025年9月中旬に検知した作戦(同社はGTG-1002と命名、中国国家支援と高い確度で評価)では、攻撃者がClaude Codeとモデルコンテキストプロトコル(MCP)サーバーを組み合わせた独自のオーケストレーション基盤を構築し、戦術的作業の80〜90%をAIが自律実行しました。偵察、脆弱性の発見、エクスプロイトコードの生成、認証情報の窃取、データの持ち出しまでをAIが担い、人間は標的選定と、偵察から実際の侵害へ進む段階の承認といった戦略的な判断点にのみ関与しています。標的は大手テック企業、金融機関、化学メーカー、政府機関など約30組織でした。

技術的な要点は、新奇なマルウェアではなくオーケストレーションにあります。同レポートによれば、基盤は「圧倒的にオープンソースのペネトレーションテストツールに依存」しており、MCPがAIとそれらの汎用ツールの間のインターフェースとして機能することで、AIが複数の標的とセッションをまたいで作戦状態を維持できていました。攻撃者はClaudeに対し「防御的なセキュリティテストを実施するセキュリティ企業である」というロールプレイを課すことで安全機構を迂回しています。

ただし、この事例の受け止め方には留保が必要です。GTG-1002というのはあくまでAnthropicが付けた呼称であり、公開の脅威データベースでの相互裏付けは限定的です。侵害指標(IOC)も公開されていません。加えて、Anthropic自身が調査の中でAIが攻撃作戦中に幻覚を起こしたことを報告しています。存在しない認証情報を「発見した」と報告するなど、自律化の実効性には制約がありました。「初のAI主導型作戦」という位置づけの是非についても専門家の間で議論があります。

より地に足のついた観測としては、Google Threat Intelligence Group(GTIG)の報告が参考になります。実行中に大規模言語モデルに問い合わせて検知回避を図るマルウェア(PROMPTFLUX、PROMPTSTEAL)、侵害した環境内でローカルのAI CLIツールを探索し、あらかじめ用意したプロンプトを実行して設定ファイルを探す認証情報窃取ツール(QUIETVAULT)などが実際に観測されています。CrowdStrikeも、90組織以上でGenAIツールへの悪意あるプロンプト注入インシデントに対応したと報告しています。

一方で、防御側の視点として最も重要な指摘は、M-Trends 2026が明示的に書いていることです。すなわち、「2025年は侵害がAIの直接的な結果として生じた年ではない」。前線から見る限り、成功した侵入の圧倒的多数は依然として人的・システム的な基本的欠陥に起因する、というのがMandiantの評価です。AIによる攻撃の高度化は現実ですが、2026年時点で組織を実際に侵害しているのは、放置されたVPN機器、ヘルプデスクを騙す電話、使い回された認証情報です。この順序を取り違えないことが、限られた予算配分では決定的に重要になります。

AIシステム自体がもたらすリスクも整理が進みました。OWASP Top 10 for LLM Applicationsはプロンプトインジェクションを2版連続で第1位(LLM01)に置いており、2025年にはエージェント型アプリケーション向けの版も公開されて、目標の乗っ取り、ツールの悪用、メモリ/コンテキストの汚染、過剰な権限(Excessive Agency)が焦点になっています。防御の難しさは確率的である点にあり、たとえばAnthropicのClaude Opus 4.5システムカードは、エージェント型コーディング環境における間接プロンプトインジェクションの成功率を1回の試行で4.7%、10回で33.6%、100回で63.0%と報告しています。試行回数を重ねれば防御が破られ得るという性質は、従来の脆弱性とは異なる管理を要求します。

そしてガバナンスの遅れは数字に表れています。Gartnerの分析では、企業のAIツールへの投資額はAI自体を保護するための支出の17倍で、エージェント型AIの導入はそのガバナンス整備を8対1のペースで上回っています。Forresterは2026年の予測として、エージェント型AIの導入が公表を伴うデータ侵害を引き起こし、担当者の解雇に至るケースが出ると述べています。

3. アイデンティティとサプライチェーン:信頼が壊れる場所

2025年の侵害を貫く共通項を一語で言えば、攻撃者は「侵入」せず「ログイン」しているということです。CrowdStrikeによれば検知の82%はマルウェアを伴わず、クラウドインシデントの35%は正規アカウントの悪用でした。Covewareの四半期分析も、リモートアクセスの侵害が初期侵入経路として支配的であり続けていること、そして「リモートアクセス」の意味がVPNやRDPを超えてSaaS管理者アクセス、OAuthトークン、API連携、委任された信頼関係にまで広がったことを指摘しています。攻撃者は統制を破っているのではなく、統制の内側で正規に動いている、というわけです。

この文脈で最も注目すべき変化が、ボイスフィッシング(ヴィッシング)の急上昇です。メールフィッシングが技術的統制の改善により2025年には侵入の6%まで低下した一方、対話型の音声によるソーシャルエンジニアリングが11%で第2位に浮上しました。UNC3944のようなグループがITヘルプデスクを標的にして多要素認証を迂回し、SaaS環境への初期アクセスを得る手口が定着しています。ここで奪われるのが長寿命のOAuthトークンやセッションクッキーであり、これらは標準的なMFAの再認証を経ずに使えてしまいます。さらに、サードパーティのSaaSベンダーを侵害してハードコードされた鍵や個人アクセストークンを盗み、それを使って下流の顧客環境へ横断的に移動する連鎖が観測されています。単一ベンダーの侵害が、そのまま数十社の危機に転化する構図です。

ソフトウェアサプライチェーンでは、2025年に自己増殖型のワームが現実になりました。9月15日に確認された「Shai-Hulud」はnpmエコシステムにおける初の自己複製型攻撃で、npmメンテナのアカウントをフィッシング等で乗っ取り、トロイの木馬化したバージョンを公式レジストリに公開して拡散しました。11月21〜24日の第2波「Shai-Hulud 2.0(The Second Coming)」はさらに攻撃的で、post-installではなくpre-installライフサイクルスクリプトを悪用したため、インストールが失敗しても悪意あるペイロードが実行されます。数時間のうちに約796のnpmパッケージ(1,092バージョン)と25,000以上のGitHubリポジトリが汚染され、Zscalerの分析では487組織にわたる約14,000のシークレットが露出しました。窃取されたシークレットは「Sha1-Hulud: The Second Coming」という説明を付けたGitHub公開リポジトリに格納されており、正規のGitHub APIトラフィックに紛れる設計です。認証情報の窃取に失敗した場合はユーザーのホームディレクトリを破壊しにかかるフォールバックまで備えていました。

諜報側は逆方向、すなわち極端な永続化に最適化しています。VPN、ルータ、ファイアウォールといったエッジ機器はEDRが載らず、オンボードストレージも最小限のためファイルシステムやメモリのフォレンジックが困難です。攻撃者はここにBRICKSTORMのようなインメモリ型のカスタムバックドアを直接展開し、標準的な復旧作業や再起動を生き延びる足場を作ります。BRICKSTORMの滞留時間は400日近くに達しており、多くの組織が採用する90日のログ保持ポリシーでは初期侵入経路も侵害範囲も再構成できません。GTIGは2025年のBRICKSTORMキャンペーンについて、被害企業の知的財産(ソースコードや設計文書)そのものが標的となっていた点を指摘し、これが将来のゼロデイ開発の原資になる可能性を警告しています。

国家支援アクターの動向では、中国系のSalt Typhoonが最大の案件です。2025年8月27日、米FBI・NSA・CISA・国防総省サイバー犯罪センターと13か国の当局が共同勧告を発出しました。FBIによれば、同グループは少なくとも2019年から活動し、80か国以上に及ぶ範囲で、米国内だけでも200社以上を侵害しています。FBIが「関心を持たれていた」として通知した組織は600に上ります。標的は通信に限らず、政府、運輸、宿泊、軍事インフラのネットワークに及びました。バックボーンルータやプロバイダエッジ/カスタマエッジのルータを押さえ、そこから信頼関係を使って他のネットワークへ横展開する手法で、エンドポイント防御を構造的に迂回します。米財務省は2025年1月に四川聚信和網絡科技(Sichuan Juxinhe Network Technology)などを制裁しましたが、FBIは2026年2月時点でも脅威が継続中であると述べています。

なお、ゼロデイの担い手構成には注目すべき変化がありました。GTIGは2025年、追跡開始以来はじめて商用監視ベンダー(CSV)に帰属したゼロデイが従来型の国家諜報グループを上回ったと報告しています。ゼロデイへのアクセスがより広い層に拡散していることを意味します。国家系の内訳では中国系が最低10件と最多(2024年の5件から倍増)である一方、2024年に5件を帰属された北朝鮮系は2025年にはゼロ件でした。金銭目的グループは9件で、2023年の最高記録10件に迫る水準です。

4. 規制:起草の時代から執行の時代へ

2026年は、この10年に起草されてきた規制がまとめて効き始める年です。日本企業にとって重要なのは、EUの規制が域外企業にも及ぶ点と、国内の能動的サイバー防御法の施行が始まっている点です。

制度 適用時期 主な内容と実務上の含意
EU サイバーレジリエンス法(CRA、規則2024/2847) 2024年12月10日発効/報告義務2026年9月11日/主要義務2027年12月11日 デジタル要素を持つ製品の製造者に、実際に悪用されている脆弱性と重大インシデントの報告を義務化。認知から24時間以内に早期警告、72時間以内に本通知、是正措置提供後14日以内(重大インシデントは1か月以内)に最終報告。単一報告プラットフォーム(SRP)経由で一度報告すればCSIRTとENISAに同時共有される。報告義務は全面適用より1年以上早く始まり、既に市場に出ている既存製品にも及ぶ点に注意。
EU NIS2指令+2026年改正提案 加盟国の国内法化が進行中/改正提案2026年1月20日 ドイツ、ポルトガル、オーストリアなどが国内法を制定済み、スペイン・フランス・ポーランドが完了間近。ドイツでは2026年初頭から登録義務が発生し、監督・執行が段階的に強化される。欧州委員会は2026年1月に管轄ルールの簡素化、ランサムウェア攻撃データ収集の合理化、ENISAの調整役強化を含む改正を提案。あわせてDigital Omnibusで「一度報告すれば多方面に共有」する単一窓口方式も提案されている。
米 大統領令14412(Securing the Nation Against Advanced Cryptographic Attacks) 2026年6月22日署名 連邦機関の高価値資産・高影響システムについて、鍵交換のPQC移行を2030年12月31日まで、デジタル署名を2031年12月31日までに完了することを義務化。連邦調達規則(FAR)評議会に対し、契約事業者へ2030年末までのFIPS準拠を求める規則案の策定を指示。同日、量子技術振興の大統領令14413も署名。バイデン政権下では2035年目標だったため、実質5年の前倒し。
日本 サイバー対処能力強化法・同整備法(能動的サイバー防御法) 2025年5月16日成立・5月23日公布/2026年4月から順次施行 正式名称は「重要電子計算機に対する不正な行為による被害の防止に関する法律」。柱は官民連携強化、通信情報の利用、攻撃サーバーへの侵入・無害化、国家サイバー統括室(NCO)設置。大部分は公布から1年6か月以内(2026年11月まで)、通信情報の利用に関する規定は2年6か月以内(2027年11月まで)に施行。基幹インフラ事業者の届出・インシデント報告義務が本格化し、統一報告様式は2025年10月から先行運用中。

能動的サイバー防御法は、日本の姿勢を受動的防御から歴史的に転換させるものですが、論点も残ります。通信情報の利用については国内通信を対象外とし、機械的・自動的な選別によってプライバシーに関わる情報を人が閲覧しない仕組みが法律上明記されていますが、憲法21条が保障する通信の秘密との整合、監督機関の実効性は引き続き検証が必要です。また、攻撃元サーバーが国外に所在する場合の主権上の扱いやエスカレーションリスクもあります。そして実務的な最大の制約は、外交・軍事・インテリジェンスの知見を併せ持つ人材の不足です。

5. 耐量子暗号:時計が5年早まった

2026年前半で最も大きく前提が動いたのが、この領域です。

まず標準化の現状を正確に押さえておきます。NISTは2024年8月13日にFIPS 203(ML-KEM、鍵カプセル化)、FIPS 204(ML-DSA、署名)、FIPS 205(SLH-DSA、ハッシュベース署名)を発行しました。2026年7月時点で最終規格として使えるのはこの3つだけです。HQCは2025年3月11日にバックアップKEMとして選定されましたが、規格自体はまだ策定中で、最終版は2027年頃の見込みです。FALCON由来のFIPS 206(FN-DSA)も策定中。NIST IR 8610では2026年5月に追加の署名候補9件が第3ラウンドへ進みました。「HQC対応済み」といった表現が製品説明に出てきたら、選定済みと規格化済みは別物である点を確認する必要があります。

問題は移行期限です。Global Risk InstituteとevolutionQによる『Quantum Threat Timeline Report 2025』(2026年3月9日付、26名の国際専門家調査、Michele Mosca氏・Marco Piani氏)は、暗号学的に有意な量子コンピュータ(CRQC)が今後10年以内に出現する確率を28〜49%と推計しました。これは同調査7年の歴史で最も高い10年推計です。15年では51〜70%、回答者26名中18名(69%)が15年時点で50%以上と回答し、20年では92%が50%以上、うち半数近くが「極めて高い(99%超)」としています。

そして2026年3月末から4月にかけて、ハードウェア/アルゴリズム両面の研究が一気に前倒し圧力をかけました。

時期 出来事 内容と留保
2025年5月 GoogleのCraig Gidney氏による資源見積もりの改訂 RSA-2048の解読に必要な物理量子ビット数を、従来の約2,000万から100万未満へと約20分の1に引き下げた。
2026年3月25日 Googleが自社のPQC移行期限を2029年に設定 Chrome、Android 17、Google Cloudには既にPQC保護を展開済みとしている。
2026年3月30日 Google Quantum AIがECC-256向けアルゴリズムの改良を発表 論理量子ビット1,200未満、超伝導ハードウェア換算で物理量子ビット50万未満で256ビット楕円曲線離散対数問題を解ける可能性を示した。ただしアルゴリズム自体は公開されず、存在を示すゼロ知識証明のみが開示されているため、第三者による独立検証はできていない。
2026年3月30日(同日) Oratomic(Caltech系スタートアップ)が中性原子方式の資源見積もりを公表 RSA-2048およびP-256の解読に必要な再構成可能原子量子ビットを約1万と推計。中性原子の全結合性により、超伝導方式で論理1量子ビットあたり約1,000物理量子ビット必要なところを3〜4で済ませられるという主張。これは実証ではなく資源見積もりであり、スタートアップ単独の発表である点は割り引いて読む必要がある。
2026年4月7日 Cloudflareが移行期限を2029年へ前倒し 上記2件を明示的な理由として挙げ、Googleと同じ2029年に合わせた。同社ネットワークへの人間起点トラフィックの65%超が既にPQ暗号で保護されているとする。重点を暗号化から認証へ移した点が最大の変化。
2026年6月22日 米大統領令14412 連邦機関に2030年(鍵交換)/2031年(署名)の期限を課し、契約事業者にも2030年末のFIPS準拠を求める規則策定を指示。翌6月23日には国防総省がPQC戦略を公表。

Cloudflareの優先順位の転換は、実務者にとって最も示唆的です。同社のBas Westerbaan氏は「Q-Dayが遠いなら主なリスクはHarvest Now, Decrypt Later(今収集し後で復号する)だから暗号化が先に来る。だがGoogleとOratomicの成果でQ-Dayのタイムラインが早まったため、認証への攻撃に対する保護がはるかに重要になった」と説明しています。データが後日読まれる被害と、量子計算能力を持つ攻撃者が認証情報を偽造して重要インフラに直接アクセスできてしまう被害では、後者のほうが破滅的だという判断です。コード署名パイプラインの偽造がその典型で、PKI・証明書・署名の移行は暗号化の移行より難易度が高く、業界全体でようやく着手した段階にあります。

日本企業への含意は明確です。米国の期限は連邦政府と連邦契約事業者に課されるものですが、調達を通じてサプライチェーン全体に波及します。加えて、機密保持期間が10年を超えるデータ(設計情報、契約、個人の生体情報、長期の医療記録など)を扱う組織にとって、HNDLはすでに進行中の被害です。着手すべきは暗号資産の棚卸し(cryptographic discovery)と、CBOM(Cryptographic Bill of Materials)を出せる体制、そして暗号を差し替えられるアーキテクチャ(暗号アジリティ)の確保です。移行遅延のコストは四半期ごとに複利で増えます。

6. 日本の現在地

警察庁が2026年3月に公表した「令和7年におけるサイバー空間をめぐる脅威の情勢等について」によれば、2025年に報告された国内のランサムウェア被害は226件で、前年(222件)から4件増え、過去2番目の水準です。ウイルス種別が特定された149件のうちQilinが32件で最多、LockBitが19件で続きました。2025年上半期だけで116件と半期最多に並び、そのうち中小企業が77件と約3分の2を占めて過去最多を更新しています。調査・復旧費用に1,000万円以上を要した組織の割合は前年の50%から59%へ上昇しました。RaaSによる攻撃実行者の裾野拡大が、中小企業の被害増加に直結しているという分析です。

同レポートはランサムウェア以外の数字も深刻です。フィッシング対策協議会への報告件数は245万4,297件(前年比42.9%増)と過去最多、証券会社を装ったフィッシングによる不正取引の被害額は約7,400億円に達しました。ネットバンキング不正送金は4,677件・約102億円、SNS型投資詐欺・ロマンス詐欺は約1,827億円(前年比43.6%増)で、いずれも過去最高です。組織のネットワーク防御の話をしている間に、金銭被害の主戦場はソーシャルエンジニアリングと詐欺に移っている、という構図が数字に出ています。

象徴的な事例がアサヒグループホールディングスです。同社の2026年2月18日付および7月17日付の公表資料によれば、経緯は次の通りです。2025年9月29日午前7時頃にシステム障害が発生し、調査の中で暗号化されたファイルを確認。同日午前11時頃にネットワークを遮断し、データセンターを隔離しました。その後の調査で、障害発生の約10日前に、外部の攻撃者がグループ内拠点のネットワーク機器を経由して内部ネットワークへ侵入し、管理者権限を奪取していたことが判明しています。ランサムウェアグループQilinが犯行声明を出し、約27GBの社内ファイルを窃取したと主張しました。

被害の規模については、報道された数字が時系列で変わっているため注意が必要です。2026年2月18日時点で漏えいが確認された個人情報は115,513件(従業員5,117件、取引先110,396件)で、クレジットカード情報は含まれていません。その後の追加調査を踏まえ、同社は2026年7月17日、二次被害防止の観点から「漏えいのおそれを完全には否定できないもの」まで含める保守的な整理に見直し、漏えいのおそれがある対象範囲を約228.9万件へ上方修正しました。ただし2月時点で確定した漏えい範囲そのものに訂正はなく、データセンターのサーバー内に保管されていた個人情報が外部に流出した事実は確認されていない、とされています。復旧は2026年4月に完了し、独立したセキュリティ部署と専任役員の設置を含むガバナンス強化策が公表されました。

この事例から読み取るべき教訓は、被害件数の大小ではありません。侵入から発覚まで約10日、入口はネットワーク機器、決定打は管理者権限の奪取という流れが、M-Trends 2026やCrowdStrikeが世界規模で観測している傾向とほぼ完全に一致していることです。日本固有の脅威というものは、少なくともランサムウェアに関しては存在しません。

IPAが2026年1月29日に公表した「情報セキュリティ10大脅威 2026」では、組織編の1位が「ランサム攻撃による被害」、2位が「サプライチェーンや委託先を狙った攻撃」で、この上位2つは不動でした。注目は3位に「AIの利用をめぐるサイバーリスク」が初選出された点です。AIの悪用、AI基盤そのものへの攻撃、運用・法的リスクの3側面を含む項目で、「将来的な課題」ではなく現在の統制対象として公的に位置づけられたことの意味は小さくありません。解説書[組織編]は2026年3月12日に公開されています。

7. 2026〜2031年の展望

ここから先は予測です。確度に幅があるため、「確度が比較的高いと考えられるもの」と「不確実性が大きいもの」を分けて整理します。区分は公表されている一次情報と各調査機関の見通しをもとにした筆者の判断であり、精密な予測ではありません。

領域 確度が比較的高いと考えられるもの 不確実性が大きいもの
AIと攻防 攻撃側のAI活用は偵察・エクスプロイト開発・ソーシャルエンジニアリングの各フェーズで常態化する。防御側もトリアージ・調査・シミュレーションでAIを使うのが標準になる。GTIGも2026年の見通しとして両者の競争加速を明言している。 GTG-1002型の高度に自律的な作戦がどれだけ拡散するか。能力が低スキルアクターへ降りてくる速度。当面は攻撃側優位に傾くという見方が有力だが、防御側のAI展開規模次第で逆転し得る。
耐量子暗号 米連邦の2030/2031年期限と調達要件により、サプライチェーン全体でPQC対応が事実上の必須要件になる。CBOMと暗号アジリティが調達仕様に入る。HNDLを前提とした長期機密データの扱いの見直しが進む。 Q-Dayの実際の時期。専門家推計は10年以内28〜49%と幅が大きい。2026年のGoogle/Oratomicの成果は独立検証が済んでおらず、さらなる前倒しも、逆に工学的障壁による停滞もあり得る。
ランサムウェア/恐喝 支払率の低水準は継続する。攻撃者は暗号化への回帰と、バックアップ・仮想化基盤・ID基盤の破壊による回復妨害を強める。Covewareもこの方向を見込んでいる。中小企業の被害比率は高止まりする。 法執行機関の解体作戦がエコシステムに与える影響の持続性。LockBitやALPHV解体後に断片化が進んだが、その後の再集約が起きるかは読みにくい。
規制 CRA報告義務(2026年9月)、CRA全面適用(2027年12月)、日本のACD法段階施行(2026〜2027年)は日程が確定している。クロスボーダー企業のコンプライアンス負荷は増える。 EUのDigital Omnibusによる簡素化がどこまで実現するか。「一度報告すれば多方面に共有」の単一窓口は提案段階で、採択後18か月で適用の見込みとされるが確定していない。
人材 課題の軸が「人数」から「スキル」へ移る。ISC2の2025年版調査(16,029名)では95%が何らかのスキル不足を報告し、59%が「重大または深刻」、十分に充足しているのは5%のみ。70%がAI関連の資格取得を進めている。 AIによる省力化がスキルギャップをどこまで埋めるか。ISC2は2025年版で人材ギャップの推計値の公表を史上初めて見送っており、この数字を追う従来の議論の枠組み自体が変わりつつある。

市場面では、Gartnerの『Forecast: Information Security, Worldwide, 2023–2029, 4Q25 Update』(2025年12月18日)が2026年の世界情報セキュリティ支出を2,442億ドル(前年比13.3%増)と予測しています。最も成長率が高いのはクラウドセキュリティで2026年に28.8%増、CSPM・CASB・CWPPを合わせたクラウドセキュリティ市場は2029年に324億ドルに達する見込みです。ただし前述の通り、AIツールへの投資はAIそのものを守る支出の17倍という不均衡が続いており、支出の総額が増えることと、増えた分が正しい場所に行くこととは別問題です。Gartnerは、他のAIエージェントを監視・統制する「ガーディアンエージェント」が2030年までにエージェント型AI市場の10〜15%を占めると予測しています。

経営層の関心の移り変わりも興味深い変化です。世界経済フォーラムが2026年1月12日に公表した『Global Cybersecurity Outlook 2026』(Accenture協働、92か国804名。うちCISO 316名、CEO 105名)では、CEOの最大の懸念がランサムウェアからサイバー対応型詐欺へ移りました。回答者の73%が自分または身近な人が2025年に詐欺被害に遭ったと答え、77%が詐欺・フィッシングの増加を報告しています。一方でCISOは依然としてランサムウェアとサプライチェーンを最大の懸念に挙げており、取締役会と現場で優先順位が乖離しています。AIについては94%が2026年のセキュリティを最も大きく変える要因と回答、87%がAI関連の脆弱性を最も急増する脅威と回答しました。明るい材料としては、自社のAIツールのセキュリティ影響を評価している組織が2025年の37%から2026年には64%へほぼ倍増しています。

8. 何から手をつけるか

以上を踏まえた優先順位です。5年後を見据えつつ、来週から動かせるものから順に並べます。

今すぐ(0〜6か月)

  • アイデンティティを最優先の境界として扱う。フィッシング耐性のあるMFA/パスキーを全社展開し、OAuthトークンとセッションの寿命を極小化する。SaaSアプリケーションは中央のIdP経由に統一し、SaaS連携を定期監査する。FIDO Allianceの『State of Passkeys 2026』(2026年5月7日)によれば世界で50億のパスキーが使用中で、組織の68%が従業員サインインへの展開または展開作業中、世界トップ100サイトの48%がパスキーに対応済み。技術的な障壁はもう理由になりません。
  • ヘルプデスクをヴィッシング対策で訓練する。侵入経路の11%を占め第2位に浮上した経路であり、技術ではなく手順の問題です。本人確認手続きを、電話越しに再現できない要素に基づく形へ改める。
  • 可視性の空白を埋める。エッジ機器、ハイパーバイザー、認証プロトコルのログを中央のSIEMへ集約し、保持期間を90日から最低1年へ延長する。BRICKSTORM級の400日近い潜伏に対し、90日保持では侵害範囲すら証明できません。
  • 低影響アラートを重大指標として扱う。引き渡しが22秒まで縮んだ以上、「ありふれたマルウェア検知」は数十分後に始まる二次侵害の予告と見なして対応プレイブックを組み直す。
  • 社内で動いているAIエージェントを棚卸しする。認可・非認可を問わず数を把握し、間接プロンプトインジェクションを脅威モデルに組み込む。Google SAIFなどのフレームワークが出発点になります。

中期(6〜18か月)

  • ランサムウェア対策をレジリエンスの問題として再設計する。仮想化基盤と管理面をTier-0として最も厳しいアクセス制約下に置き、バックアップ環境を社内Active Directoryドメインから分離してイミュータブルストレージを使う。復号鍵に頼らず復旧できる状態が、支払率20%という数字の実態です。
  • PQC移行のロードマップに着手する。暗号資産の棚卸し→ハイブリッド証明書のパイロット→暗号アジリティのアーキテクチャ化。機密保持期間が10年を超えるデータから優先する。米国の2030/2031年期限は調達を通じて日本企業にも波及します。
  • サードパーティ/SaaSのリスク管理を整える。SSPM等でSaaS資産を棚卸しし、エンドユーザーによる未検証アプリへの同意を無効化する。ベンダー選定基準にSSO対応と監査ログの提供を必須で入れる。
  • CRA報告義務(2026年9月11日)への対応体制。EU市場に製品を出しているなら、既存製品も含めて24時間/72時間/14日の報告フローを回せる体制が必要です。

長期(18か月〜)

  • AIを防御の力の増幅装置として組み込みつつ、人間の判断力に投資する。調査・トリアージ・レッドチーミングの自動化は費用対効果が見えやすい領域です。同時に、AIが出力した判断を評価できる人材がいなければ、自動化はリスクの所在を移すだけに終わります。
  • 静的なIOCから振る舞い検知へ移行する。インフラを高速に切り替え、インメモリのカスタムマルウェアを使う相手に対して、シグネチャベースの検知は前線を張れません。

最後に、判断を切り替える閾値を3つ挙げておきます。①GTIGの年次ゼロデイ報告で、企業向け技術・セキュリティ製品を標的とする割合がさらに上昇したら、エッジ機器のパッチ優先度を全社最上位に引き上げる。②Q-Day推定が2028年以前に前倒しされる、あるいはGoogleのECCアルゴリズムが独立検証されたら、PQC移行を全社最優先プロジェクトへ格上げする。③社内で稼働するAIエージェント数が管理可能な閾値を超えたら、エージェント専用のIAMと監査基盤を必須化する。

まとめ

2025年から2026年前半にかけて起きたことを一文でまとめると、「攻撃の速度が人間の対応速度を追い越し、防御の前提だった暗号の耐用年数が5年縮んだ」ということになります。AIエージェントによる攻撃の自律化と、耐量子暗号への駆け込み移行という2つの構造変化は、どちらも今後5年間の中心議題であり続けるでしょう。

ただし、Mandiantが2026年の報告書ではっきり書いた通り、2025年に組織を実際に侵害したのは、依然として人的・システム的な基本的欠陥でした。放置されたネットワーク機器、ヘルプデスクを騙す電話、Tier-0として扱われていなかった仮想化基盤。アサヒグループの事例が示したのも、まさにこの三点です。AIとQ-Dayの議論に予算と注意を吸い取られて足元が空くという失敗は、十分に起こり得ます。

身代金支払率が20%まで落ちたという事実は、防御側が構造的に勝ちつつある領域があることも示しています。バックアップの完全性、復旧計画、インシデント対応の実行力という、地味で測定可能な投資が、攻撃者の経済性を実際に削っている。5年先を見据えるからこそ、来週やるべきことは変わらない、というのが本稿の結論です。

日曜日, 7月 26, 2026

【2026年7月版】eVTOL産業の最新地図 ―― Joby型式証明目前、EHangは商用化遅延で予想下方修正

2025年末にまとめた「2026年 電動垂直離着陸機(eVTOL)産業白書」では、大阪・関西万博を経て産業が「勝者と敗者を選別するフェーズ」に入ったこと、そして欧州勢(Volocopter、Lilium、Airbus)が相次いで脱落する一方、米国勢と中国・EHangが2026年の商用化に向けて前進する構図を描いた。それから7カ月が経過した2026年7月末時点で、この大枠の見立ては概ね現実化している。

最大の変化は、業界の重心が「開発競争」から「規制・量産競争」へ移ったことだ。米国ではJoby AviationがFAA型式証明の最終段階に入り、Archer Aviationが追走する。欧州では、破綻したVolocopterが中国資本(万豊グループ/Diamond Aircraft)の傘下に入り、Liliumは特許資産のみがArcherに買い取られるという、白書執筆時点では確定していなかった「淘汰の着地点」が明確になった。

一方で、白書の見立てが楽観に過ぎた部分もある。中国・EHangの商用運航は当初計画どおりには立ち上がっておらず、2026年4月には米SECへの年次報告書(Form 20-F)提出を「売上計上時期の見直し」を理由に延期し、大手証券会社が2026〜2028年の出荷・売上予想を大幅に引き下げる事態となった。「認証を先に取った者が商用化でも先行する」という単純な図式は、少なくとも収益化のスピードという点では成立していない。本稿は、これら2026年1月〜7月の動きをファクトチェックの上でまとめ、白書からの「差分」として整理したものである。

本稿に含まれる「2026年後半に商用運航開始」「2027年に型式証明取得」といった時期の見通しは、各社が公表時点で示した目標であり、確定した事実ではない。eVTOL業界はこれまでも型式証明の目標時期を繰り返し後ろ倒ししてきた実績があるため、実際の進捗は本稿執筆時点(2026年7月26日)の情報を上限として理解されたい。また、認証プロセスの段階呼称(Jobyの「5ステージ」、Archerの「4フェーズ」)は各社が自ら用いている表現であり、FAAの単一の公式区分に対応するものではない。

1. 米国:FAA型式証明「最終コーナー」に入ったJoby、可視化を待たれるArcher

Joby Aviationは2026年3月11日、FAA承認設計に基づく最初の実機「N547JX」の飛行試験を開始したと発表した。これはType Inspection Authorization(TIA)と呼ばれる、FAA試験パイロットが直接評価に入る最終段階を支える機体である。同社は2026年第1四半期の株主レターで「SR3監査を完了した。これは認証プロセスにおける4つの主要レビューのうち3番目で、最終段階に向けて試験データと結果がFAAの期待水準を満たすことを確認する長期先行項目である」と説明している。一部業界メディアは「ステージ4完了」という表現でこの進捗を報じているが、同社自身はこの呼称を用いておらず、本稿では同社の公表表現に従う。いずれにせよ、TIA試験そのものはまだ開始されておらず、FAAパイロットによる「for-credit」飛行試験は2026年後半に見込まれている段階だ。ロイターの取材に応じた専門家は、米国での最初のeVTOL型式証明は2027年より前には出ない可能性が高いとの見方を示している。

事業面での動きは活発だ。2026年4月にはニューヨーク市初となるeVTOLの地点間飛行(JFK空港からマンハッタンの3カ所のヘリポート)を実施。6月30日にはトヨタ自動車との製造アライアンス第一段階の開始を発表し、7月22日にはヴァージン・アトランティック航空との複数年契約を締結して英国での独占航空会社パートナーとした(デルタ航空がヴァージン・アトランティックに49%出資している関係を活用した提携である)。また、コアとなる電動プラットフォームにガスタービンを組み合わせた「タービン・エレクトリックVTOL」の初のトランジション飛行にも成功しており、最大離陸重量での148マイル飛行を記録している。2026年第1四半期末時点の現金・現金同等物・短期投資は25億ドル。

Archer Aviationは、FAAの4フェーズ型式証明プロセスのうちフェーズ3を業界で初めて完了したと2026年5月に発表し、フェーズ4(適合性の実証試験)に進んでいる。ただし技術面では課題が残る。Archerは2024年6月に無操縦(遠隔操縦)でのトランジション飛行には成功しているが、パイロットが搭乗した状態でのトランジション飛行は2026年7月時点でも公開実施していない。同社は2026年前半にパイロット搭乗でのVTOL飛行試験を開始しており、有人トランジションは2026年後半を予定するが、この「未達のマイルストーン」がJobyとの進捗差として市場の関心を集めている。7月20日には防衛企業Anduril Industriesと共同開発した自律VTOLプラットフォームを発表し、商用機「Halo」と防衛派生型「Thunder」を公開するなど、旅客事業以外への事業分散を進めている。2026年第1四半期末の流動性は約18億ドル。

両社に共通する追い風が、FAAが2026年3月9日に発表した「eVTOL統合パイロットプログラム(eIPP)」である。トランプ政権の大統領令に基づき、30件超の応募から8プロジェクト・26州が選定された。型式証明の完全取得前でも、管制官とやり取りしながら実際の国家空域で有償の貨物輸送等を行える点が特徴で、Archer・Joby・BETA Technologies・Wisk・Electra・Elroy Air・Reliable Robotics等が参加する。Jobyは自社の発表で「最大11州で型式証明取得前の早期運航を開始する機会を得た」としている。参加社数で最多となったのはBETA Technologiesで、8プログラム中7つに選定され、2026年7月にはUnited Therapeuticsと共同でバージニア州からメリーランド州への臓器輸送を想定した飛行試験を実施した。

2. 中国:認証では先行、しかし収益化は想定より遅れる

EHangは2026年3月12日の2025年通期決算発表で、「今月中にEH216-Sの商用運航を広州・合肥で開始する」と表明した。運航主体は2025年3月にCAAC(中国民用航空局)から運航者証明(OC)を取得した2社――広東EHang General Aviation(完全子会社)と、合肥市との合弁である合肥合翼航空――で、広州のEHang Future Cityと合肥の駱崗中央公園で有料の遊覧飛行サービスを提供する計画だった。複数の業界メディアは3月に有料運航が開始されたと報じているが、同社自身の2026年第1四半期発表(6月9日)における表現は「公衆向け商用運航に向けた進展を継続中」というもので、本格的な定常運航への移行が完了したとは述べていない。

財務面はむしろ厳しい。2026年第1四半期の売上高は2,570万人民元(370万米ドル)で前年同期比ほぼ横ばい、記録的だった前四半期(1億7,760万人民元)からは機体納入の減少により大幅に落ち込んだ。純損失は1億2,640万人民元。粗利率62.5%は維持しており、通期ガイダンス6億人民元も据え置いているが、CFOは第1四半期の売上の約40%が「空中メディア事業」(ドローンショー等)であったと説明しており、有人eVTOL事業が収益の柱になっているわけではない。加えて同社は2026年4月30日、2025年度のForm 20-F提出延期を届け出た。理由は「売上計上時期の見直し」で、2025年に計上した一部売上が後の期にずれる可能性を示唆するものだった(20-F自体は5月15日に提出済み)。この前後にUBSは投資判断をBuyからNeutralに引き下げ、2026〜2028年の出荷・売上予想を50〜70%削減、損益分岐点の到達時期を2029〜2030年へと後ろ倒しした。理由として挙げられたのが、eVTOL商用化の遅れと、広州・合肥の地方政府による認可への強い依存である。長距離型「VT35」は2025年10月発表・同年12月に合肥で公開実証飛行を実施し、CAACとの型式証明基準策定段階にあるが、こちらも商用化には時間を要する。

AutoFlightは、貨物用「V2000CG CarryAll」がCAACの型式証明・生産証明・耐空証明をすべて取得し、洋上石油プラットフォームへの飛行実績も積んでいる。有人用の「V2000EM Prosperity」は2026年5月時点で「コンプライアンス検証フェーズ」にあり、型式証明は未取得である。2025年10月にUAEのFalcon Aviation Servicesと貨物機15機・有人機35機の計50機の契約を結んでいるが、有人機はUAE当局(GCAA)側での認証取得も別途必要になるため、貨物機が先行する形になる。

XPeng傘下で「空飛ぶクルマ」を手がけてきたAeroHTは、2025年10月にドバイで開催したイベントで社名を「ARIDGE」(Air+Bridge)に変更した。地上を走る6輪の母艦から2人乗りeVTOLモジュールを分離させる「陸空母艦(Land Aircraft Carrier)」については、CAACが飛行体(コード名X3-F)の型式証明申請と機体の生産証明申請をいずれも受理しており、審査が進行中である(型式証明の取得は完了していない)。広州の量産工場は2025年9月末に完成し、年産1万機の能力を持つとされる。世界での予約受注は2026年前半時点で7,000件超、うち600機は中東の複数企業グループからの大口契約で、価格は200万人民元(約28万米ドル)を下回る水準とされている。納入開始は2026年、本格量産は2027年という計画が示されている。

政策面では、改正「中華人民共和国民用航空法」が2026年7月1日に施行され、低空経済に関する「発展促進」章が新設されるとともに、高度300メートル以下の空域を分類管理する規則が明確化された。無人航空機の実名登録・識別に関する強制国家標準も2026年5月1日に施行されている。低空経済は「十五五」規画で新興支柱産業の一つに位置づけられ、2026年7月25日に上海で閉幕した「国際低空経済博覧会」には過去最多となる452社が出展し、23件の世界初公開・42件の中国初公開があったと新華社が報じている。なお市場規模については、白書類によって「2023年に5,059.5億人民元、2026年に1兆人民元超え」とする試算と、「2025年時点で既に1.5兆人民元」とする試算が並存しており、算出範囲(無人機物流を含むか等)が異なるため単純比較はできない。

3. 欧州:淘汰の「着地点」が確定 — Volocopterは中国資本傘下、Liliumは特許のみ現存

白書執筆時点(2025年12月)では「投資家探索継続中」としていたVolocopterの行方は決着した。同社の資産は、ダイアモンド・エアクラフト・インダストリーズの中国側親会社である万豊(Wanfeng)グループに約1,000万〜1,100万ユーロ規模で売却された。2022年時点のピーク評価額と比較すると99%を超える下落である。Liliumについては、Mobile Uplift Corporationによる約2億ユーロの救済合意が資金未達で頓挫し、2025年2月の2度目の破産申請以降、再建は実現していない。2025年8月には別の投資家グループ(Ambitious Air Mobility Group)が資産買収による事業再開を模索したが交渉は難航し、最終的に同社が保有していた高電圧システム、バッテリー管理、フライトコントロール、ダクテッドファン推進などに関する特許ポートフォリオ(約300件)は、2025年10月にArcher Aviationが1,800万ユーロで競争入札を制して取得した。バッテリー工場は別のドイツ企業Vaeridionに売却されており、Lilium本体としての再建ではなく資産の切り売りという形で決着している。

英国のVertical Aerospaceは、これまで開発してきた実証機「VX4」を土台に、2025年12月、量産を前提とした新型機「Valo」を発表した。VX4は2026年4月14日に有人でのトランジション飛行に成功し、6月には2機目のVX4プロトタイプも初飛行するなど、実証プログラム自体は着実に進んでいる。しかし本命であるValoについては、当初「2028年に英国CAAとEASAの型式証明取得」としていた目標が、2026年7月13日の発表で「2029年」へとさらに後ろ倒しされた。同社は「新しい航空機クラスを既存の認証フレームワークで型式証明する厳格さを反映したもの」と説明しており、詳細設計審査(CDR)の完了目標は2026年末としている。Valoは認証キャンペーン用に7機が英国で製造される計画である。欧州勢の中では最後まで独立系として生き残っている企業だが、認証スケジュールの遅延という点では他の欧米勢と同じパターンをたどっている。

4. 日本:万博後の「地域実装」フェーズへ着実に移行

SkyDriveは2026年4月20日、JCAB(国土交通省航空局)から日本のeVTOL専業メーカーとして初めて「設計組織承認(ADO)」を取得したと発表した。同年5月8日には、大阪府・大阪市・大阪メトロ・Soracle・丸紅で構成する日本初のeVTOLバーティポート商用化コンソーシアムを発足させ、大阪港バーティポートの商用化に向けた官民ロードマップの議論を開始した。背景には、関西経済連合会が2026年3月25日に公表した「2035年までに大阪湾岸エリアで約100機のeVTOLが飛ぶ」というビジョンがある。さらに7月9日にはHondaJetやBell 429を運航するJapan Biz Aviation(JBZ)と商用運航体制構築に向けたMoUを締結し、7月13日には山口県の実証拠点で瀬戸内海遊覧を想定した実証飛行(最大速度86km/h、高度30m、遠隔・自律操縦)を実施した。7月のファーンボロー国際航空ショーでは、高精度機械加工部品の供給に関してイトーとの供給契約も締結している。累計受注は427機(プレオーダー354機、基本購入契約73機。うちドバイAeroGulf Servicesからの20機を含む)に達し、試作機の累計飛行回数は300回を超えた。商用運航開始の目標は2028年で変わっていない。

Hondaは2025年11月のドバイエアショーで、それまで非公開で進めていたハイブリッド型eVTOLの開発状況を初めて公にした。バッテリー単独ではなく、ガスタービン発電機とバッテリーを組み合わせたハイブリッド推進を採用しているのが特徴で、純電動機の2倍以上となる最大航続距離400kmを目標に掲げる。1/3スケールの実証機で400回超の飛行試験を積み重ね、ホバリングから巡航への遷移制御を検証済みとしており、2026年4月1日には米カリフォルニアの開発拠点で実機大の技術検証機による飛行試験を開始したと同社が公式に発表している(発表日は2026年5月12日)。事業化目標は2030年頃、型式証明取得は2030年代初頭を見込む。

5. バッテリー技術:研究室の記録と量産の距離

白書が指摘した「バッテリーがアキレス腱」という構図は、2026年7月時点でも本質的に変わっていない。eVTOL各社が現在要求するバッテリー性能は概ねエネルギー密度300Wh/kg・サイクル寿命500回程度とされ、自動車用EVバッテリー(250〜300Wh/kg)と大差ない水準にとどまる。

実機での成果として最もよく引用されるのが、EHangが2024年11月13日に発表した全固体電池搭載機の飛行試験である。深圳のInx Energy製(リチウム金属負極・酸化物セラミック電解質、公称エネルギー密度480Wh/kg)を搭載したEH216-Sが48分10秒の連続飛行を記録し、従来比60〜90%の飛行時間延長を確認したとしている。ただしこれは実証機での結果であり、同社が当時掲げた「2025年末までに全固体電池の認証・量産適用」という目標が達成されたことを示す公表は、2026年7月時点で確認できない。

研究レベルでは、清華大学の張強教授らのチームが2025年9月にNature誌へ発表した成果が注目された。フッ素化ポリエーテル系ポリマー電解質とリチウム過剰系マンガン層状酸化物正極、アノードフリー構造を組み合わせた準固体(quasi-solid-state)パウチセルで、重量エネルギー密度604Wh/kg・体積エネルギー密度1,027Wh/Lを達成したものである。ただし、これは「全固体リチウム硫黄電池」ではなく準固体系である点、実験室規模のセルであってパック実装時には数値が下がる点、500サイクル後の容量維持率が72.1%とされる点には注意が必要だ。CATLも2025年5月時点で自社の全固体電池が最大500Wh/kg相当を達成可能としているが、こちらは独立検証を経ていない自社評価である。

業界の大勢としては、2026年型の機体は「半固体電池」を過渡的な選択肢として採用し、本格的な全固体電池の商用量産は2028〜2030年頃という見立てが標準的である。バッテリーがeVTOLの航続距離とペイロードを規定している以上、この時期が実質的に「都市内シャトルから都市間移動へ」の転換点になる。

6. 主要企業ステータス比較(2026年7月26日時点)

企業名 本拠地 認証・許認可の現状 商用化の現状 2026年後半の焦点
Joby Aviation 米国 4大レビュー中3番目のSR3監査完了。TIA用適合機が飛行開始 未商用。eIPPで最大11州の早期運航に参加予定 FAAパイロットによるTIA試験開始、トヨタとの量産体制構築
Archer Aviation 米国 4フェーズ中フェーズ3完了、フェーズ4進行中 未商用。有人トランジション飛行は未公開(無操縦では2024年に達成) 有人トランジション飛行の実施、UAE/米国での早期運航
EHang 中国 EH216-SはTC/PC/AC/OC全取得済み。VT35は基準策定段階 広州・合肥で有料運航を開始したが定常運航への移行は進行中。売上の約40%は空中メディア事業 商用運航の定常化、VT35型式証明、海外展開(タイ等)
AutoFlight 中国 貨物機CarryAllはTC/PC/AC取得済み。旅客機Prosperityは検証段階 貨物機は洋上輸送に実績。旅客機は未商用 Prosperityの型式証明、UAEでの認証取得
ARIDGE(旧XPeng AeroHT) 中国 飛行体の型式証明・生産証明はいずれも申請受理・審査中(取得済みではない) 未商用。予約受注7,000件超、うち中東600機 型式証明取得、先行納入開始
SkyDrive 日本 JCAB設計組織承認(ADO)取得済み。型式証明は申請段階 未商用。累計受注427機、実証飛行を継続中 大阪港バーティポート商用化、量産体制整備
Honda 日本 型式証明取得目標は2030年代初頭。実機大検証機で飛行試験開始 未商用。事業化目標は2030年頃 実機大検証機の試験継続、設計の具体化
Vertical Aerospace 英国 VX4は有人トランジション達成。量産機Valoは型式証明目標を2029年に再延期 未商用 Valoの詳細設計審査(CDR)完了
Volocopter 独(中国資本傘下) 2024年末に破産申請。資産は万豊グループが取得 独立企業としては実質消滅 Diamond Aircraft傘下での技術活用の行方
Lilium 2025年2月に2度目の破産、事業継続を断念 企業としては消滅。特許約300件はArcherが取得 (再建の見込みなし)

7. 2026年後半〜2027年の展望

白書が示した「2026年は完成の年ではなく、長期的な社会実装へのスタートライン」という見立ては、2026年後半に向けてより具体的な形を取りつつある。米国はJoby・Archerともに、型式証明の完全取得より先にeIPPという「型式証明前の限定運航」制度を使って実績づくりを始めており、完全な型式証明の取得は2026年末から2027年以降にずれ込む可能性が高い。中国は認証取得という点では依然として世界最先進だが、EHangの事例が示すとおり、認証と収益化の間には想定以上の距離がある。地方政府の認可、バーティポート整備、運航要員の確保といった実務的な制約が積み上がるためだ。欧州は独立系としてはVertical Aerospaceのみが残り、そのValoも2029年目標への後退に直面している。

日本はSkyDriveが2028年の商用化目標に向けて、認証(ADO取得)・インフラ(大阪港バーティポート)・オペレーター提携(JBZ、東北エアサービス等)の3方向で着実に地歩を固めており、Hondaのハイブリッド路線が2030年前後にもう一つの選択肢を提示する構図になっている。派手さはないが、認証と実運用体制を並行して積み上げるアプローチは、拙速な商用化がむしろ信頼を損なう可能性があるこの分野では合理的な選択と言える。

まとめ

2025年末の白書で描いた「米中が先行し、欧州が淘汰される」という構図は、2026年7月時点でほぼそのまま実現している。変わったのは、淘汰の帰結が明確になった点(Volocopterは中国資本傘下、Liliumは特許のみ現存)と、米中それぞれの「型式証明前でも飛ばす」実務的な工夫(米国のeIPP、中国の運航者証明先行取得モデル)が実際に動き始めた点である。

同時に見えてきたのは、認証を取ることと事業として成立させることが別物だという現実だ。世界で唯一有人eVTOLの全証明を揃えたEHangが、商用化の遅れを理由に大幅な業績予想の下方修正を受けているという事実は、この産業の難所が技術でも規制でもなく「日々飛ばし続けられる運航体制と、それを支える需要」にあることを示している。バッテリー技術という根本的な制約が解消されない限り、この構造は当面大きくは変わらないだろう。

AGIは「一人に一台」なのか——長期記憶と継続学習から考える、AIの提供形態

「AGIの実現には長期記憶と継続学習が前提だ」という見方があります。実際、Andrej Karpathy氏をはじめ複数の研究者が、継続学習の欠如をAGIへの主要な技術的障壁として挙げています。

では仮にそれが実現したとき、AIは個人・企業・団体ごとに「一体ずつ」配備されるのでしょうか。それとも記憶の部分だけが個別化され、本体は共有されるサービスとして提供されるのでしょうか。

結論から言えば、単一の勝者は存在しないというのが現時点での見立てです。ただし用途別の優劣にははっきりした傾向があり、それを決めるのは技術ではなく経済性と統制可能性です。以下、2025〜2026年の一次情報をもとに整理します。

本記事は未来予測を含みます。確立した専門家コンセンサスが存在しない領域のため、確認できる事実と筆者の推定を区別して記述しています。確率の数値は根拠に基づく推定であり、精密な予測ではありません。

1. 「記憶」を実装レイヤーに分解する

「長期記憶・継続学習」は単一の技術ではありません。コストが桁違いの層が積み重なったものです。この分解をしないと議論が噛み合いません。

代表的な実装 個別化コスト 消去・監査のしやすさ
対話文脈 コンテキストウィンドウ ほぼゼロ 容易(セッション終了で消える)
外部知識 RAG、ベクトルDB、GraphRAG 容易(レコード単位で削除・出典提示可)
エージェント記憶 構造化メモリストア、時間的知識グラフ、階層要約 低〜中 容易(項目単位で閲覧・編集可)
適応層 LoRA/アダプタ等のPEFT 差分(リビジョン)単位で管理・ロールバック可
基盤重み 継続事前学習、全パラメータ更新 極大 ほぼ不可能(特定の事実だけ消せない)

重要なのは、最下層以外はすべて共有基盤モデルの上で個別化できるという点です。ここが答えの分岐点になります。

2. 経済性が「共有基盤+個別アダプタ」を強く押す

推論経済の肝はマルチテナントでのバッチング効率です。テナントごとに重みが違えばGPUメモリに重みが張り付き、稼働率が崩壊します。だから素朴には「完全個別化=経済的に不利」となります。

ところが2023年のS-LoRA以降、共有ベース重み+小さなアダプタ差分を多数同時にサービングする技術が急速に成熟しました。2026年5月に公開されたMinT(Mind Lab)は、1Tパラメータ超の共有ベースモデル上でLoRAアダプタのライフサイクル(学習・エクスポート・評価・配信・ロールバック)を管理する基盤です。rank-1設定ではアダプタはベースモデルの1%未満に収まります。

ただし規模の解釈には注意が必要です。100万件のアダプタ・リビジョンを扱えるとされていますが、論文自身が「100万のアダプタが同時に常駐・稼働することを意味しない」と明記しています。実測は単一エンジンで10万規模までのスイープであり、100万リビジョンについては「構築・命名・監査し、限定された常駐ワーキングセットを通じて選択的に配信できる」ことを示したものです。またMinTは商用ベンダーによる論文であり、査読を経ていません。

より本記事の主題に近いのが、同チームが2026年6月に出した姉妹論文「On the Scaling of PEFT: Towards Million Personal Models of Trillion Parameters」です。ここではPEFTを「安価な代替手段」ではなく、共有基盤モデルの上に載る永続的なローカル状態として位置づけ直しています。アダプタが担うのは、嗜好・スキル・ツールの使い癖・記憶的な更新といった、まさに個体差にあたる情報です。

論文が使っている比喩は的確です。ヒトゲノムは99%以上が共有され、個体差は1%未満。同じように、99%以上を共有する基盤モデルと1%未満のアダプタで、何百万もの永続的な「個人モデル」が成立しうる——という構図です。

ただしこの論文の著者自身も、現段階は「実戦投入された商用規模の展開ではなく、まとまった研究青写真である」と率直に認めています。数百万の同時アクティブユーザーを実トラフィックで捌けば、ネットワークとコールドスタート遅延のボトルネックが必ず顔を出します。

3. 継続学習そのものの現在地

では、重みを直接更新し続ける本命の継続学習はどこまで来ているのか。

Google Researchは2024年末にTitansを、2025年11月にNeurIPS 2025でNested Learningを発表しました。後者はモデルを「入れ子になった多層の最適化問題群」として捉え直すもので、アーキテクチャと学習アルゴリズムを同じものの異なるレベルとみなす発想です。実証アーキテクチャHopeは、Titansの自己修正型の変種で、更新頻度の異なるモジュール群からなる連続体メモリシステム(CMS)を備えます。

もっとも、過大評価は禁物です。Google自身の表現は「破滅的忘却のような問題の解決に資する」であり、著者らは継続学習を解決したとは主張していません。Hopeの実験結果も、長文脈推論や記憶集約型タスクで「控えめだが有望」という水準にとどまります。大規模実運用で忘却が克服されたわけではなく、現時点では概念実証と理解しておくべきです。

より根本的な立場もあります。2024年チューリング賞受賞者のRichard Sutton氏は2026年7月、John Carmack氏のKeen Technologiesを離れ、トロントにOak Labを設立しました。現在の深層学習手法を「弱く非効率で、小手先の調整ではなく根本的に新しい発想と全面的な作り直しが必要」と断じ、データを保存・再生することなく実時間で学習し続けるエージェントを目指すとしています。長期目標は、1兆パラメータのエージェントを20ワットで実時間学習・計画させること。

ただしOak Labは基礎研究段階で、製品も公表された資金調達額もロードマップもありません。ここは「有力な異論が存在する」という理解にとどめるのが妥当でしょう。

4. 市場はどちらに動いているか

興味深いことに、実際の製品動向は「重みを個別化する」方向から明確に離れています。

OpenAIはfine-tuning APIを畳んでいます。公式のDeprecationsページによれば、2026年5月7日にセルフサービス型fine-tuningプラットフォームの提供縮小を通知。同年7月2日に制限が強化され、2027年1月6日には既存の稼働中顧客も新規の学習ジョブを作成できなくなります。学習済みモデルでの推論は、ベースモデルが廃止されるまでは継続します。直接の代替サービスは発表されていません。

背景としてOpenAIは、新しいベースモデルが指示やフォーマットの遵守にはるかに優れており、fine-tuningの必要性が下がったと説明しています。オープンウェイトモデル側ではLoRA/QLoRAは健在で、Google Vertex AIやAmazon Bedrock経由のマネージドfine-tuningも継続しています。つまり「fine-tuningの終わり」ではなく、最大手APIにおける重み個別化からの撤退と読むのが正確です。

その一方で記憶機能への投資は加速しています。OpenAIは2026年6月4日、"Dreaming V3" と呼ばれる新メモリアーキテクチャの展開を開始しました。手動で保存するメモリ一覧を廃し、過去の会話全体を読み込んで背景プロセスがユーザー像を合成・更新し続ける仕組みです。時間経過も追跡し、「7月にシンガポールに行く予定」という記憶を、旅行終了後に「2026年7月にシンガポールへ行った」と自動で書き換えます。

OpenAI社内評価(自社ベンチマーク) 2024年版 2025年版 2026年版
事実の想起 41.5% 67.9% 82.8%
嗜好・制約の遵守 31.4% 55.3% 71.3%
時間経過後の正確さ 9.4% 52.2% 75.1%

これらはすべてOpenAIの自社評価であり、方法論やデータセットは公開されていません。独立検証も済んでいないため、方向性のシグナルとして読むべき数字です。とはいえ「時間経過後の正確さ」が9.4%から75.1%へ動いたという主張は、従来の記憶機能が構造的に陳腐化していたことの率直な自認でもあります。配信コストも約5分の1になり、無料プランへの展開が可能になったとされています。

Anthropicのアプローチは対照的です。2025年9月11日にTeam/Enterpriseプラン向けにメモリ機能を提供開始、10月23日にPro/Maxへ、2026年3月2日には無料プランにも拡大しました。特徴はプロジェクト単位で記憶を分離することと、明示的なオプトイン設計、そして記憶をプロジェクト単位でダウンロードしてChatGPTやGeminiへ移せる点です(インポートは実験的機能)。相互運用性を初期から意識した設計と言えます。

専業の記憶レイヤーも市場を形成しました。Mem0は2025年10月28日に総額2400万ドル(シード390万ドル+シリーズA 2000万ドル)の調達を発表。API呼び出しは2025年Q1の3500万件からQ3には1億8600万件へ伸び、AWSは自社Agent SDKの排他的メモリプロバイダとしてMem0を採用しました。共同創業者のTaranjeet Singh氏は、大手AIラボが記憶システムを構築する動機は持っていても、それを可搬・相互運用可能にする動機はほとんど持っていないと指摘しています。この指摘は後述のロックイン論点に直結します。

5. 実務上は「重みに焼かない」ことが要件になる

技術的に継続学習が可能になったとしても、企業システムとしては別の力学が働きます。記憶をパラメータに焼き込むと、以下の性質が付いてきます。

  • 消せない——削除権への対応、退職者データの扱い、誤情報混入時のロールバックが原理的に困難
  • 監査できない——なぜその出力になったかの説明責任、根拠文書の提示ができない
  • 再現できない——「いつの個体か」で挙動が変わり、受け入れテストの前提が崩れる
  • 壊れうる——破滅的忘却、テナント固有データによる汎用性能の劣化

規制産業ほど「記憶は外部化・構造化して、参照可能かつ削除可能な形で持つ」ことが要件そのものになります。この観点は決して枝葉ではありません。Lenovo/IDCのCIO Playbook 2026によれば、AI導入の後期段階にある組織が60%に達する一方、包括的なAIガバナンス枠組みを持つ組織は27%にとどまります。統制の整備が能力の展開に追いついていない状況で、監査不能なアーキテクチャを選ぶ判断は取りにくいはずです。

6. それでも完全個別配備が残る領域

経済性と統制可能性が共有基盤を押す一方、逆向きの力も明確に存在します。

  • データ主権・機密性——防衛、政府、金融、医療。学習データを外に出せない
  • 学習データ自体が競争優位——製造ノウハウ、独自プロセス。共有基盤に還流させたくない
  • 物理制約——オフライン環境、レイテンシ要件

日本のソブリンAIの取り組みは、まさにこの層に位置します。デジタル庁のガバメントAI「源内」は2026年4月24日、Webインターフェース部分のソースコードと一部AIアプリの開発テンプレートを、商用利用可能なライセンス(ソフトウェアはMIT中心、ドキュメントはCC BY 4.0)でGitHubに公開しました。全府省庁の約18万人を対象とした大規模実証は2026年5月28日に開始されています。国産・海外を含む複数のLLMを切り替えて利用できる構成で、tsuzumi 2やPLaMo 2.0 Primeなどが採用されています。

江戸時代の発明家・平賀源内に由来する命名は象徴的で、この設計はベンダーロックインを構造から断つことを明確な目的としています。自治体が同じ基盤を再利用でき、重複開発を避けられる。国レベルで「個別配備しつつロックインは避ける」という解を志向していると読めます。

計算基盤側では、産総研のABCI 3.0が2025年1月に本格提供を開始しています。NVIDIA H200を6,128基(766ノード)搭載し、ピーク性能は半精度で6.2エクサフロップス。整備は日本ヒューレット・パッカードが348.7億円で落札しました。これは経済産業省による約1,566億円規模の計算基盤整備イニシアチブの一部です。

7. 6つの実装パターンと見立て

ここまでを踏まえ、想定される提供形態を6つに整理します。確率はいずれも筆者の推定であり、精密な予測ではありません。

パターン 技術的実現性 経済性 主戦場と見立て(推定)
(a) 完全個別配備
組織ごとに専用インスタンス
実現済み。蒸留した中小規模モデルなら単一GPU級でも運用可能 バッチング効率を放棄するため汎用用途では不利 政府・防衛で支配的(60〜70%)/規制産業で中(30〜40%)/消費者向けは10%未満
(b) 共有基盤+外部記憶のみ
RAG/メモリストア
実現済み・製品化済み 最も安価。削除権・監査要件との相性も最良 消費者向けで支配的(50〜60%)/一般企業SaaSでも同程度
(c) 共有基盤+軽量アダプタ+外部記憶 S-LoRA〜MinTで実証段階。1T級ベース上でも成立 共有ベースを崩さないため成立。ただし運用複雑度は上がる 中堅〜大企業で有力(40〜50%)。オープンウェイト側で拡大中
(d) 階層モデル
基盤+業界層+組織層+個人層
階層型アダプタの研究が進行中。統合設計は未成熟 共有度が高く効率的だが、層間の責任分界が難所 規制産業・業界コンソーシアムで中(30〜40%)
(e) ハイブリッド/フェデレーテッド 実現済み。オンプレ+クラウド併用が既に商用化 主権とスケール経済の折衷。運用コストは高め 規制産業・多国籍企業で有力(40%前後)
(f) 自律継続学習による「個体化」 研究段階。Nested LearningやOaKアーキテクチャが挑戦中 未知。成立すれば経済構造そのものが変わる 2030年代前半までの一般化は限定的(20%未満)

8. 時間軸で見た変化

短中期(今後2〜5年)

パターン(b)と(c)が主流を形成します。すでに製品化されている記憶機能、RAG、メモリレイヤーが積み上がり、RAGはGraphRAGやエージェンティックRAGへ進化して「知識ランタイム」化していきます。重み個別化は最大手APIから後退し、オープンウェイト+LoRAという別ルートに移動します。この局面での競争軸は、モデルの賢さより記憶の運用品質——鮮度、削除可能性、監査可能性——になるはずです。

長期(5〜15年以降)

継続学習が実用水準に達した場合、論点は「個体化」に移ります。同じベンダーの同じモデルでも、育て方によって組織間に能力差が出る。すると「引き継ぎ」「配置転換」「離職に相当する喪失」といった、人材マネジメントとほぼ同型の概念が発生します。AIが費用ではなく資産として扱われ、減価償却ではなく育成投資として語られるようになるでしょう。

SIerやシステムインテグレータのビジネスモデルへの影響も大きく、重心は「導入」から「育成・運用」へ移ります。ただしここは筆者の推論であり、現時点で確立した業界データがあるわけではありません。

9. 次の主戦場は「記憶のポータビリティ」

この構成が現実的だとすると、避けて通れない論点が浮上します。

基盤モデルは数か月で世代交代しますが、蓄積された組織記憶は資産です。モデルを乗り換えたとき、その記憶を持ち出せるのか。フォーマットは標準化されるのか。前述のMem0創業者の指摘——大手ラボに記憶を可搬にする動機はない——は、この問題の本質を突いています。

現状、MCP(Model Context Protocol)はツールアクセスを標準化しましたが、記憶の永続化と移転は明示的に扱っていません。Anthropicがプロジェクト単位の記憶ダウンロードと他サービスへの移行を実験的に提供しているのは、この空白に対する数少ない具体的な動きです。

調達の観点で言えば、記憶を重みに焼くアーキテクチャは「乗り換え不能な状態」を意味します。RFPで問うべきは「学習できるか」ではなく「学習させたものを取り出せるか、消せるか、説明できるか」でしょう。

まとめ

「AGIは個人や組織ごとに配備されるのか」という問いに対する現時点の答えは、用途によって異なり、当面は共有基盤+個別記憶が優勢です。

興味深いのは、その理由が技術的可能性ではないことです。PEFTの研究は「1%未満のアダプタで数百万の個人モデルを成立させる」という方向を示し、継続学習の研究も着実に前進しています。それでも産業実装が外部記憶に寄るのは、統制可能性という要件が技術的可能性より先に効くからです。消せること、説明できること、再現できること。これらは規制産業では機能要件そのものです。

ただしこの前提は、経験からの重み更新こそがAGIの本質であり外部記憶では代替不能だと判明すれば崩れます。Sutton氏のような有力な異論は現に存在します。その場合、私たちは組織ごとに「個体」を育てる世界に入り、AIの調達は採用に、運用は育成に、乗り換えは離職に似た問題になるでしょう。

どちらに転ぶかは未解決の実証問題です。当面の実務的な指針としては、記憶を取り出せる形で持っておくこと——これに尽きるように思います。

金曜日, 7月 24, 2026

AGI開発競争2026:資本の異次元集中と中国オープンウェイトの逆襲

「AGI(汎用人工知能)」という言葉が、いよいよ単なるビジョンから具体的な企業戦略・資本市場の駆け引きの言葉へと変わってきた。今回は2026年7月時点で判明している、AGI開発を明示的な使命に掲げる主要企業・組織を、ファクトチェックを行ったうえで整理する。評価額や資金調達額は変動が激しい分野のため、可能な限り一次報道(Bloomberg、CNBC、TechCrunch、Fortune等)で裏付けが取れたものを中心に扱う。

まず結論:資本の異次元集中と中国オープンウェイトの台頭

2026年に入ってからのAGI開発競争を一言で表すなら、「資本の桁違いの集中」と「中国オープンウェイト勢の急伸」の二つに尽きる。OpenAIは2026年3月末に1,220億ドルを調達し評価額8,520億ドルへ。そのわずか2カ月後、Anthropicが650億ドルのシリーズHで評価額9,650億ドルとなり、一時的にOpenAIを逆転した。両社ともIPO準備に入っており、Anthropicは6月1日に米SECへ機密裏にS-1を提出、OpenAIも年内上場を目指すと報じられている。

一方、xAIは2026年2月にSpaceXへ吸収合併され、合算評価額は1.25兆ドルという史上最大の民間企業合併となった。中国勢では、DeepSeekが7月にTencentとCATL主導で約74億ドルを調達し評価額約520億ドルに到達。Zhipu AI(Z.ai)は1月の香港上場後、GLM-5.2の性能を追い風に時価総額がHK$1兆(約1,280億ドル)を突破するなど、急激な株価上昇を見せている。

米国の主要AGIラボ

まず、AGIを明示的な使命に掲げる米国の主要企業を一覧にまとめる。

企業 創業・代表者 直近評価額・資金 2026年の主な動き
OpenAI 2015年設立/CEO Sam Altman 8,520億ドル(3月末、1,220億ドル調達) 10月の資本再編完了、Microsoftとの契約改定でAGI宣言権を独立パネルへ移管。年内IPO準備
Anthropic 2021年設立/CEO Dario Amodei 9,650億ドル(5月、650億ドルのシリーズH) 6月1日に機密裏にIPO申請。年換算収益470億ドル突破、OpenAIより評価額で先行
xAI(SpaceX傘下) 2023年設立/Elon Musk 合算1.25兆ドル(2月にSpaceXへ統合) 独立企業として消滅。SpaceXは6月にNasdaq上場。共同創業者11名全員が退社
Google DeepMind 2023年統合/CEO Demis Hassabis Alphabet傘下(非開示) Gemini 3公開。7月のGoogle Q2決算でGeminiアプリが月間9.5億ユーザー超と発表
Meta Superintelligence Labs 2025年6月設立/Alexandr Wang Meta社内(非開示) 4月にMuse Sparkを発表。3月に組織再編、Yann LeCunは11月に退社しAMI Labsを設立

OpenAIとMicrosoftの契約改定は特に注目に値する。従来はOpenAI取締役会がAGI到達を宣言する権限を持ち、それがMicrosoftのIP利用権に影響する構造だったが、2025年10月の再編で「AGI宣言の検証」は独立した専門家パネルへ移管された。AGIという言葉が、技術的達成の指標である以上に、数千億ドル規模の契約上のトリガーになっている実態がうかがえる。

「別の山を登る」少数精鋭ラボ

大手とは対照的に、あえて製品もAPIも持たず研究に専念する小規模ラボも存在する。Ilya Sutskever(元OpenAI主任科学者)が率いるSafe Superintelligence Inc.(SSI)は、2024年設立以来ただ一つ「安全な超知能」だけを目標に掲げ、収益ゼロのまま評価額320億ドルに達した。Sutskeverは「事前学習の時代は終わった」と述べ、スケーリング一辺倒からの転換を主張している。

同様に、元OpenAI CTOのMira Muratiが率いるThinking Machines Labは、2025年7月に史上最大級のシード20億ドルを調達し評価額120億ドルに。ファインチューニング用API「Tinker」をリリースしたが、2025年11月に目指した約500億ドルへの追加調達は不成立に終わり、評価額は据え置かれたままとなっている。

中国:オープンウェイト戦略でOpenRouterシェアを逆転

2026年最大のサプライズは、中国勢のオープンウェイトモデルが開発者向けAPI市場で米国勢を上回りつつあることだろう。Bloombergなどの集計によれば、米大手(Google・OpenAI・Anthropic)のOpenRouterトークンシェアは2025年6月の約70%から2026年6月には約30%まで低下し、中国勢の合算シェアは上位10プロバイダーの約44%に達した。DeepSeekは単独で16.3%を占め最大プロバイダーとなっている。

企業 代表モデル(2026年) 直近評価額 備考
DeepSeek V4(1.6兆パラメータMoE、4月公開) 約520億ドル(7月、初の外部調達) Tencent・CATLが主導。R2推論モデルは未公開
Zhipu AI(Z.ai) GLM-5.2(100万トークン対応) 時価総額HK$1兆超(6月、香港上場済) 1月上場、IPO価格から株価1,700%超上昇
Moonshot AI(Kimi) Kimi K3(2.8兆パラメータ、7月公開) 約200億ドル(5月)、直近30億ドル超を交渉中 Meituan系Long-Zが主導。Alibabaが筆頭外部株主

ただし中国勢の評価額急騰には注意も必要だ。Zhipuの株価は年初来2,400%超の上昇を見せており、JPMorganなど強気な見方がある一方、赤字が続いたまま時価総額だけが先行している面は否めない。また学習インフラは、DeepSeek V4がHuawei Ascendでの推論最適化を進めている一方、学習自体は依然Nvidia製チップに依存しているなど、米輸出規制の影響が完全には解消していない点も実態として押さえておきたい。

日本・アジア・中東のソブリンAI

AGIレースは米中の話だけではない。日本ではSakana AI(東京、2023年設立)が2025年11月にシリーズB 135百万ドルを調達し評価額26.5億ドルに到達、日本の非上場スタートアップとして史上最高額となった。MUFG・Citigroup・In-Q-Tel(CIAのベンチャー部門)などが出資し、「ソブリンAI」を掲げて金融・防衛・政府向けに展開を進めている。

韓国では科学ICT省主導で「Sovereign AI Foundation Model」プロジェクトが進行中で、Naver・Upstage・SK Telecom・NC AI・LG AI Researchの5チームから、2026年1月の一次評価でLG AI Research・SK Telecom・Upstageが通過した。中東ではUAEのG42がOpenAI・Oracle・Nvidia・SoftBankと共同で1GW規模の「Stargate UAE」を進めており、第1期は2026年第3四半期の稼働を予定している。欧州ではMistral AIがASMLを筆頭株主に迎え、評価額200億ユーロ規模での追加調達を交渉中だ。

「AGI」の定義は誰も合意していない

ここまで各社の動きを見てきたが、そもそも「AGI」に業界共通の定義は存在しない。OpenAIは「経済的に価値のあるほとんどの労働で人間を上回る高度に自律的なシステム」と定義するが、これは実質的に契約・投資判断のための経済的な線引きに近い。研究者の間でも見解は大きく割れている。Google DeepMindのDemis Hassabisは「今後5〜10年で出現し始める」としつつ、2026年5月には2029〜2030年という時期も口にしている。一方、Meta出身のYann LeCunは「現行のLLMアーキテクチャの延長線上にAGIはない」と明確に否定的だ。

AI Impactsが実施した研究者調査(回答者2,778人)では、機械があらゆるタスクで人間を上回る確率が50%となる時期の中央値は2047年と推計されており、2022年調査時点の2060年から13年前倒しになっている。ただしこれもあくまで研究者の主観的予測であり、実現を保証するものではない。「AGI」という言葉は、技術的なマイルストーンであると同時に、資金調達や契約交渉を有利に進めるための宣伝文句としても機能している側面がある点は、読み手として意識しておきたい。

まとめ

2026年のAGI開発競争は、(1)OpenAI・Anthropicを中心とした資本の異次元集中とIPOレース、(2)xAIのSpaceX統合に象徴される垂直統合、(3)中国オープンウェイト勢のシェア逆転、(4)SSIやThinking Machines Labのような「スケーリング一辺倒からの転換」を模索する少数精鋭ラボ、(5)日韓・中東・欧州によるソブリンAIの追求、という複数の力学が同時進行している。評価額や資金調達額は今後も数カ月単位で更新されていく可能性が高く、特に中国勢の株価水準や、OpenAI・Anthropicの上場後の実際の時価総額には注視が必要だろう。

※本稿の数値・事実関係は2026年7月24日時点の複数の一次報道(Bloomberg、CNBC、TechCrunch、Fortune、Caixin Global、South China Morning Post等)に基づきファクトチェックを行ったものです。評価額は非公開企業の私募ラウンドに基づくものが多く、変動・訂正の可能性があります。

月曜日, 7月 20, 2026

中国製フロンティアLLMは米国に追いついたのか——Kimi K3・GLM-5.2・DeepSeek V4が塗り替える世界地図

この数日、中国のAI企業から立て続けに超大型LLMが発表された。Moonshot AIの「Kimi K3」、Alibabaの「Qwen3.8」、そして少し前にはZ.ai(旧Zhipu AI)の「GLM-5.2」、DeepSeekの「V4」——いずれも「世界最大級のオープンウェイトモデル」を謳う顔ぶれだ。今回は「中国モデルは米国フロンティアに追いついたのか」「世界に広まるのか」「今後どうなるのか」という3つの論点を軸に、可能な限り一次情報に当たってファクトチェックしたうえでまとめてみた。日本だけでなく、韓国・台湾・インド・東南アジア・欧州・中東の動向にも触れている。

結論を先に言うと、性能面では「ほぼ追いついたが首位ではない」、普及面では「西側の草の根から急速に浸透しているが、逆風も強まっている」、そして今後は「オープン(中国)対クローズド(米国)の構造的分岐」が世界各地で異なる形の摩擦を生む——という絵になった。中国自身が自国の最先端モデルの海外提供を制限しようとしているという、やや意外な最新報道もある。長くなるが、順を追って見ていきたい。

論点1:中国のモデルは米国のフロンティアモデルに追いついたのか

まず全体像から。ここ1週間ほどは記録的な集中リリース期だった。Artificial Analysisによれば「8日間で4つのフロンティア級リリース」(Grok 4.5、GPT-5.6、Meta Muse Spark 1.1、Kimi K3)があり、同社のIntelligence Indexで50点を超えるモデルを持つラボは6月初旬の2社から6社に急増、そのうち2社(Moonshot AI、Z.ai)が中国勢だ。

モデル 規模・アーキテクチャ 発表日 ライセンス 独立評価での位置づけ
Kimi K3(Moonshot AI) 2.8兆パラメータMoE、896エキスパート中16基活性、1Mコンテキスト 2026年7月16日 Modified MIT(重みは7月27日公開予定) AA Intelligence Index 57.11(3〜4位)/LMArena総合 当初#9・Elo1486(速報値、投票増加で後日#6・1500まで上昇)/Frontend Code Arenaは#1
Qwen3.8(Alibaba) 2.4兆パラメータ(詳細未公表) 2026年7月19日 オープンウェイト予定(未公開) 第三者評価なし。自社発表のみで「Fable 5に次ぐ」と主張
GLM-5.2(Z.ai/Zhipu) 744〜753BパラメータMoE、活性約40B、1Mコンテキスト 2026年6月13日(重み6/16〜17公開) MIT NIST CAISI「公開時点でおそらく最も高性能なオープンウェイトモデル」/全体能力はGPT-5.2(2025年12月)相当と評価/AA Index 51(オープンウェイト最高)
DeepSeek V4 Pro/Flash Pro:1.6兆(活性49B)/Flash:284B(活性13B)、1Mコンテキスト、Huawei Ascend Day0対応 2026年4月24日 MIT NIST CAISI「フロンティアから約8か月遅れ、GPT-5相当」(DeepSeek側は「2か月遅れ」と反論)
MiniMax M3/Tencent Hy3 M3:約428B/Hy3:295B、いずれもMoE・1Mコンテキスト 6月1日/7月6日 オープンウェイト(Hy3はApache 2.0) 中堅オープンウェイト層に位置。単独首位級ではない

数字だけ見ると「もう追いついた」ように見えるが、評価機関によって結論が割れているのが実情だ。Artificial AnalysisはKimi K3を「Opus 4.8やGPT-5.5と同水準、Fable 5とGPT-5.6 Solには一歩及ばず」と評価する一方、NIST CAISIは4月に評価したDeepSeek V4を「フロンティアより約8か月遅れ、8か月前のGPT-5相当」とかなり厳しく評価した(DeepSeek側の開発者は「gapなんてない」とSNSで反論している)。LMArenaの総合Text Arenaでは、Kimi K3は速報値で#9(Elo 1486)、上位10モデルはわずか約20 Eloの中に密集しており、統計的にはほぼ団子状態と言っていい。ただしKimi K3は「Preliminary」ステータスで投票数がまだ少なく、順位は数週間単位で動く可能性がある。

もう一つ見逃せないのがベンチマークの信頼性そのものへの懸念だ。Claude Opus 4.5はSWE-bench Verifiedで80.9%を記録する一方、コンタミネーション(汚染)耐性を高めたSWE-bench Proでは45.9%まで落ち込む。研究ではラボの自己申告スコアと実運用能力の間に37%もの乖離が報告されている例もある。Kimi K3の公式ベンチマークも自社の「KimiCode」環境で測定されており、Claude Code経由のFable 5やCodex経由のGPT-5.6 Solとは足場が異なる点は割り引いて見る必要がある。加えて興味深いのは、Kimi K3はAA-Omniscience(知識の正確性を測る指標)で正答率が33%→46%に上がった一方、ハルシネーション率も39%→51%に上昇している点だ。「間違いも増えたが正解も増えた」というのは、実運用では扱いが難しい特性と言える。

総括すると、コーディングやフロントエンド生成など特定領域では中国勢が米国トップを上回る場面が出てきているが、総合知性の指標では依然として1〜2世代の差があり、その差の大きさは評価機関によって「数点」から「8か月」までブレがある、というのが最も正確な言い方だろう。

論点2:中国のモデルは世界中で広まるのか——地域別に見る

普及面では、性能の追い上げ以上に劇的な変化が起きている。Hugging Face公式レポート「State of Open Source on Hugging Face: Spring 2026」(2026年3月17日公開)は、過去1年間で中国製モデルがダウンロード数全体の41%を占め、米国(36.5%)を初めて逆転したと報告している。Alibaba単独の派生モデル数がGoogleとMetaの合計を上回るという。OpenRouterでも中国製オープンウェイトが週間トークン消費量の30〜46%(直近ピーク)を占め、上位6モデルを独占する週もあった。ただし、この流れは地域によって受け止め方がまったく違う。

米国:コスト起点で静かに浸透、しかし政治的逆風

Airbnb・ShopifyがAlibaba Qwenを、CursorがMoonshot Kimiを採用。CoinbaseはGLM-5.2とKimi K2.7で1,200のAIエージェントを運用しAI費用を半減させ、AIスタートアップLindyは推論費が人件費を上回ったためDeepSeek V4に全面移行した。DeepSeek V4-Flashの入力単価は百万トークンあたり$0.14程度と、GPT-5.5系($5前後)の1/30程度で済む。一方で米国務省が7月8日、中国製AI使用への「深刻な懸念」を表明し、下院はAirbnbとAnysphere(Cursor運営元)を調査対象とした。Booz AllenやNIST CAISIは、GLM-5.2が「エージェント型サイバー攻撃コードの開発を許容してしまう」といった安全策の甘さも指摘している。

台湾:政府レベルでの明確な締め出し

台湾は他地域よりかなり踏み込んだ対応を取っている。2025年1月末の時点で早くもDeepSeekの政府部門利用を禁止し、2025年11月には国家安全局(NSB)の調査を経て、DeepSeek・Doubao(ByteDance)・文心一言/Ernie(Baidu)・通義千問/Qwen(Alibaba)・元宝/Yuanbao(Tencent)という主要な中国製AIモデル群を包括的に政府機関での使用禁止対象とした。理由は中国共産党の主張に沿ったコンテンツ生成や、歴史認識の歪曲リスクなど。台湾は地政学的な立場上、中国製AIに対して世界で最も警戒的な地域の一つと言える。

韓国:規制と実利のはざま

韓国は2025年2月にDeepSeekの新規ダウンロードを一時停止させ(個人情報保護規則違反を理由に)、政府機関での利用も制限した経緯がある。ただし韓国政府自身も「AI基本法」を2026年に施行し、「Republic of Korea Artificial Intelligence Action Plan」(2026〜2028年)のもとで99件の実行タスクを掲げるなど、独自路線の強化に軸足を置く。他方でSamsungやSK Hynixは中国のAI企業にメモリチップを供給する側でもあり、規制と経済的つながりが同時並行で進むという、やや矛盾を孕んだ構図になっている。

インド・東南アジア:コスト起点の実利採用が先行

インドは「IndiaAI Mission」で自国LLM育成に約1,250億円規模を投じ、2026年2月には自前の主権LLMを発表しているが、開発者レベルでは中国製オープンウェイトの利用も広がっている(一部報道ではDeepSeekが制限対象に含まれるとする情報もあるが、実際の運用は流動的)。東南アジアでは、ASEAN各国が単独でフロンティアモデルを開発する規模を持たないため、銀行・保険など規制の厳しい業種を中心に「自社インフラ上でオープンウェイトを自己ホストする」形での採用が先行している。データが外部に出ない形であれば、中国製であっても実利を優先するという判断だ。シンガポールは2026年1月に世界初の「Agentic AIフレームワーク」を打ち出すなど、モデルそのものより「信頼できるAIハブ」としての立ち位置を志向している。なお、AlibabaやByteDanceが米国の対中規制を回避する目的で東南アジアのデータセンターを使って学習を行っているという報道(Financial Times、2026年)もあり、東南アジアは「利用地域」であると同時に「学習インフラの迂回地」にもなりつつある。

欧州:規制先進地域だが、フロンティアの「主権の空白」に直面

欧州はEU AI Actという世界初の包括的AI法制を持ち、2026年8月には本格的な罰則執行フェーズに入る。フランス発のMistral AIが「欧州のOpenAI」として14億ドル規模の資金調達(ASMLからの出資を含む)を進め、パリに13,800基のNVIDIA GB300を備えたデータセンターを整備中だ。しかしMistralの最上位モデルはオープンウェイトではなく商用APIが中心で、フロンティア級の完全オープンモデルという意味では、依然としてGLM-5.2やDeepSeek V4のような中国製MITライセンスモデルが「唯一の実用的な選択肢」になっているという厳しい指摘もある(Centre for Future Generationsのレポート)。Mistral CEOのArthur Mensch氏自身、「DeepSeekはオープンソース陣営にとって素晴らしい出来事だ」「DeepSeekは“中国のMistral”のようなものだ」と好意的にコメントしている。一方で、欧州は世界のAI計算資源のわずか5〜6%しか保有せず(米国は約75%)、AIスタートアップ資金調達でも世界の6%を占めるに過ぎないという構造的な弱さがある。オーストリアは2026年6月、Claude Fable 5の一時提供停止(米国の輸出規制によるもの)を受けて「Anthropicを欧州域内でホストできないか」とEU欧州委員会に打診するなど、米中いずれにも依存しない「第三の道」を模索する動きも出ている。GDPRとの整合性の観点からは、Mistralの商用APIか、欧州インフラ上でのオープンウェイト自己ホスティングかという二択に事実上絞られる、というのが実務者向けガイドの共通見解だ。

中東:自前モデルとの共存、価格圧力への対応

UAEは2023年からTII(Technology Innovation Institute)の「Falcon」シリーズとMBZUAIの「Jais」(アラビア語特化)で独自路線を進めてきたが、Falconは2023年時点でHugging Face最上位だったにもかかわらず、2026年にはトップ500圏外に後退したとBloombergが報じている。UAE高官(Faisal Al Bannai氏)はDeepSeekの登場を「素晴らしいニュースだ、この競争はまだ始まったばかりだと証明した」と歓迎し、DeepSeekに着想を得た新モデルの開発方針を表明した実績もある。サウジアラビアは政府系ファンドPIF傘下の「HUMAIN」を通じてフルスタックAI開発に乗り出し、データセンターに数十億ドル規模を投じている。またMBZUAIはAlibabaのQwen 2.5をベースに開発した「K2 Think」(320億パラメータ、Cerebras製ハードウェア上で稼働)を2025年9月に発表しており、中国のオープンウェイト技術を土台にしつつ自国仕様に仕立てる「ハイブリッド路線」が中東の実質的な戦略になっている。同時に、UAEはNVIDIAチップへのアクセスや米国との関係も重視しており、米中どちらか一方に完全に振り切ることのない「バランス外交」を続けている。

日本:Noetraという新たな座標軸

日本ではこれまでも複数のベンダーが独自の日本語特化LLM開発を進めてきたが、2026年7月には国レベルでより大きな動きがあった。ソフトバンク主導・NEC/ソニーグループ/ホンダなど44社が出資する新会社「Noetra」が発足し、経済産業省・NEDOが2026年度だけで3,873億円(5年間で最大1兆円規模)を投じる「フィジカルAI」(ロボット・工場・車両向け実世界理解AI)開発プロジェクトが本格始動した。出資企業には製造業を中心に28社、非製造業16社が名を連ねており、半導体・自動車・電機など日本の主要産業が横断的に参加する布陣だ。契約は当面2026・2027年度分のみで、以降は毎年のステージゲート審査で継続が判断される仕組みになっている。狙いは製造現場の機微データを海外に出さずに活用できる基盤を持つことにあり、汎用業務は海外LLM、機密性の高い現場データは国産・閉域型基盤という「ハイブリッド共存」が現実的な向き合い方になる、という指摘は業界解説でも共通している。国も専用計算拠点(堺市)にNVIDIAの次世代AI半導体「Rubin」を約27,500基調達する計画で、これは国家調達としては世界最大級の規模になるという。

論点3:今後どのような展開になるのか

米中チップ競争は「締め付けと迂回」のいたちごっこが続く

NVIDIAのJensen Huang CEOは2025年10月6日、Citadel Securitiesのイベントで「現時点で我々は100%中国から締め出されている」「95%あったシェアが0%になった」と発言した。2026年5月31日にはBISが域外規制を強化し、中国本社を親会社に持つ企業は、たとえ海外子会社であっても高性能チップの受け取りにライセンスが必要という指針を再確認している(なお2025年11月に一度緩和方向の「Affiliates Rule」1年停止措置が取られた経緯もあり、米国の対中チップ政策は緩和と強化を繰り返す「振り子」状態にある)。一方、中国はHuawei Ascendでのハード自給を進めており、DeepSeek V4はAscendでのDay 0対応を果たし、GLM-5は10万個のAscend 910Bで学習された。ただしAscend 910Cの実性能はH100の約60%程度、HBM(メモリ)はCXMT製が主力でボトルネックになっているとの分析もあり、中国の計算資源が米国に完全に追いつくのはまだ先という見方が優勢だ。

意外な展開:中国自身が「自国最強モデルの海外流出」を制限しようとしている

今回の調査で最も興味深かった最新動向がこれだ。Reutersは2026年7月7日、中国商務部がAlibaba・ByteDance・Z.aiと会合を持ち、まだ未発表のモデルを含む最先端AIモデルへの海外アクセスを制限する案を検討していると報じた。対象にはクローズドモデルだけでなくオープンウェイトモデル(Qwen、Doubao、GLM-5.2など)も含まれる可能性があり、選択肢としては「一般公開の禁止」や「国内利用限定」まで挙がっているという。狙いの一つには、AI技術の流出・窃取を国家安全保障上の犯罪として扱う法整備や、AIスタートアップへの投資家を制限する案も含まれる。まだ決定事項ではなく、対象は将来モデルに限られる可能性もあり、実施時期も未定とされるが、これが実現すれば「安くて高性能な中国製オープンウェイトが西側に無料で流れ込む」という、ここまで見てきた普及構造そのものが根本から揺らぐことになる。背景には、米国が2026年6月にClaude Fable 5・Mythos 5の提供を安全保障上の理由で一時停止した動きに、中国側が対称的に反応している側面もありそうだ(中国の国営メディアや360の周鴻禕氏は「中国版Mythos」の必要性を公然と主張している)。

オープン対クローズドの戦略分岐——「Model Protection Coalition」という新語も

OpenAI・Anthropic・Googleが「Model Protection Coalition」を形成し、モデルの重みを半導体並みに厳重管理する方向に進む一方、Z.aiやMiniMaxは完全オープンソース路線を貫いている。AnthropicのDario Amodei氏はオープンウェイト路線を「非常に危険な道」と批判し、対するHugging FaceのClem Delangue氏は「閉じたところで安全になるわけではない、力の非対称を生むだけだ」と反論する——この対立軸は当面解消しそうにない。中国側は「AI Plus Initiative」(2025年8月の国務院方針)を国家戦略としてオープンソース普及を明文化しており、半導体規制の回避、ソフトパワー獲得、西側市場への足がかりという複合的な狙いがあるとされる。

また、Anthropicは2026年2月23日、DeepSeek・Moonshot・MiniMaxの3社が約24,000の不正アカウントと1,600万件超のClaudeとのやり取りを通じて「蒸留攻撃」を行ったと公式に非難した(MiniMaxが1,300万件超と最も多い)。OpenAIも同様の非難を先に行っている。この件は当該3社からの公式な反論が出ていない状態で、蒸留自体は業界で広く使われる正当な手法でもあるため、「合法的な利用」と「敵対的な搾取」の境界線は依然として曖昧だ。ただしこの一件は、中国モデルの性能向上の一部が西側モデルからの間接的な学習に支えられている可能性を示唆しており、米議会では「モデルへのAPIアクセスそのものに輸出規制をかけるべきだ」という声を後押しする材料にもなっている。

今後1年程度の地域別見通し(まとめ)

地域 現状のスタンス 今後1年の見通し
米国 コスト起点で企業レベルの採用が急拡大。政治的には調査・規制論議が強まる 議会調査の結果次第でAPI直接利用に法的規制がかかる可能性。自己ホスティングへのシフトが進む
日本 Fujitsu Takane、Noetra(フィジカルAI)など自前路線を強化中 機密性の高い用途は国産・自己ホスト、汎用業務はコスト重視で中国製オープンウェイトも選択肢に入るハイブリッド化が進む見込み
台湾・韓国 政府レベルでの明確な使用制限(台湾)、個人情報保護を理由とした一時制限(韓国) 地政学的緊張が続く限り、公共部門での締め付けは維持・強化される可能性が高い
インド・東南アジア 自己ホスト型を中心にコスト実利で採用が先行。自国LLM育成も並行 中国が海外提供を制限すればコスト優位が薄れ、自国モデルや米国製への回帰圧力が生まれる可能性
欧州 EU AI Actで規制は先進、フロンティア級の完全主権モデルは事実上不在 Mistral含む欧州製の追い上げと、中国製オープンウェイトの自己ホスト活用が当面併存。米国依存脱却の議論も継続
中東 Falcon・Jais・HUMAINなど自国開発と中国技術の吸収を両立するハイブリッド路線 潤沢なオイルマネーを背景に米中双方からバランス良く技術・投資を取り込む姿勢が続く見通し

まとめ

中国製フロンティアLLMは、コーディングや長文コンテキスト処理など特定領域で確かに米国トップ級に肉薄しており、オープンウェイトという配布形態の強みも相まって、世界の開発者コミュニティへの浸透スピードは想像以上に速い。ただし総合的な知性・信頼性ではまだ差があり、その差の評価は機関によってかなり割れているというのが正直なところだ。普及面では、コスト圧力に押される形で西側企業の採用が静かに進む一方、地政学的な警戒感(特に台湾・米国議会)が採用の天井を作っている。そして何より、中国自身が自国の最先端モデルを「出し惜しみ」し始めるかもしれないという最新報道は、この記事で扱った「普及」の前提そのものを揺るがしかねない材料だ。日本にとっては、ベンダー各社の独自路線と、Noetraのような官民連合による国産化投資を組み合わせることが、コスト圧力と安全保障上の懸念の間でバランスを取る現実的な処方箋になりそうだ。この分野は数週間単位で状況が変わるので、今回の内容も「2026年7月20日時点のスナップショット」として捉えていただきたい。

主な参照元:NIST/CAISI公式評価(GLM-5.2、DeepSeek V4 Pro)、Artificial Analysis公式サイト・公式記事、lmarena.ai リーダーボード、Hugging Face公式ブログ「State of Open Source on Hugging Face: Spring 2026」、Bloomberg、Reuters、CNBC、CNN Business、Tom's Hardware、Nikkei、SoftBank公式発表、経産省・NEDO関連報道ほか。

【振り返り】ワールドカップ2026 全試合結果予想はどこまで当たったか 〜Claude vs Gemini 優勝国予想対決の答え合わせ〜

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【振り返り】ワールドカップ2026 全試合結果予想はどこまで当たったか 〜Claude vs Gemini 優勝国予想対決の答え合わせ〜

2026年7月19日(日本時間20日)、FIFAワールドカップ2026がスペインの優勝で幕を閉じました。史上初の48カ国参加・104試合という大会が終わった今、6月に公開した「ワールドカップ2026 全試合結果予想 〜AIが分析する優勝国と32強〜」で行ったClaude Fable 5Gemini 3.1 Proの予想対決を、実際の結果と突き合わせて振り返ります。

📋 この記事の内容
① 優勝国予想の答え合わせ:Claude的中
② ベスト4・準決勝・決勝カードの答え合わせ
③ 日本代表:予想と結果
④ 振り返りから見えた教訓

① 優勝国予想の答え合わせ:Claudeの「スペイン本命」が的中

結論から言うと、優勝国予想ではClaude Fable 5が的中、Gemini 3.1 Pro(フランス本命)は外れという結果になりました。スペインは延長戦の末アルゼンチンを1-0で下し、4大会ぶり2回目の優勝。決勝点は延長後半のフェラン・トーレスによるゴール一つのみという、締まった試合展開でした。

項目 Claude予想 Gemini予想 実際の結果 判定
優勝 スペイン フランス スペイン Claude ○ / Gemini ✕
準優勝 フランス イングランド アルゼンチン 両者✕
決勝カード フランス vs イングランド スペイン vs アルゼンチン ✕(後述)
日本の最高到達点 ベスト16 ベスト16 ベスト32 両者✕(一歩届かず)

注目したいのは根拠の中身です。Claudeがスペイン本命の理由として挙げた「予選2失点の圧倒的守備」は本大会でも再現され、スペインは大会通じてわずか1失点という堅守を披露。19歳のパウ・クバルシとラミン・ヤマルが優勝の立役者となり、国際試合38試合無敗という歴代最長記録も樹立しました。記事で懸念材料として挙げていたヤマルの左ハムストリング負傷も決勝までに癒え、「回復が遅れればフランスが繰り上がり本命」という当時のヘッジ込みで、予想のロジックそのものが結果と整合していたことになります。

② ベスト4・準決勝・決勝カードの答え合わせ

ベスト4予想では、Claudeが「スペイン・フランス・アルゼンチン・イングランド」の4カ国を完全的中させています。Geminiは「フランス・イングランド・ブラジル・アルゼンチン」で、ブラジルが外れ3/4の的中率でした。

カード 記事の予想 実際の結果
準々決勝カードとして予想「フランス vs スペイン」(3-1でフランス想定) 準々決勝に実現せず 1試合遅れて準決勝で実現。結果はスペインが2-0で完勝しフランスの3大会連続決勝はならず
準決勝として予想「イングランド vs アルゼンチン」(PK5-4でイングランド想定) カードは的中 終盤にイングランドが先制も、アルゼンチンが後半40分に同点、AT に逆転ゴールで2-1の逆転勝ち
決勝として予想「フランス vs イングランド」(2-1でフランス想定) 決勝には実現せず そのまま3位決定戦として実現。前半にライス・コンサ・サカ(2発)で4点を先行したイングランドに、エムバペの2ゴール含む猛追でフランスが詰め寄るも、イングランドが3位を確保

「対戦カード自体はほぼ言い当てていたのに、実現するラウンドと勝敗がズレる」というのが今回の予想の特徴的な外れ方でした。特に「フランス vs イングランド」は決勝ではなく3位決定戦として、しかもスコアも真逆の展開で実現したのが象徴的です。なお得点王はキリアン・エムバペ(フランス)で、史上初の2大会連続受賞となりました。

③ 日本代表:グループ突破は的中、決勝Tで一歩届かず

ラウンド 記事の予想 実際の結果
GS第1節(オランダ戦) 1-1の引き分け想定
GS第3節(スウェーデン戦) 1-1でグループ2位確定 前田大然の先制ゴール後、アンソニー・エランガに追いつかれ1-1でスコアまで的中。F組2位で通過
ラウンド32 オーストラリアに2-1で勝利しベスト16へ 対戦相手はブラジル。佐野海舟の先制ゴールも、後半にカゼミーロが同点弾、ATにマルティネッリが決勝点を挙げ1-2で逆転負け。ベスト32で敗退

グループステージの突破(2位通過)は的中し、スウェーデン戦は展開・スコアともかなり近い結果でした。一方で決勝トーナメント1回戦の相手はオーストラリアではなくブラジルとなり、佐野海舟の代表初ゴールで先制するも守備の時間が長くなり、後半アディショナルタイムに力尽きる展開に。3大会連続で決勝トーナメントに進みながら、今大会も初のベスト8進出はなりませんでした。

④ 振り返りから見えた教訓

🔑 今回の答え合わせで見えたポイント

  • 「収束する複数の根拠」は当たりやすい:Claudeのスペイン予想は、オッズ・統計モデル・Eloレーティングという独立した3手法が同じ結論を指すという構造で、これがベスト4完全的中というAI予想としては高精度な結果につながった
  • 「誰が勝ち上がるか」は当てやすいが「いつ当たるか」は難しい:フランス対イングランド、フランス対スペインは的中したカードだが、実現したラウンドがどちらも1つずれた
  • 個別の負傷・退場が結果を左右する度合いは、予想の限界そのもの:ヤマルの負傷離脱リスクをヘッジしていた点は的中に寄与したが、決勝の後半アディショナルタイムに起きたアルゼンチン・エンソ・フェルナンデスの2枚目イエローカードによる退場(0-0のまま延長戦に突入する契機となった)のような偶発的要素までは予想しきれない

グループステージ突破チームの予想はほぼ的中し、優勝国・ベスト4まで踏み込んでもClaude Fable 5の予想は高い精度を示しました。一方で日本代表がベスト16の壁を越えられなかったのは、6月の記事で書いた「2022年大会のような番狂わせは今大会でも必ず起きる」という言葉が、まさか自国の躍進ではなく敗退の側で的中してしまった格好です。次回大会に向けて、AI予想の的中パターンと外れパターンの両方を材料にしていきたいところです。

※ 本記事は2026年6月12日公開の予想記事の振り返りです。結果情報はNHK、Goal.com、スポーツナビ等の報道に基づきます。

木曜日, 7月 16, 2026

Perplexity・GenSpark・Felo徹底比較 — AI検索からエージェントへ、3社の立ち位置と今後の見通し【2026年7月版】

「答えを出す」検索から「代わりにやってくれる」エージェントへ — Perplexity・GenSpark・Feloは今どこにいるのか

Googleが90%超の検索シェアを守り続ける一方で、「質問すれば引用付きの答えが返ってくる」「プロンプト一発でスライドや調査資料が完成する」AIサービスが急成長している。本稿では代表格であるPerplexity(米国)GenSpark(米国・中国系創業者)Felo(日本発)の3社を軸に、立ち位置・資金調達・日本市場での動き・今後のリスクと機会を整理する。

■ まず結論:3社は「同じ土俵」にいない

  • Perplexity=アンサーエンジンの代名詞。検索の正確性・引用の透明性が核。評価額は2026年1月9日時点で226億ドル(Tracxn)、ARR(年間経常収益)は2026年3月時点で4.5億ドル超(Gradually.ai調べ、複数ソースで一致)。
  • GenSpark=「スーパーエージェント」でワンプロンプトから成果物(スライド・シート・動画・電話代行)を自律生成。2026年3月に評価額16億ドルだったが、わずか3か月後の6月17日には26億ドルに再上昇(Emergence Capital主導のSeries B追加ラウンド)。
  • Felo=日本発の多言語AI検索+資料生成。2025年7月に約15億円(1,000万ドル)のSeries Aを調達。日本語文脈理解とデータ国内保管を武器に、大手が手薄な「日本語×セキュリティ」ニッチを狙う。

1. 各社プロフィール

Perplexity AI — 資本と規模で独走

2022年8月設立。創業者はAravind Srinivas(CEO、元OpenAI/Google Brain/DeepMind)、Denis Yarats(元Meta AI)、Johnny Ho、Andy Konwinskiの4名。サンフランシスコ本社。

評価額は2023年4月の1.21億ドルから、2024年12月90億ドル、2025年9月200億ドル、そして2026年1月のSeries E-6で226億ドルに到達(Tracxn調べ、ラウンド自体の調達額は非開示)。累計調達額は17.2億ドル(11ラウンド、63投資家)。Nvidia、Jeff Bezos個人、SoftBank Vision Fund 2、Accel、IVPなどが主要投資家で、2025年12月にはCristiano Ronaldoも出資したと報じられている。

主力製品は検索エンジン本体(月間クエリ約7.8億件、2025年5月時点のCEO発言)に加え、Chromiumベースのエージェンティックブラウザ「Comet」(2025年7月にMax限定でスタートし、同年10月に無料開放)、デスクトップ操作エージェント「Perplexity Assistant/Computer」(2026年2月、最大19モデルを並列オーケストレーション)。2026年2月には広告事業を完全に廃止しサブスクリプション一本化。Free/Pro(20ドル/月)/Max(200ドル/月)/Enterprise Pro(40ドル/席/月)という価格体系で、MAU(月間アクティブユーザー)は3,400万〜4,500万人(出典により差あり)、リテンションは85%とされる。

※ 2026年1月にMicrosoft Azureと3年・7.5億ドルのGPU調達契約を締結、2025年8月にはGoogle Chromeへ345億ドルの非公式買収提案を行うなど、資金力を背景にした大型の動きが目立つ。

GenSpark(法人名:MainFunc Inc.) — 最速で成長するエージェント企業

2023年設立、パロアルト本社。CEOのEric Jing(金運)は元Baidu副社長・Xiaodu CEOで、Microsoft Bingでの勤務経験も持つ。共同創業者はKay Zhu(Kaihua Zhu、元Google Principal Architect・Baidu)、Lenjoy Lin、Wen Sang(MIT PhD)の4名体制。

2025年4月に「Super Agent」を発表して検索からエージェントへ明確にピボットし、成長速度は業界最速クラス。ARRは5,000万ドル(5か月)→1億ドル(9か月)→2億5,000万ドル(12か月、2026年4月時点)と伸び、2026年第1四半期だけで新規ARR1.5億ドルを追加したと報じられている。評価額は2025年11月のSeries B(2.75億ドル、評価額12.5億ドル)→2026年3月に16億ドル→2026年6月17日のSeries B追加ラウンドで26億ドルまで急伸(Emergence Capital主導、Sozo Ventures・Korea Mirae Asset等が参加)。累計調達額は6.45億ドル。

プロダクトは「Genspark Claw」(2026年3月、"初のAI社員"を謳うクラウド常駐エージェント)、AI Workspace(スライド/シート/文書/動画/コード生成)などがあり、独自の「Mixture-of-Agents」アーキテクチャで70以上のAIモデルと80以上のツールをオーケストレーション。2026年4月にはMicrosoft Word/Excel/PowerPoint/Agent 365への統合を含む世界的戦略提携を発表した。

Felo(開発元:Sparticle株式会社) — 日本発・多言語特化

Feloブランドの製品を開発したのはSparticle株式会社(2019年8月設立、東京・日本橋、CEO 金田達也。元Microsoftエンジニアで、中国Xiaomi(小米)の幹部を経て起業)。2024年7月に「Felo Search」をリリースし、1か月で15万ユーザーを突破。同年8月にはProduct Huntのデイリーランキングで初日1位を獲得した。

資金調達面では、Felo事業を担う法人として2024年7月に別途設立された会社が、2025年7月9日に約15億円(1,000万ドル)のSeries AをPeak XV Partners(旧Sequoia Capital India & SEA)とMirae Asset Venture Investmentsから調達している。Sparticleが2019年から積み上げてきた製品開発と、2024年設立の資金調達主体という2つの法人的側面が併存する点は、他の2社に比べて情報が錯綜しやすいので留意されたい。

Series A時点(2025年7月)でユーザー数120万人(日本・韓国・台湾中心)、1日30万クエリ超。同年10月には全世界300万ユーザー突破を発表している(直近の更新は未確認)。製品はFelo Search(多言語AI検索)、Felo Enterprise(2025年5月)、Felo LiveDoc(2025年11月、複数AIエージェント協働型文書ワークスペース)など。AWS日本リージョンでのデータ保管、SSO対応、「企業データをモデル学習に利用しない」ことを明言しており、企業向けにはデータガバナンスを前面に出している。

2. 3社比較

項目 Perplexity GenSpark Felo
評価額(時点) 226億ドル(2026年1月) 26億ドル(2026年6月) 非開示(Series A:約15億円)
累計調達額 17.2億ドル 6.45億ドル 約15億円(約1,000万ドル)
コア製品 アンサーエンジン検索+Cometブラウザ+Computerエージェント スーパーエージェント(成果物自律生成) 多言語AI検索+資料生成+LiveDoc
日本での動き ソフトバンクがPro無料提供+Enterprise Pro再販第一号 ソースネクストが独占代理店、2026年1月日本法人設立 SB C&Sと販売代理店契約(2026年6月、全国約1.5万社網)
LLM戦略 複数モデルをルーティング(Computerは最大19モデル並列)、自社Sonar(Llamaベース)も保有 Mixture-of-Agents(70以上のモデル+80以上のツール) マルチLLM+RAG/クロス言語検索ハイブリッド

出典:Tracxn、Sacra、Silicon Valley Investclub、各社プレスリリース、Reuters、TechCrunch等(2026年7月時点。詳細出典は本文参照)

機能・能力の違い

  • 検索品質:Perplexityは引用の正確性・透明性で評価が高い。GenSparkは要約・網羅性、Feloは日本語文脈理解に強みがあるとされる(第三者ベンチマークは方法論が不透明なため参考値扱い)。
  • エージェント能力:GenSparkが最も先行(マルチステップ自律実行、電話代行、専用クラウドコンピュータ)。PerplexityはComet/Computerで追随。Feloは検索エージェント+LiveDocで文書生成に特化。
  • ブラウザ/OS統合:Perplexity Cometが先鋭的だが、OpenAIのChatGPT Atlas(MAU 500万超)には数で劣後。GenSparkはMicrosoft 365ネイティブ統合で存在感。
  • 日本語対応:Feloが最適化度で優位とされるが、Perplexity・GenSparkも実用十分な日本語対応を備える。

3. 日本市場での実際の動き

Perplexity×ソフトバンク:2024年6月からSoftBank/Y!mobile/LINEMOユーザー向けにPro(通常2,950円/月)を1年間無料提供。2025年にはソフトバンクが日本初のEnterprise Pro認定リセラーとなった(SK Telecom、Deutsche Telekomに続く)。

GenSpark×ソースネクスト:2025年11月に日本初の公式パートナー契約を締結し、2026年1月28日に日本法人を設立。米国・韓国に次ぐ最重要市場と位置づけ、Team版(月額4,800円/ユーザー)を全国2,000社超のリセラー網で展開。2026年1月時点で日本の月間訪問数は1,496万件、前月比22%増という急成長を見せている。SBI Investmentも出資者に名を連ねる。

Felo×SB C&S:2026年6月、ソフトバンクグループのIT流通会社SB C&Sと販売代理店契約を締結。全国約1.5万社・約4.7万拠点の販売網でFelo Enterpriseを展開。ISO27001・SOC2 Type I取得、AWS日本リージョンでのデータ保管を訴求している。

3社に共通するのは「ソフトバンクグループ経由の日本参入」という構図だ。ソフトバンク本体(Perplexity)、SBI Investment(GenSparkへの出資)、SB C&S(Felo)と、グループ内の異なる窓口がそれぞれ異なるAI検索・エージェント企業と提携している点は興味深い。

日本の政策動向としては、2025年9月に「AI推進法」が全面施行(罰則なしの推進型)、2025年12月に「AI基本計画」が閣議決定された。デジタル庁は政府向けAI基盤「Gennai(源内)」を2026年5月から展開し、国産7モデルを採用してガバメントクラウド上でデータ国外流出を防ぐ設計としている。ソブリンAI(NTT tsuzumi 2、富士通Takane、NEC cotomi等)志向の高まりは、海外AI検索・エージェントの政府・機微領域への浸透に一定の制約となる一方、「国内保管・データ主権」を訴求するFeloのような企業には追い風となり得る。

4. 今後の見通しとリスク

市場予測

Gartnerは2025年6月25日のプレスリリースで、「コスト増大・不明確な事業価値・不十分なリスク統制により、2027年末までにエージェンティックAIプロジェクトの40%超が中止される」と警告している(Anushree Verma上級ディレクターアナリスト、2025年1月の3,412名調査に基づく)。同時にGartnerは「2028年までに日次業務判断の少なくとも15%が自律的にAIエージェントによって行われる」「エンタープライズソフトの33%がエージェンティックAIを組み込む」とも予測しており、短期的な淘汰と長期的な構造転換は両立し得るとしている。

※ この「40%」統計は2025年6月の予測であり、一部メディアで日付を落として「最新の2026年予測」であるかのように引用される傾向がある点には注意したい(Forbes、2026年7月7日の再検証記事が指摘)。

リスク:地政学と無料バンドル化

2026年4月27日、中国国家発展改革委員会(NDRC)は、MetaによるシンガポールのAIエージェント企業Manus(中国系創業者、2025年6月にシンガポールへ本社移転)の買収(約20億ドル、2025年12月発表)について、外国投資安全審査弁法に基づき初めて差し止めを命令し、両社に取引の巻き戻しを要求した。この一件は「シンガポール・ウォッシング」(中国発企業がシンガポールに籍を移すことで規制回避を図る手法)に対する初のレッドラインとされ、クロスボーダーAI買収の先行きに強い警戒感を与えている。

独立系AI検索・エージェント企業にとって最大のリスクは、Google・OpenAI・Microsoftが同等機能を主力製品に無料で組み込むこと(コモディティ化圧力)である。Perplexityは売上倍率が100倍を超え、GenSparkは急成長中とはいえ組織規模はまだ小さい。著作権訴訟(Forbes、NYTなど)も継続的なリスクとして残る。

機会

エンタープライズ検索の刷新、エージェンティックブラウジング/タスク自動化、金融・法務・医療・日本語などの垂直特化型AI検索は、いずれも独立系企業が差別化を図れる領域として期待されている。

まとめ:導入検討における実務的な視点

  1. 用途で使い分ける:Perplexity=正確性重視のリサーチ・引用、GenSpark=成果物の自律生成、Felo=日本語・多言語リサーチ+資料化。単一ツールでなく「マルチAI検索」の使い分けが2026年時点の現実的な選択肢。
  2. エンタープライズ導入ではデータ主権が分岐点:国内データ保管、SSO/SAML対応、SOC2/ISO27001取得、円建て請求などが日本企業の導入判断を左右する。3社とも日本の販売代理店ルート(ソフトバンク、ソースネクスト、SB C&S)を整備済み。
  3. 段階的検証を推奨:無料枠での日本語検索品質比較→30日間の業務パイロットで工数削減効果を計測→ROIが確認できれば有料・エンタープライズプランへ拡大、という段階を踏むのが妥当。Gartnerの「40%が中止される」という警告を踏まえ、ガバナンス整備(利用範囲の明確化、権限管理、撤退基準)を前提条件とすべきである。

本記事のために実施した調査は2026年7月16日時点の情報に基づく。評価額・ARR・ユーザー数は情報源により数値に幅があり、特に非上場企業の評価額は「公式発表」と「二次情報・推計」が混在する点に留意されたい。Gartner等の将来予測は予測であり確定事実ではない。急速に変化する市場のため、導入検討の際は各社公式サイトでの最新情報確認を推奨する。