金曜日, 7月 31, 2026

ローカルLLM導入の現在地 2026年夏版 ─ MoE時代のモデル選定とハードウェア構成、そしてTCOの再計算

クラウド型の生成AIサービスから、自社管理下で動く大規模言語モデル(ローカルLLM)への移行を検討する中小・中堅企業が、この1〜2年で目に見えて増えている。背景にあるのは、外部APIに機密情報や顧客データを送信することへのガバナンス上の懸念、円安による従量課金コストの不確実性、そしてネットワーク障害やサービス仕様変更に業務が振り回されるリスクだ。ローカルLLMは、自社環境内で処理を完結させるセキュリティ、固定費化による予算の見通しやすさ、そして自社の業務用語や文脈への適合という、クラウドAPIにはない利点を持つ。

ただし、この話題は「今」を切り取るのが難しい。2026年に入ってからの半年だけでも、主役級のオープンモデルはほぼ総入れ替えとなり、MoE(Mixture of Experts)と4bit量子化の組み合わせが標準になった。一方でDRAM・VRAMの価格高騰と歴史的な円安が重なり、ハードウェアの実勢価格は2024〜2025年の記事が前提としていた水準から明確に上振れしている。モデルは速いペースで新しくなり続けるのに、ハードウェアへの投資判断は数年単位で固定される——この非対称をどう扱うかが、実務上はモデル選定そのものより重要になっている。

結論を先に書くと、「VRAM容量を演算性能より優先する」という原則は今も変わらない。ただしモデルサイズの物差しは「総パラメータ数」から「Activeパラメータ数」へと移り、旧世代のdenseモデルを前提にした構成表はもう実態に合わない。費用感についても、2026年夏時点の実勢を踏まえると、以前語られていたよりワンランク上の予算を見ておく必要がある。本稿では、技術的な急所、標準的なハードウェア構成、より大規模なモデルを狙う場合の複数GPU・複数ノード構成、推論エンジンとRAG設計、見落とされがちなセキュリティとライセンスの論点、そしてTCOと損益分岐点までを、2026年7月時点の情報で改めて整理する。

本稿に含まれる費用試算・損益分岐点・モデルの実効速度は、公開情報をもとにした筆者の推定であり、精密な予測ではない。為替・GPU価格・クラウドAPI単価はいずれも変動が大きく、購入や契約の判断時には必ず最新の実勢を確認してほしい。また税制に関する記述は制度の存在を示すものであり、適用可否の最終判断は顧問税理士等に相談されたい。

1. 技術的急所:VRAMと帯域幅、そして「Activeパラメータ」という新しい物差し

ローカルLLMの応答速度(生成速度・tokens/s)とTTFT(最初の1トークンが出るまでの時間)は、演算能力(TFLOPS)以上に、モデルの重みとKVキャッシュをどれだけVRAM上に保持できるか、そしてそのVRAMの帯域幅にどれだけ速くアクセスできるかで決まる。モデルがVRAMからあふれてメインRAMにオフロードされると、帯域幅は数分の一から一桁以上落ち込み、体感速度が急激に悪化する。したがってハードウェア選定は、演算性能ではなくVRAM容量と帯域幅を最優先に考えるのが基本線であり、この点は今も変わっていない。

代表的なGPUの帯域幅を並べると、その差がそのまま体感速度の差になることがわかる。

ハードウェア VRAM/メモリ 帯域幅 備考
Mac mini M4 16〜32GB 120GB/s 9〜12Bクラスの4bit量子化で10 tok/s前後が目安
RTX 4060 Ti 16GB 16GB 288GB/s Mac mini M4の2.4倍の帯域
Mac mini M4 Pro 24〜64GB 273GB/s DGX Sparkとほぼ同じ帯域クラス
RTX 4070 Ti Super 16GB 16GB 672GB/s 14Bクラスの4bit量子化を快適に処理
RTX 4090 24GB 1,008GB/s 27B級dense・埋め込み・リランカーの併用にも余裕
Mac Studio M3 Ultra 96〜256GB 819GB/s 大容量ユニファイドメモリと高帯域を両立。512GB構成は2026年3月に廃止
RTX PRO 6000 Blackwell 96GB 1,792GB/s 現行で単一カード最大のVRAM容量。ECC対応

量子化についても基本は変わらない。16ビット精度(FP16)から4ビット系(Q4_K_MやNVFP4など)に落とすことで、重みの容量を大きく圧縮しつつ、業務用途では実用上ほぼ問題にならない程度の精度低下に抑えられる。ただし2026年に入ってからの変化として、量子化そのものが「節約のための妥協」から「配布元選びで性能が変わる選定ポイント」に変わった点は押さえておきたい。同じモデルの4bit版でも、配布元(NVIDIA公式・Unsloth・Google公式QATなど)によって実測速度が5割前後変わることがあり、どちらが速いかはモデル依存で事前には予測しづらい。複数の配布元があれば両方試す、という手間を惜しまないだけで、取りこぼしていた速度を拾える。

2026年前半で最も大きく変わったのは、モデルサイズの数え方そのものだ。新しいモデルの多くがMoE(Mixture of Experts)構成を採用しており、モデル名の「35B-A3B」は総パラメータ35Bのうち、1トークンごとに実際に働く(Active)パラメータが3Bであることを意味する。生成速度はこのActiveパラメータ数と量子化のビット数の積にほぼ反比例するため、総パラメータが100Bを超えるモデルでも、Activeパラメータが小さければ、同程度のVRAMを使うdenseモデルより速く動くという逆転が普通に起きる。VRAM容量は総パラメータ基準で見積もり、速度はActiveパラメータ基準で見積もる——この二段構えの物差しに慣れておくと、スペック表から実際の使用感を予測しやすくなる。

もう一点、見落とされがちなのがプロンプト処理速度(prefill)と生成速度(decode)の違いだ。ここまで述べた帯域幅の話は主にdecode、つまりモデルが応答を生成しているときの速度に関するものだ。一方、社内RAGのように検索結果を大量にプロンプトへ詰め込む使い方では、体感速度を左右するのはむしろprefillであり、これは帯域幅よりも演算性能(TFLOPS)の影響を強く受ける。「VRAM容量と帯域幅さえ確保すれば十分」という単純化は、チャット的な短い応答が中心の用途には当てはまるが、長文コンテキストを多用するRAG用途では成立しない場合がある。用途がRAG中心になるほど、演算性能を軽視しない構成が必要になる。

最後に、日本語特有の注意点として、tokens/s の数字をそのまま比較するのは危険だという点も付け加えておきたい。日本語は1トークンあたりの文字数がモデルのトークナイザーによって大きく異なり、tokens/sで劣っていても文字数換算(chars/s)では逆転するモデルが珍しくない。性能を比較検討する際は、可能であればchars/sベースで、実際の日本語業務文で測り直すのが望ましい。

2. ハードウェア・アーキテクチャの比較:GPU、Apple Silicon、そして統合メモリ機という第三の選択肢

これまでローカルLLM向けハードウェアは、独立VRAMを持つNVIDIA製GPU搭載機と、CPU/GPUでメモリを共有するApple Silicon搭載Macの二択で語られることが多かった。しかし2026年に入り、AMD Ryzen AI Max+ 395(通称Strix Halo)を搭載した128GBクラスの統合メモリ機や、NVIDIAのDGX Sparkのような小型AIワークステーションが、実質的な第三の選択肢として台頭してきている。

評価軸 NVIDIA GPU搭載機 Apple Silicon(Mac) 128GB級統合メモリ機
メモリ構造 独立VRAM(16〜96GB) ユニファイドメモリ共有(16〜256GB) ユニファイドメモリ共有(最大128GB前後)
帯域幅 288〜1,792GB/s 120〜819GB/s 約256〜273GB/s
エコシステム CUDA、vLLM、TensorRT-LLM llama.cpp、Ollama、MLX llama.cpp、Ollama、一部vLLM
向いている用途 複数人同時アクセス、高スループットサーバー 省スペース・低消費電力、大容量モデルの検証 大型MoEモデル専用機として割り切る用途

統合メモリ機について一点注意したいのは、容量が大きくても帯域幅は24GBクラスのdGPUよりかなり細いという点だ。したがって70B級のdenseモデルのように総パラメータがそのままActiveパラメータになるモデルを載せると、容量的には収まっても速度が実用域を割り込みやすい。128GB級の統合メモリ機は「大容量」ではなく「大型MoEモデル専用機」と割り切って導入するのが現実的だ。またこのカテゴリも2026年のDRAM高騰の影響を受けており、半年前には10万円台後半で買えた構成が、現在は20万円台後半から30万円超まで上振れしていることがある点は踏まえておきたい。

3. 企業規模・予算別のハードウェア構成(2026年夏時点)

ここからは実際の構成例を示す。前提として、2026年はNVIDIA・AMD双方がVRAM調達コストの高騰を理由に値上げに踏み切っており、GPU市場全体で中古品が新品価格を上回る逆転現象も起きている。以下の価格は2026年7月時点の目安であり、市況次第で大きく変動しうる点はあらかじめ断っておきたい。

導入区分 構成・概算費用(目安) 推奨AIモデル(2026年夏時点) メモリ/帯域 想定用途
エントリー
(1〜5名)
Mac mini M4(16〜32GB)
またはRTX 4060 Ti 16GB搭載PC
機材費 約25万〜35万円
Gemma 4 E4B、Qwen3.5 4B
(いずれもQ4量子化)
VRAM 6〜10GB
120〜288GB/s
社内FAQ、文書要約、個人業務支援
スタンダード
(10〜20名)
RTX 4070 Ti Super 16GB搭載PC
またはMac mini M4 Pro(64GB)
機材費 約40万〜55万円
Qwen3-14B、Gemma 4 12B(QAT) VRAM 16GB前後
272〜672GB/s
社内RAG検索、コード生成、業務自動化
プロフェッショナル
(20〜50名)
RTX 4090 24GB搭載WS
または128GB級統合メモリ機
機材費 約60万〜100万円
Qwen3.6-27B、Gemma 4 26B-A4B(MoE) VRAM/統合メモリ 24〜128GB
256〜1,008GB/s
高度な論理推論、全社共有API、埋め込み・リランカー併用
ハイエンド
(30〜50名以上)
Mac Studio M3 Ultra(256GB構成)
またはRTX PRO 6000 Blackwell 96GB
機材費 約100万〜290万円
Qwen3.6-35B-A3B、Laguna S 2.1、DeepSeek V4 Flash(量子化) 96〜256GB
819GB/s / 1,792GB/s
契約書審査、専門技術解析、基幹RAG

エントリー構成は、8〜12B級MoEモデルを念頭に置くと快適に動く。ミドル帯についても、旧世代のdenseモデルより新世代のMoEモデルの方が同じVRAMで良い結果を出す傾向にあり、構成を組む段階で「総パラメータの大きさ」だけを見て機種を選ばないよう注意したい。プロフェッショナル帯は、RTX 4090のような24GB dGPUと、128GB級統合メモリ機のどちらを選ぶかが分かれ目になる。前者は27B級dense、後者は35B級MoEに強みがあり、想定するモデルの傾向で選択が変わる。ハイエンド帯については、RTX PRO 6000 Blackwell(96GB)がRTX 6000 Ada世代からVRAM容量を倍増させた一方で価格も大きく上がっており、2026年7月時点の国内実売はWorkstation Editionで約200万〜233万円、消費電力を300Wに抑えたMax-Q版でも約140万〜150万円という水準にある点は予算計画に織り込む必要がある。Mac Studio側も、2026年3月にM3 Ultraの512GBメモリ構成が廃止され、96GBから256GBへのアップグレード費用も18万円から30万円へ引き上げられた。いずれも世界的なDRAM不足によるもので、大容量メモリを前提とした構成は、選べる上限そのものが縮んでいることに注意したい。

4. より大規模なモデルを利用する場合:複数GPU・複数ノード構成

前節までの構成は、社内FAQからRAG、専門文書解析までを想定した実務ラインだが、契約書の最終審査や高度なコーディングエージェントのように、クラウドの最上位モデルに匹敵する精度をローカルだけで求める場面では、これより一段大きいモデル群が視野に入る。2026年2月に公開されたQwen3.5-397B-A17B(総パラメータ397B・Active 17B、Apache 2.0)を筆頭に、Qwen3-Coder-480B、DeepSeek V4系、Kimi K2.6(1T級・Active 32B)、GLM-5、MiniMax M2.5、Llama 4 Maverick(400B・Active 17B)といった、総パラメータが数百B〜1Tに達するモデル群だ。ここで注意したいのは、MoE構成であってもVRAM・メモリ要件は総パラメータ基準で決まるという点だ。1トークンあたりに働くActiveパラメータが小さくても、重みそのものはすべてメモリ上に置いておく必要があるため、量子化しても100GBを優に超えるメモリを要求するモデルが珍しくない。

この規模になると、単一GPU・単一マシンでは収まらないため、複数GPUあるいは複数ノードでの分散推論が前提になる。分散のさせ方には大きく2種類あり、レイヤーをGPUごとに割り振って流れ作業的に処理するパイプライン並列(PP)と、1つのレイヤーの計算そのものを複数GPUで分担するテンソル並列(TP)がある。TPは各レイヤーごとにGPU間の同期(all-reduce)が発生するため、GPU間の相互接続帯域が細いと速度が頭打ちになりやすい。一方PPはGPU間の通信頻度が少なく、PCIe接続でも実用的なスループットが出しやすい。ワークステーション向けGPUではNVLinkが使えないケースが増えているが、複数ユーザーの同時アクセスをさばくのが目的であれば、PP中心の構成で十分に成立する。

実際のハードウェアとしては、主に3つの道がある。1つ目は、RTX PRO 6000 Blackwell(96GB)を2枚以上束ねる構成だ。2枚でVRAM合計192GBのプールとなり、70B級dense モデルの非量子化推論や、数百B級MoEモデルの量子化運用に対応できる。ここで注意したいのは、RTX PRO 6000 BlackwellはNVLinkに対応していないという点だ。従来のQuadro系にあった物理ブリッジによるメモリプーリングはこの世代で廃止されており、GPU間通信はすべてPCIe Gen5 x16を経由する。それでも、投機デコードと組み合わせたvLLMのパイプライン並列で高いスループットを出せることが実例として報告されており、複数ユーザーの同時アクセスを想定する用途であれば十分に成立する。

2つ目は、NVIDIA DGX Spark(GB10、統合メモリ128GB、1台あたり概ね66万〜100万円)を複数台つなぐ構成で、背面のConnectX-7ポートを200GbEケーブル1本で直結するだけで公式にクラスタ化(スタッキング)できる。2台構成で統合メモリ256GB相当となり、284B級のMoEモデルなら投機デコードと組み合わせて対話的な速度が出るという実測例がある。スイッチもルーターも不要で、電源とケーブル1本で完結する点が、専任のインフラ担当を置けない企業にとっては現実的な利点になる。

3つ目はMac Studio M3 Ultraで、ネットワーク構築が不要な分、単独で大きなモデルを丸ごと載せられるのが利点だ。ただし前述のとおり2026年3月に512GB構成が廃止されており、現在選べる上限は256GBになっている。以前は「512GBのMac Studioなら200GB超のモデルも1台で動く」という選択肢が成立していたが、2026年7月時点ではその前提が崩れている点に注意が必要だ。また複数ユーザーが同時に使うサーバー用途では、GPUクラスタほどのスループットは出にくい。

モデル 規模(Active) 目安ハードウェア 参考速度・備考
Qwen3.6-27B(dense) 27B RTX PRO 6000単体(96GB) 単体で余裕。複数ユーザー対応にはPRO 6000 2枚構成が有利
Qwen3-235B-A22B(MoE) 235B(Active 22B) DGX Spark 1台(128GB) 1台で約15.5 tok/s。2台にしても速度は伸びない
DeepSeek V4 Flash(MoE) 284B(Active 13B) DGX Spark 1台(量子化)〜2台(TP=2) 1台・投機デコード込みで27〜35 tok/s、2台構成で55〜67 tok/s
Qwen3.5-397B-A17B(MoE) 397B(Active 17B) DGX Spark 2台スタッキング(256GB統合) INT4量子化でも重みだけで100GB超
Llama 4 Maverick(MoE) 400B(Active 17B) DGX Spark 2台(256GB) 量子化版143GBでdecode 約13 tok/s。ただし日本語性能は弱く更新も停止中
Qwen3-Coder-480B(MoE) 480B級 DGX Spark 2台(256GB) 量子化版168GBでdecode 約10 tok/s
DeepSeek-V3級フルサイズ 200GB超 クラウドA100/H100、または3台以上のクラスタ DGX Spark 2台のllama.cpp RPCでは実用上限(約170GB)を超え不可。Mac Studio 512GB構成の廃止で単機での選択肢も消滅

費用感は率直に言って重い。RTX PRO 6000 Blackwellは2026年7月時点の国内実売がWorkstation Editionで200万円台、Max-Q版でも140万円前後であるため、2枚構成ではGPUだけで300万〜460万円、システム全体では350万〜500万円規模になる。DGX Sparkを2台つなぐ構成は1台66万〜100万円なので、2台とケーブルで概ね140万〜200万円。Mac Studio M3 Ultraの256GB構成は本体約97万円からとなる。相対的に見れば、DGX Spark 2台構成が「数百B級MoEを動かす」という目的に対しては最も費用対効果が高い部類に入る。

ただし、この規模はTCOの観点でクラウドAPIと張り合うためのものではない。前章の損益分岐点の議論がそのまま適用できる規模ではなく、機密性が極めて高い一部の業務や、外部に一切データを出せない契約上の制約がある業務など、コスト計算よりも「そもそも選択肢がそれしかない」という理由で導入されるケースがほとんどだ。したがって、全社的にこの構成を敷くのではなく、前章のハイエンド構成までを標準運用としつつ、最も要求水準の高い一部の業務だけをこの規模のモデルに振り分けるという設計が現実的になる。またこの帯域のモデルはライセンス条件も一様ではなく、Qwen3.5系のApache 2.0からLlama 4のコミュニティライセンスまで幅があるため、次節のライセンス確認は特にこの規模で重要度が増す。

5. 推論エンジンとRAGアーキテクチャ設計

推論エンジンについては、vLLMとOllama(内部でllama.cppを使用)の二択という構図は変わっていないが、両者の力関係は半年でかなり接近した。Ollamaは継続的なアップデートで単一ストリームのデコード速度がvLLMのベース性能とほぼ並ぶところまで来ており、「Ollamaは手軽だが遅い」という以前の相場観はもう単純には成立しない。vLLMが優位を保っているのは、投機デコード(下書きモデルに数トークン先読みさせて本体がまとめて検証する高速化技術)と、複数リクエストを同時にさばく並列スループットの領域だ。個別端末での手軽な運用ならOllama、複数人が同時にアクセスする社内APIサーバーとして運用するならvLLM、という使い分けが実務的な結論になる。

社内RAGを構築する際、LLM本体の選定と同じくらい重要でありながら見落とされがちなのが、埋め込み(Embedding)モデルとリランカーの選定だ。どれほど優秀なLLMを使っていても、関連文書を正しく検索で拾えなければ意味がない。日本語文書中心の環境であれば、日本語特化の埋め込みモデルが軽量なパラメータ数で高い検索精度を示すという報告が複数あり、多言語対応が必要な場合は多言語系の埋め込みモデルが選択肢になる。

埋め込みモデル 規模 特徴 適した用途
ruri-v3 30M〜310M 日本語特化。軽量な部類ながら日本語検索精度は高水準 日本語文書が中心の社内RAG
bge-m3 /
multilingual-e5-large
中規模 多言語対応。海外拠点や多言語文書が混在する環境に強い 日英混在・多言語文書のRAG

実務では、埋め込みモデルで候補文書を広めに(例えば上位20〜30件)取得し、その後クロスエンコーダ型のリランカーで並べ替えてから、上位数件だけをLLMに渡す2段構えの構成が精度面で有利とされる。埋め込みモデル自体は軽量なものが多く、CPUでも実用速度が出るケースが多いが、生成用LLMと同じGPUに埋め込み・リランカーを同居させる場合は、その分のVRAMも構成の見積もりに含めておく必要がある。前節の構成表でVRAMに余裕を持たせているのは、この分の余白を意識したものだ。

6. 見落とされがちなセキュリティとライセンスの論点

「クラウドAPIに情報を送らずに済む」という理由でローカルLLMを選ぶ企業は多いが、ローカル化それ自体はセキュリティ対策の完成形ではなく出発点にすぎない。OpenAI互換のAPIエンドポイントは、初期設定では認証なしで社内LANに公開されることが多く、社内の誰でもアクセスできてしまう状態になりがちだ。RAGのベクトルデータベースも標準ではアクセス制御を持たないため、人事評価や取引条件のような機密文書を、権限を分けずに同一のインデックスへ放り込んでしまうと、閲覧権限のない社員でも検索経由で内容を引き出せてしまう事故につながりかねない。外部から受け取ったPDFやWord文書をそのまま取り込む場合は、文書内に仕込まれた指示文がRAGパイプライン経由でLLMに読み込まれる、いわゆる間接的なプロンプトインジェクションの経路になる点も意識しておきたい。認証・アクセス制御・監査ログ・退職者や異動者のアクセス失効という、クラウドサービスであれば当たり前に備わっている機能を、ローカル環境では自分たちで用意する必要がある、という認識を持つことが出発点になる。

ライセンスについても、企業導入では調達段階で確認しておきたい項目だ。「オープンソース」とひとくくりにされがちだが、実際にはモデルごとに条件が異なる。

モデル系統 ライセンス 商用利用上の留意点
Qwen系、Gemma系 Apache 2.0 商用利用の制約が緩く、調達段階での確認事項が少ない
Llama系 Meta独自ライセンス 月間アクティブユーザー数に応じた条項があり、要確認
Nemotron系 NVIDIA独自ライセンス 利用規約の個別確認が必要

7. TCO評価とクラウドAPIとの損益分岐分析(2026年7月改訂)

ローカルLLMの経済性を測るには、機材購入費だけでなく、電気代と保守工数を含めた総所有コスト(TCO)で評価する必要がある。以下は法人向け電気料金の目安(低圧契約と動力契約の中間的な水準として28円/kWhを想定)と、ハードウェアを4年(48ヶ月)で定額償却する前提での試算だ。

試算項目 エントリー スタンダード プロフェッショナル
月額減価償却費(4年定額) 約6,250円 約10,000円 約18,750円
月額電気代(8h×平日22日、28円/kWh) 約1,183円 約1,676円 約2,365円
月額保守管理工数(目安) 約5,000円 約5,000円 約10,000円
実質月額TCO(8h稼働時) 約12,400円 約16,700円 約31,100円

この保守工数の見積もりには注意が必要だ。月5,000〜10,000円という金額は、実際には社員が数時間を割く工数の目安にすぎず、構築した担当者が異動・退職した場合の引き継ぎコストは含まれていない。属人化のリスクは、金額換算しづらいが実務上は最も重い費目になりやすい。

比較対象となるクラウドAPIの単価は、2026年7月時点でGPT-4oが入力100万トークンあたり2.50ドル・出力10.00ドル、GPT-4o miniが入力0.15ドル・出力0.60ドルとなっている。同時期のドル円レートは163円前後で推移しており、1リクエストあたり平均1,000トークン(入力・出力各500)という前提で月間コストを試算すると、以下のようになる。

シナリオ(月間リクエスト数) GPT-4o GPT-4o mini ローカルTCO(参考)
ライト(3,000回) 約3,056円 約183円 エントリー 約12,400円
スタンダード(15,000回) 約15,281円 約917円 スタンダード 約16,700円
ヘビー(50,000回) 約50,938円 約3,056円 プロフェッショナル 約31,100円

GPT-4o単価と各構成のTCOを突き合わせると、月間の処理トークン量がエントリー構成で約1,200万トークン、プロフェッショナル構成で約3,000万トークンを超えたあたりで、ローカルLLMのTCOがGPT-4oの利用料を下回る計算になる。1リクエスト1,000トークン換算では、月間1万数千〜3万数千リクエスト程度が目安だ。一方、軽量なGPT-4o miniとの比較では、単体の費用面だけでローカル化を正当化するのは難しい。もっとも、コスト以外にも、トークン消費を気にせず試行錯誤できる心理的な自由度や、機密文書を外に出せない業種における「唯一の選択肢」としての価値があり、実際の判断はコスト計算だけでは決まらない場合が多い。日常的な大量処理はローカルLLMで固定費化し、高度な判断が必要な一部のタスクだけを外部APIに回すハイブリッド運用が、現実的な落としどころになりやすい。

なお、この試算は機材を4年で定額償却する前提に立っているが、実際には税制上の選択肢がある。中小企業者等(従業員500人以下が目安)を対象とした少額減価償却資産の特例では、2026年度税制改正により対象となる取得価額の上限が30万円未満から40万円未満に引き上げられ、合計300万円までを限度に取得年度の即時償却が可能になっている。この特例が使えれば、エントリー構成やスタンダード構成の一部は、48ヶ月に分割せず取得年度に全額を損金算入できる可能性がある。より高額な構成についても、経営力向上計画の認定を受けた設備であれば、即時償却または取得価額の一定割合の税額控除を選択できる制度がある。いずれも要件や事前手続きが細かく定められているため、実際の適用可否は顧問税理士等に確認したうえで判断してほしい。

8. 段階的導入ロードマップ

初期から大規模な投資に踏み切るのではなく、効果を段階的に検証しながら環境を拡張していくのが現実的だ。フェーズ1(1〜2ヶ月目)では、機材を購入する前に、GPUクラウドの時間課金サービスを使って候補モデルを検証する選択肢がある。数千円程度の課金で、実際の業務文を使ったベンチマークを回せるため、機材購入前の見極めとして有効だ。この段階で重要なのは、公開ベンチマークのスコアだけで判断しないことだ。公開ベンチマークはモデルの一次スクリーニングには使えるが、最終判断は自社の実際の問い合わせ内容から作った評価セット(50〜100問程度に正解を用意したもの)で、正答率・ハルシネーション率・応答速度をクラウドAPIと同一条件で比較するのが望ましい。ここで手応えが確認できたら、エントリー構成の機材を導入し、小規模なチームで運用を開始する。

フェーズ2(3〜5ヶ月目)では、スタンダード構成へインフラを拡張し、DifyのようなLLMオーケストレーションツールとベクトルデータベースを導入して、社内文書検索(RAG)システムを構築する。この段階で、埋め込みモデルとリランカーの選定、権限分離を意識したインデックス設計、アクセスログの記録といったセキュリティ面の整備も並行して進めておきたい。対象部署を10〜20名規模に拡大し、業務自動化のパイプラインへ組み込んでいく。

フェーズ3(6ヶ月目以降)では、負荷に応じてプロフェッショナル構成への拡張やvLLMによる並列処理サーバー化を進め、定常業務の大部分をローカルLLMで処理しつつ、高度な判断が必要な業務のみを外部APIへ自動ルーティングする運用を確立する。ここで意識しておきたいのが、モデルの回転速度とハードウェアの償却期間の非対称だ。オープンモデルの主流は半年ほどで世代交代しており、ハードウェアを特定モデル専用に組むのではなく、OpenAI互換APIで抽象化してモデルを差し替えやすい運用にしておくこと、そして四半期に一度程度、モデルの見直しを運用サイクルに組み込んでおくことが、長期的な投資対効果を左右する。

まとめ

2026年夏時点でのローカルLLM導入は、モデル面ではMoEと4bit量子化の組み合わせにより、以前より小さなVRAMで実用的な性能を得やすくなった一方、ハードウェア面ではDRAM・VRAM高騰と円安が重なり、必要な予算はワンランク上がっている。この二つの変化は方向が逆であり、どちらか一方だけを見て判断すると実態とずれる。VRAM容量と帯域幅を最優先するという原則、そして総パラメータではなくActiveパラメータで速度を見積もるという視点を押さえたうえで、モデルとハードウェアはあくまで購入時点の実勢で確認し直すこと。そして、ローカル化そのものがセキュリティ対策の完成ではなく出発点であることを踏まえて、権限設計とアクセス制御を運用に組み込むこと。この2点が、2026年時点でローカルLLM導入を検討する企業にとって最も実務的な指針になる。

木曜日, 7月 30, 2026

【2026年7月版】シートは増えても使われないCopilot ― MicrosoftのAI戦略と日本向け「2028年問題」を総整理

2026年に入ってからのMicrosoftは、Copilotを軸にAI戦略をかなり大胆に組み替えている。有償シート数は年明けから半年で倍増し、7月の決算では3,000万を超えた。その一方で、長年の生命線だったOpenAIとの「独占」関係は4月に事実上終わり、自社製モデル群「MAI」が投入され、Copilot自体もE7・Agent 365・Copilot Coworkと矢継ぎ早に製品ラインナップを再編している。数字だけ追うと「絶好調」に見えるが、実態はもう少し複雑だ。

なぜ今このタイミングで整理する価値があるかというと、四半期ごとに前提が変わるほど動きが速いからだ。決算発表のたびに「最新の有償シート数」が塗り替えられ、日本向けの主権AI投資は華々しく発表された一方で、肝心のCopilotとのやり取り(対話データ)を日本国内で処理する対応そのものは、当初の予定より静かに先送りされている。ネット上の解説記事にも、一次情報を確認せずに拡散した不正確な情報が少なくない。本稿では、Microsoft公式のIR資料やブログ、SEC提出書類、デジタル庁の公式資料など一次情報に当たり直した上で、2026年前半のMicrosoft AI戦略とCopilotの現在地を整理する。

先に結論を書いておくと、Microsoftは「OpenAI依存」から「自社モデル+OpenAI+Anthropicなどマルチモデル」という体制へ明確に舵を切った。Copilotは商業的には急拡大しているが、他の選択肢がある職場では必ずしも選ばれ続けていない、という興味深いギャップがある。そして日本向けの「データ主権」投資は本物である一方、Copilotに入力した対話データを日本国内のサーバーで処理する仕組みそのものは、2028年まで実現しないというギャップも存在する。

本稿は2026年7月末時点で確認できた一次情報(Microsoft Investor Relations、SEC EDGAR提出書類、Microsoft公式ブログ、デジタル庁公式資料、Recon Analytics公開資料等)に基づく。この分野は動きが速く、特に将来の見通しに関する記述(FY2027の投資規模など)は執筆時点の推定にとどまる。数値や日付は今後変わりうるため、重要な意思決定の際は各社の最新の公式発表を確認してほしい。

1. OpenAIとの関係大転換 ― 独占から「複数クラウドの一つ」へ

Microsoft-OpenAI関係の再編は、2段階で進んだ。まず2025年10月28日、OpenAIの営利化(OpenAI Group PBC化)に伴い、Microsoftの持分は約27%(評価額換算で約1,350億ドル相当)に調整された。この時点でOpenAIはAzureへの追加2,500億ドルの支出を約束する一方、Microsoftが持っていた「OpenAIのコンピュート提供を独占的に引き受ける権利」(first right of refusal)は放棄された。

そして2026年4月27日、両社は契約をさらに改定し、OpenAIが全クラウドで製品を提供できるようになった。独占関係は名実ともに終わったことになる。ただし、Microsoftが完全に手を引いたわけではない。IPライセンスは2032年まで、収益分配は2030年まで継続する。この改定の背景には、2026年2月にOpenAIとAmazonが結んだ最大500億ドル規模の提携(AWSがOpenAIのエンタープライズ向け基盤「Frontier」の独占的サードパーティ配信元に指定された)があったとみられる。既にAWS経由での提供が既定路線として動いていた以上、Azure独占という建前を維持する意味が薄れていた、という流れだ。

2. 自社モデルMAIの投入 ― 「脱OpenAI依存」の実体

OpenAIとの関係が緩んだのとほぼ同時期、MicrosoftはMustafa Suleyman率いる「MAI Superintelligence Team」(2025年11月結成)による自社モデルの投入を加速させた。2026年6月2日のBuild 2026では、画像・音声・文字起こし・推論・コード生成にまたがる7つの新モデルを一挙に発表している。

目玉は初の推論モデル「MAI-Thinking-1」だ。Microsoft公式の発表によれば、35Bのアクティブパラメータを持つMoE(Mixture of Experts)構成で、256Kトークンのコンテキストウィンドウを備える。「蒸留ゼロ(zero-distillation)」、つまり他社のフロンティアモデルからの蒸留を一切使わず、クリーンな商用ライセンスデータでゼロから学習させた点を強調している。AIME 25で97%、SWE Bench Proで53%(Anthropic Opus 4.6と同水準)を記録し、Microsoftによれば独立評価者のブラインドテストではSonnet 4.6よりも好まれたという。ただし、これはMicrosoft自身が公表した数値であり、第三者による独立検証ではない点は留意しておきたい。

このほか、画像生成のMAI-Image-2.5(+高速版のFlash)、文字起こしのMAI-Transcribe-1.5、GitHub CopilotやVS Codeに投入されたコーディングモデルMAI-Code-1が発表されている。音声生成のMAI-Voiceシリーズは実は最も古株で、初代MAI-Voice-1は2025年8月にCopilot Dailyでデビューし、2026年4月にFoundry上で商用提供が始まっていた。

3. Copilotの決算を読む ― 半年で数字が2倍になった

M365 Copilotの有償シート数は、2026年に入ってから決算発表のたびに更新され続けている。四半期ごとの推移を整理すると以下の通りだ。

発表日 対象四半期 有償シート数 備考
2026年1月28日 FY26 Q2 1,500万 前年比+160%。M365商用全体の契約シートは約4.5億
2026年4月29日 FY26 Q3 2,000万超 単一四半期で500万増、発売以来最速のペース。5万席超の大口顧客数は前年比4倍
2026年7月29日 FY26 Q4 3,000万超 同時にAzure売上が年度内で初めて1,000億ドルを突破

FY26 Q4(2026年6月30日締め)の決算全体では、売上高900億ドル(前年比+18%)、営業利益406億ドル(同+18%)と、Microsoft全体としても好調な決算だった。AI事業の年間ランレートはQ3時点で370億ドル超、前年比+123%という伸びを記録している。

4. 製品ラインナップの再編 ― E7・Agent 365・Copilot Cowork

Copilotの商業的成長と並行して、Microsoftは製品体系そのものを作り直している。2026年3月9日に発表され5月1日に一般提供が始まった「Microsoft 365 E7: The Frontier Suite」は、E5(2015年12月)以来、実に10年ぶりの新しいエンタープライズエディションだ。M365 E5、M365 Copilot、Entra Suite、そして新設のAgent 365を一本化し、$99/user/月で提供する。個別に購入する場合の合計(約$117)より15%程度安く設計されており、既にCSP経由の販促割引(年契約で10〜15%オフなど)も動いている。

Agent 365は単体でも$15/user/月で提供される「エージェントの統制プレーン」で、社内で稼働するAIエージェントにEntra Agent IDを付与し、人間の従業員と同様にアクセス制御・監査・可視化を行う仕組みだ。IDCは2028年までに13億超のAIエージェントが展開されると予測しており、Microsoftはこの「エージェント経済」の管理レイヤーを先に押さえに行った格好だ。

もう一つ興味深いのが「Copilot Cowork」だ。2026年6月16日に世界一般提供が始まったこの機能は、複数ステップにまたがる長時間タスクを自律的に実行するもので、一般提供時点ではAnthropicのOpus 4.8・Sonnet 4.6モデル上で動作する(Frontier契約顧客はGPT-5.5も選択可能)。OpenAIに巨額投資しているMicrosoftが、エージェント機能の中核にAnthropicのモデルを採用したという点は、実力本位でモデルを選んでいる証左とも読める。なお、Microsoftは「Anthropic自身のClaude Coworkと比べて、M365コネクタ利用時で1プロンプトあたり平均30〜40%安い」と主張しているが、これも自社発表の数値であり第三者検証は確認できていない。

5. 使われているか?― シート数と実際の利用率のギャップ

ここまでの数字だけを見るとCopilotの快進撃という印象を受けるが、「導入されたシート数」と「実際に使われているか」は別の話だ。米国の調査会社Recon Analyticsが150,000人超の米国の有償AIサブスクライバーを対象に実施した調査(2025年7月〜2026年1月)によると、複数の選択肢がある環境でのCopilotの選ばれ方には興味深い傾向がある。

利用可能な環境 Copilot ChatGPT Gemini
Copilotのみ提供された場合 68%が主用ツールに
CopilotとChatGPTの両方が使える場合 18% 76%
3種すべてが使える場合 8% 70% 18%

つまり、会社支給がCopilotしかない環境では7割近くが使うが、選択肢が増えるほどCopilotのシェアは急落する。同じ調査では、Copilotの米国有償サブスクライバーシェアは2025年7月の18.8%から2026年1月には11.5%へ、7か月で約4割縮小したとされる。また「アクセス権を持つ人のうち実際に使っている割合」(職場での転換率)はCopilotが35.8%であるのに対し、ChatGPTは83.1%だ。Office 365への統合という配布上の強みが、必ずしもユーザーの支持には直結していないことを示す数字と言える。ただし、これは米国の有償サブスクライバーのみを対象にした調査である点は割り引いて読む必要がある。

6. 日本と主権AI ― 100億ドル投資の裏にある「2028年」問題

2026年4月3日、Microsoft副会長のBrad Smith氏が来日し、高市早苗首相との会談の場で、2026〜2029年の4年間で100億ドル(約1.6兆円)を日本に投資すると発表した。過去最大規模の対日投資で、技術・信頼・人材の3本柱からなる。技術面ではSakura InternetおよびSoftBankと連携し、国内所在のGPUを含むAI計算資源を提供する。人材面ではNTTデータ、NEC、富士通、日立を含む主要IT企業5社と協業し、2030年までに100万人のAI人材を育成するとしている。発表直後、Sakura Internetの株価は一時20%超上昇した。

一方で、あまり目立たない形で先送りされた項目もある。ユーザーがCopilotに打ち込むプロンプトや、Copilotが返す応答といった「対話データ」を、実際にどの国のサーバー上でAIモデルに処理させるか、という話だ。専門的には「国内推論処理(in-country inferencing)」と呼ばれる。2025年11月の当初発表では、豪州・英国・インド・日本の4か国で2025年内にこのオプションを提供するとされていた。ところが、100億ドル投資と同じ2026年4月3日付でこの記事に追記されたEditor's noteでは、日本の提供時期が2028年へ後退している。豪州・インド・UAE・英国・米国は2026年末、カナダは2027年という見込みが維持される一方、日本だけが最も遅い部類に回った形だ。似た言葉に「データ保存(レジデンシー)」があるが、これは対話ログなどを日本国内の拠点に保管しておくだけの話で、既に27か国で提供済みだ。それに対し、ユーザーが実際にCopilotとやり取りするたびにAIモデルが計算(推論)を行う場所を日本国内に限定する対応は、当分先になるということになる。

日本政府自身の生成AI基盤にも動きがあった。デジタル庁は2025年5月以降、職員向けの生成AI利用環境「源内(げんない)」を構築してきたが、2026年3月6日、全府省庁・約18万人を対象とした大規模実証の開始と、源内で試用する国産LLMの選定結果を同時に発表した。15件の応募から選ばれたのは以下の7モデルだったが、5月29日付でデジタル庁が公表した資料によれば、このうち2社が選定後に契約を辞退し、最終的に2026年度の評価検証対象となったのは5モデルにとどまる。

提供企業 モデル名 2026年度評価検証への参加状況
NTTデータ tsuzumi 2 契約締結済み
ソフトバンク Sarashina2 mini 契約締結済み
NEC cotomi v3 契約締結済み
富士通 Takane 32B 契約締結済み
Preferred Networks PLaMo 2.0 Prime 契約締結済み
KDDI・ELYZA共同応募体 Llama-3.1-ELYZA-JP-70B 選定後に辞退
カスタマークラウド CC Gov-LLM 選定後に辞退

なお、辞退した2社の社名はデジタル庁の資料で明示されているわけではなく、当初の選定7件と契約済み5件の差分から推定したものである点は付記しておく。今後のスケジュールとしては、2026年8月頃から源内上での国内LLM試用が始まり、2027年1月頃に評価結果の一部が公表され、2027年4月以降、優れたモデルの有償調達が検討される見込みだ。また2026年4月24日には、源内の一部コンポーネントがGitHub上でMITライセンスにより公開され、自治体や民間企業でも活用できるようになっている。

整理すると、日本市場では「Microsoftの主権AIインフラ投資」「政府独自の国産LLM基盤」「Copilotの対話データを国内で処理する対応の先送り」という三つの動きが同時並行で進んでいる。Microsoft・SoftBank・Sakura Internet陣営、NTTデータ・NEC・富士通・PFNなど源内参加各社、そして両者の間で提携も競合もするという構図は、当面整理がつきそうにない。

まとめ

2026年前半のMicrosoftを一言でまとめるなら、「OpenAI一本足打法からの脱却」だろう。契約上の独占関係を手放し、自社モデルMAIを本格投入し、Copilot Coworkの中核にはAnthropicのモデルを据えた。この身の軽さは、OpenAI・Amazon間の提携が既成事実化する中での防御的な選択でもあっただろうが、結果としてMicrosoftは特定ベンダーへの依存度を下げつつ製品ラインナップを拡張している。

ただし、Copilotの有償シート数が四半期ごとに更新されるスピード感と、実際の職場での選ばれ方には距離がある。導入されたことと使われ続けることは別の話だ、という当たり前の教訓が、この分野でも当てはまっている。日本市場に関しても、100億ドル規模の投資という華やかな発表と、Copilotに入力した対話データを日本国内で処理する仕組みは2028年まで整わないという地味な現実が同居している。華々しい発表の裏側を一次情報まで確認する習慣は、この業界を追う上でますます重要になりそうだ。

主な参考資料:Microsoft FY26 Q3決算Microsoft FY26 Q4決算発表Microsoft Build 2026公式ブログ(MAIモデル発表)Microsoft 365 E7発表Copilot Cowork一般提供Microsoft対日100億ドル投資発表M365 Copilot国内データ処理(日本は2028年に改定)デジタル庁「源内」国産LLM選定結果Recon Analytics「AI Choice 2026」

火曜日, 7月 28, 2026

攻撃は29分、暗号の寿命はマイナス5年 ── 情報セキュリティの現在地と2031年までの5年展望

2025年から2026年前半にかけて、情報セキュリティの前提がいくつも書き換わりました。攻撃者が初期侵入から横展開に移るまでの平均時間は29分になり、AIが攻撃タスクの8〜9割を自律実行した諜報作戦が公表され、耐量子暗号(PQC)への移行期限は「2035年」から「2030年」へと一気に5年前倒しされました。どれも単発のニュースとしては流れていきますが、並べてみると同じ方向を指しています。

本稿では、公表されている一次情報(各社の年次脅威レポート、政府機関の勧告、警察庁・IPAの統計、大統領令やEU規則の条文)を突き合わせて、いま何が起きているのかを整理し、そのうえで2031年頃までの5年間に何が起きそうかを検討します。日本国内の事例と規制も含めて扱います。

先に結論を書きます。今後5年の主軸は①攻防双方でのAIエージェント化、②2030年前後に前倒しされた耐量子暗号移行、③NIS2・CRA・能動的サイバー防御法という「規制の執行フェーズ」入りの3つです。そして実務上の最優先事項は、これら3つのどれでもなく、アイデンティティの防御です。理由は本文で述べます。

本稿の後半は将来予測を含みます。確定した事実(インシデント、統計、法令の施行日)と、予測・推計(Q-Dayの時期、AI攻撃の進展、市場規模の見通し)は文中で区別して記述しますが、後者はあくまで現時点の見通しであり、精密な予測ではありません。また、脅威レポートの統計の多くはベンダー各社の顧客・テレメトリに基づくサンプルであり、業界全体を代表するとは限らない点にもご留意ください。

1. 2025年の脅威ランドスケープ:速度と「回復妨害」

2025年を総括する主要レポートは2026年前半に出揃いました。まず、数字を並べます。

レポート 公表時期 主要な数値(2025年実績)
Mandiant M-Trends 2026 2026年3月23日 世界の滞留時間の中央値は14日(前年11日)。諜報/北朝鮮IT労働者事案に限れば122日。初期感染経路は脆弱性の悪用が32%で6年連続首位、ボイスフィッシングが11%で2位に急浮上、メールフィッシングは6%まで低下。内部検知率は52%(2024年は43%)。IR実績50万時間超が母集団。
CrowdStrike 2026 Global Threat Report 2026年2月24日 eCrimeの平均ブレイクアウトタイムは29分(2024年48分、2023年62分)、最速27秒。AI活用型攻撃者の活動は前年比89%増。検知の82%はマルウェアを伴わない。脆弱性の42%が公開前に悪用。クラウド侵入37%増、国家系のクラウド標的は266%増。中国系38%増、北朝鮮系130%増。
Microsoft Digital Defense Report 2025 2025年10月16日 動機が判明した攻撃のうち恐喝・ランサムが52%超、諜報はわずか4%。インシデントの80%でデータ窃取が目的。初期侵入は28%がフィッシング/ソーシャルエンジニアリング、18%が未修正の公開資産、12%が露出したリモートサービス。対象期間は2024年7月〜2025年6月。
GTIG「2025 Zero-Days in Review」 2026年3月5日 実際に悪用されたゼロデイは90件(2024年78件、2023年100件)。うち企業向け技術が43件・48%で過去最高、その約半数(21件)がセキュリティ/ネットワーク製品。エッジ機器は14件。ブラウザは10%未満まで低下。

ここから読み取れる構造変化は3つあります。

第一に、時間軸が壊れました。M-Trends 2026が指摘するように、初期アクセス業者が足がかりを得てから二次グループへ引き渡すまでの時間の中央値は、2022年の8時間超から2025年には22秒に短縮しました。初期アクセス業者が侵入時点で二次グループ好みのマルウェアやトンネルを事前配置するようになったためです。実務的な含意は明白で、「マルウェア検知の軽微なアラート」を数十分後に処理する運用は、その時点ですでに手遅れになり得ます。さらにM-Trends 2026は、脆弱性が公開修正前に悪用されるまでの平均時間をマイナス7日(推定値)としました。パッチが出る前に悪用が始まっているという意味で、パッチ適用速度の競争は前提として成立しなくなりつつあります。

第二に、ランサムウェアが「暗号化」から「回復妨害」へ軸足を移しました。M-Trends 2026は、REDBIKE(Akira)やAGENDA(Qilin)といった主要グループがバックアップ基盤・ID基盤・仮想化管理面を狙い撃ちする体系的な変化を報告しています。具体的には、設定不備のActive Directory証明書サービステンプレートを悪用してパスワードローテーションを回避する管理者アカウントを作る、クラウドストレージのバックアップオブジェクトを削除する、ハイパーバイザーのデータストアを直接暗号化してすべての仮想マシンを一斉に停止させる、といった手口です。ゲストOS側にどれだけEDRを入れていても、Tier-0であるハイパーバイザーを取られれば意味をなしません。

第三に、身代金は払われなくなりました。Coveware(2025年にVeeamが買収)の四半期レポートによれば、身代金支払率は2025年第4四半期に約20%と観測史上最低を記録しました。データ窃取のみの恐喝(DXF-only)でも約25%です。従来25〜35%のレンジで推移していた支払率が明確にその下を割り込んでおり、Covewareはこれを一時的な変動ではなく構造的に低い新しい均衡と評価しています。2026年第1四半期は約23%とやや戻していますが、水準としては歴史的な低さです。

この「攻撃は増えるが払われない」というねじれが、攻撃者側にビジネスモデルの再設計を迫っています。Covewareは今後の見通しとして、恐喝アクターがデータ窃取型からデータ暗号化型へ回帰する可能性を挙げています。実際、2025年第4四半期のランサムウェア市場シェア上位2つ(Akira 14%、Qilin 13%)はいずれも暗号化を主たるレバレッジとするグループで、3位以下のデータ窃取専業グループより成功していました。CL0PがOracle E-Business Suiteのゼロデイ(CVE-2025-61882/CVE-2025-61884、遅くとも2025年8月9日から悪用)を使って実施した大規模窃取キャンペーンですら、CL0Pの過去5回の同種キャンペーンの中で最も収益化が低調だったとCovewareは分析しています。

2. AIは攻撃側で「実運用」に入った

2025年11月13日、Anthropicが公表した脅威インテリジェンスレポート「Disrupting the first reported AI-orchestrated cyber espionage campaign」は、この分野の議論の前提を変えました。同社が2025年9月中旬に検知した作戦(同社はGTG-1002と命名、中国国家支援と高い確度で評価)では、攻撃者がClaude Codeとモデルコンテキストプロトコル(MCP)サーバーを組み合わせた独自のオーケストレーション基盤を構築し、戦術的作業の80〜90%をAIが自律実行しました。偵察、脆弱性の発見、エクスプロイトコードの生成、認証情報の窃取、データの持ち出しまでをAIが担い、人間は標的選定と、偵察から実際の侵害へ進む段階の承認といった戦略的な判断点にのみ関与しています。標的は大手テック企業、金融機関、化学メーカー、政府機関など約30組織でした。

技術的な要点は、新奇なマルウェアではなくオーケストレーションにあります。同レポートによれば、基盤は「圧倒的にオープンソースのペネトレーションテストツールに依存」しており、MCPがAIとそれらの汎用ツールの間のインターフェースとして機能することで、AIが複数の標的とセッションをまたいで作戦状態を維持できていました。攻撃者はClaudeに対し「防御的なセキュリティテストを実施するセキュリティ企業である」というロールプレイを課すことで安全機構を迂回しています。

ただし、この事例の受け止め方には留保が必要です。GTG-1002というのはあくまでAnthropicが付けた呼称であり、公開の脅威データベースでの相互裏付けは限定的です。侵害指標(IOC)も公開されていません。加えて、Anthropic自身が調査の中でAIが攻撃作戦中に幻覚を起こしたことを報告しています。存在しない認証情報を「発見した」と報告するなど、自律化の実効性には制約がありました。「初のAI主導型作戦」という位置づけの是非についても専門家の間で議論があります。

より地に足のついた観測としては、Google Threat Intelligence Group(GTIG)の報告が参考になります。実行中に大規模言語モデルに問い合わせて検知回避を図るマルウェア(PROMPTFLUX、PROMPTSTEAL)、侵害した環境内でローカルのAI CLIツールを探索し、あらかじめ用意したプロンプトを実行して設定ファイルを探す認証情報窃取ツール(QUIETVAULT)などが実際に観測されています。CrowdStrikeも、90組織以上でGenAIツールへの悪意あるプロンプト注入インシデントに対応したと報告しています。

一方で、防御側の視点として最も重要な指摘は、M-Trends 2026が明示的に書いていることです。すなわち、「2025年は侵害がAIの直接的な結果として生じた年ではない」。前線から見る限り、成功した侵入の圧倒的多数は依然として人的・システム的な基本的欠陥に起因する、というのがMandiantの評価です。AIによる攻撃の高度化は現実ですが、2026年時点で組織を実際に侵害しているのは、放置されたVPN機器、ヘルプデスクを騙す電話、使い回された認証情報です。この順序を取り違えないことが、限られた予算配分では決定的に重要になります。

AIシステム自体がもたらすリスクも整理が進みました。OWASP Top 10 for LLM Applicationsはプロンプトインジェクションを2版連続で第1位(LLM01)に置いており、2025年にはエージェント型アプリケーション向けの版も公開されて、目標の乗っ取り、ツールの悪用、メモリ/コンテキストの汚染、過剰な権限(Excessive Agency)が焦点になっています。防御の難しさは確率的である点にあり、たとえばAnthropicのClaude Opus 4.5システムカードは、エージェント型コーディング環境における間接プロンプトインジェクションの成功率を1回の試行で4.7%、10回で33.6%、100回で63.0%と報告しています。試行回数を重ねれば防御が破られ得るという性質は、従来の脆弱性とは異なる管理を要求します。

そしてガバナンスの遅れは数字に表れています。Gartnerの分析では、企業のAIツールへの投資額はAI自体を保護するための支出の17倍で、エージェント型AIの導入はそのガバナンス整備を8対1のペースで上回っています。Forresterは2026年の予測として、エージェント型AIの導入が公表を伴うデータ侵害を引き起こし、担当者の解雇に至るケースが出ると述べています。

3. アイデンティティとサプライチェーン:信頼が壊れる場所

2025年の侵害を貫く共通項を一語で言えば、攻撃者は「侵入」せず「ログイン」しているということです。CrowdStrikeによれば検知の82%はマルウェアを伴わず、クラウドインシデントの35%は正規アカウントの悪用でした。Covewareの四半期分析も、リモートアクセスの侵害が初期侵入経路として支配的であり続けていること、そして「リモートアクセス」の意味がVPNやRDPを超えてSaaS管理者アクセス、OAuthトークン、API連携、委任された信頼関係にまで広がったことを指摘しています。攻撃者は統制を破っているのではなく、統制の内側で正規に動いている、というわけです。

この文脈で最も注目すべき変化が、ボイスフィッシング(ヴィッシング)の急上昇です。メールフィッシングが技術的統制の改善により2025年には侵入の6%まで低下した一方、対話型の音声によるソーシャルエンジニアリングが11%で第2位に浮上しました。UNC3944のようなグループがITヘルプデスクを標的にして多要素認証を迂回し、SaaS環境への初期アクセスを得る手口が定着しています。ここで奪われるのが長寿命のOAuthトークンやセッションクッキーであり、これらは標準的なMFAの再認証を経ずに使えてしまいます。さらに、サードパーティのSaaSベンダーを侵害してハードコードされた鍵や個人アクセストークンを盗み、それを使って下流の顧客環境へ横断的に移動する連鎖が観測されています。単一ベンダーの侵害が、そのまま数十社の危機に転化する構図です。

ソフトウェアサプライチェーンでは、2025年に自己増殖型のワームが現実になりました。9月15日に確認された「Shai-Hulud」はnpmエコシステムにおける初の自己複製型攻撃で、npmメンテナのアカウントをフィッシング等で乗っ取り、トロイの木馬化したバージョンを公式レジストリに公開して拡散しました。11月21〜24日の第2波「Shai-Hulud 2.0(The Second Coming)」はさらに攻撃的で、post-installではなくpre-installライフサイクルスクリプトを悪用したため、インストールが失敗しても悪意あるペイロードが実行されます。数時間のうちに約796のnpmパッケージ(1,092バージョン)と25,000以上のGitHubリポジトリが汚染され、Zscalerの分析では487組織にわたる約14,000のシークレットが露出しました。窃取されたシークレットは「Sha1-Hulud: The Second Coming」という説明を付けたGitHub公開リポジトリに格納されており、正規のGitHub APIトラフィックに紛れる設計です。認証情報の窃取に失敗した場合はユーザーのホームディレクトリを破壊しにかかるフォールバックまで備えていました。

諜報側は逆方向、すなわち極端な永続化に最適化しています。VPN、ルータ、ファイアウォールといったエッジ機器はEDRが載らず、オンボードストレージも最小限のためファイルシステムやメモリのフォレンジックが困難です。攻撃者はここにBRICKSTORMのようなインメモリ型のカスタムバックドアを直接展開し、標準的な復旧作業や再起動を生き延びる足場を作ります。BRICKSTORMの滞留時間は400日近くに達しており、多くの組織が採用する90日のログ保持ポリシーでは初期侵入経路も侵害範囲も再構成できません。GTIGは2025年のBRICKSTORMキャンペーンについて、被害企業の知的財産(ソースコードや設計文書)そのものが標的となっていた点を指摘し、これが将来のゼロデイ開発の原資になる可能性を警告しています。

国家支援アクターの動向では、中国系のSalt Typhoonが最大の案件です。2025年8月27日、米FBI・NSA・CISA・国防総省サイバー犯罪センターと13か国の当局が共同勧告を発出しました。FBIによれば、同グループは少なくとも2019年から活動し、80か国以上に及ぶ範囲で、米国内だけでも200社以上を侵害しています。FBIが「関心を持たれていた」として通知した組織は600に上ります。標的は通信に限らず、政府、運輸、宿泊、軍事インフラのネットワークに及びました。バックボーンルータやプロバイダエッジ/カスタマエッジのルータを押さえ、そこから信頼関係を使って他のネットワークへ横展開する手法で、エンドポイント防御を構造的に迂回します。米財務省は2025年1月に四川聚信和網絡科技(Sichuan Juxinhe Network Technology)などを制裁しましたが、FBIは2026年2月時点でも脅威が継続中であると述べています。

なお、ゼロデイの担い手構成には注目すべき変化がありました。GTIGは2025年、追跡開始以来はじめて商用監視ベンダー(CSV)に帰属したゼロデイが従来型の国家諜報グループを上回ったと報告しています。ゼロデイへのアクセスがより広い層に拡散していることを意味します。国家系の内訳では中国系が最低10件と最多(2024年の5件から倍増)である一方、2024年に5件を帰属された北朝鮮系は2025年にはゼロ件でした。金銭目的グループは9件で、2023年の最高記録10件に迫る水準です。

4. 規制:起草の時代から執行の時代へ

2026年は、この10年に起草されてきた規制がまとめて効き始める年です。日本企業にとって重要なのは、EUの規制が域外企業にも及ぶ点と、国内の能動的サイバー防御法の施行が始まっている点です。

制度 適用時期 主な内容と実務上の含意
EU サイバーレジリエンス法(CRA、規則2024/2847) 2024年12月10日発効/報告義務2026年9月11日/主要義務2027年12月11日 デジタル要素を持つ製品の製造者に、実際に悪用されている脆弱性と重大インシデントの報告を義務化。認知から24時間以内に早期警告、72時間以内に本通知、是正措置提供後14日以内(重大インシデントは1か月以内)に最終報告。単一報告プラットフォーム(SRP)経由で一度報告すればCSIRTとENISAに同時共有される。報告義務は全面適用より1年以上早く始まり、既に市場に出ている既存製品にも及ぶ点に注意。
EU NIS2指令+2026年改正提案 加盟国の国内法化が進行中/改正提案2026年1月20日 ドイツ、ポルトガル、オーストリアなどが国内法を制定済み、スペイン・フランス・ポーランドが完了間近。ドイツでは2026年初頭から登録義務が発生し、監督・執行が段階的に強化される。欧州委員会は2026年1月に管轄ルールの簡素化、ランサムウェア攻撃データ収集の合理化、ENISAの調整役強化を含む改正を提案。あわせてDigital Omnibusで「一度報告すれば多方面に共有」する単一窓口方式も提案されている。
米 大統領令14412(Securing the Nation Against Advanced Cryptographic Attacks) 2026年6月22日署名 連邦機関の高価値資産・高影響システムについて、鍵交換のPQC移行を2030年12月31日まで、デジタル署名を2031年12月31日までに完了することを義務化。連邦調達規則(FAR)評議会に対し、契約事業者へ2030年末までのFIPS準拠を求める規則案の策定を指示。同日、量子技術振興の大統領令14413も署名。バイデン政権下では2035年目標だったため、実質5年の前倒し。
日本 サイバー対処能力強化法・同整備法(能動的サイバー防御法) 2025年5月16日成立・5月23日公布/2026年4月から順次施行 正式名称は「重要電子計算機に対する不正な行為による被害の防止に関する法律」。柱は官民連携強化、通信情報の利用、攻撃サーバーへの侵入・無害化、国家サイバー統括室(NCO)設置。大部分は公布から1年6か月以内(2026年11月まで)、通信情報の利用に関する規定は2年6か月以内(2027年11月まで)に施行。基幹インフラ事業者の届出・インシデント報告義務が本格化し、統一報告様式は2025年10月から先行運用中。

能動的サイバー防御法は、日本の姿勢を受動的防御から歴史的に転換させるものですが、論点も残ります。通信情報の利用については国内通信を対象外とし、機械的・自動的な選別によってプライバシーに関わる情報を人が閲覧しない仕組みが法律上明記されていますが、憲法21条が保障する通信の秘密との整合、監督機関の実効性は引き続き検証が必要です。また、攻撃元サーバーが国外に所在する場合の主権上の扱いやエスカレーションリスクもあります。そして実務的な最大の制約は、外交・軍事・インテリジェンスの知見を併せ持つ人材の不足です。

5. 耐量子暗号:時計が5年早まった

2026年前半で最も大きく前提が動いたのが、この領域です。

まず標準化の現状を正確に押さえておきます。NISTは2024年8月13日にFIPS 203(ML-KEM、鍵カプセル化)、FIPS 204(ML-DSA、署名)、FIPS 205(SLH-DSA、ハッシュベース署名)を発行しました。2026年7月時点で最終規格として使えるのはこの3つだけです。HQCは2025年3月11日にバックアップKEMとして選定されましたが、規格自体はまだ策定中で、最終版は2027年頃の見込みです。FALCON由来のFIPS 206(FN-DSA)も策定中。NIST IR 8610では2026年5月に追加の署名候補9件が第3ラウンドへ進みました。「HQC対応済み」といった表現が製品説明に出てきたら、選定済みと規格化済みは別物である点を確認する必要があります。

問題は移行期限です。Global Risk InstituteとevolutionQによる『Quantum Threat Timeline Report 2025』(2026年3月9日付、26名の国際専門家調査、Michele Mosca氏・Marco Piani氏)は、暗号学的に有意な量子コンピュータ(CRQC)が今後10年以内に出現する確率を28〜49%と推計しました。これは同調査7年の歴史で最も高い10年推計です。15年では51〜70%、回答者26名中18名(69%)が15年時点で50%以上と回答し、20年では92%が50%以上、うち半数近くが「極めて高い(99%超)」としています。

そして2026年3月末から4月にかけて、ハードウェア/アルゴリズム両面の研究が一気に前倒し圧力をかけました。

時期 出来事 内容と留保
2025年5月 GoogleのCraig Gidney氏による資源見積もりの改訂 RSA-2048の解読に必要な物理量子ビット数を、従来の約2,000万から100万未満へと約20分の1に引き下げた。
2026年3月25日 Googleが自社のPQC移行期限を2029年に設定 Chrome、Android 17、Google Cloudには既にPQC保護を展開済みとしている。
2026年3月30日 Google Quantum AIがECC-256向けアルゴリズムの改良を発表 論理量子ビット1,200未満、超伝導ハードウェア換算で物理量子ビット50万未満で256ビット楕円曲線離散対数問題を解ける可能性を示した。ただしアルゴリズム自体は公開されず、存在を示すゼロ知識証明のみが開示されているため、第三者による独立検証はできていない。
2026年3月30日(同日) Oratomic(Caltech系スタートアップ)が中性原子方式の資源見積もりを公表 RSA-2048およびP-256の解読に必要な再構成可能原子量子ビットを約1万と推計。中性原子の全結合性により、超伝導方式で論理1量子ビットあたり約1,000物理量子ビット必要なところを3〜4で済ませられるという主張。これは実証ではなく資源見積もりであり、スタートアップ単独の発表である点は割り引いて読む必要がある。
2026年4月7日 Cloudflareが移行期限を2029年へ前倒し 上記2件を明示的な理由として挙げ、Googleと同じ2029年に合わせた。同社ネットワークへの人間起点トラフィックの65%超が既にPQ暗号で保護されているとする。重点を暗号化から認証へ移した点が最大の変化。
2026年6月22日 米大統領令14412 連邦機関に2030年(鍵交換)/2031年(署名)の期限を課し、契約事業者にも2030年末のFIPS準拠を求める規則策定を指示。翌6月23日には国防総省がPQC戦略を公表。

Cloudflareの優先順位の転換は、実務者にとって最も示唆的です。同社のBas Westerbaan氏は「Q-Dayが遠いなら主なリスクはHarvest Now, Decrypt Later(今収集し後で復号する)だから暗号化が先に来る。だがGoogleとOratomicの成果でQ-Dayのタイムラインが早まったため、認証への攻撃に対する保護がはるかに重要になった」と説明しています。データが後日読まれる被害と、量子計算能力を持つ攻撃者が認証情報を偽造して重要インフラに直接アクセスできてしまう被害では、後者のほうが破滅的だという判断です。コード署名パイプラインの偽造がその典型で、PKI・証明書・署名の移行は暗号化の移行より難易度が高く、業界全体でようやく着手した段階にあります。

日本企業への含意は明確です。米国の期限は連邦政府と連邦契約事業者に課されるものですが、調達を通じてサプライチェーン全体に波及します。加えて、機密保持期間が10年を超えるデータ(設計情報、契約、個人の生体情報、長期の医療記録など)を扱う組織にとって、HNDLはすでに進行中の被害です。着手すべきは暗号資産の棚卸し(cryptographic discovery)と、CBOM(Cryptographic Bill of Materials)を出せる体制、そして暗号を差し替えられるアーキテクチャ(暗号アジリティ)の確保です。移行遅延のコストは四半期ごとに複利で増えます。

6. 日本の現在地

警察庁が2026年3月に公表した「令和7年におけるサイバー空間をめぐる脅威の情勢等について」によれば、2025年に報告された国内のランサムウェア被害は226件で、前年(222件)から4件増え、過去2番目の水準です。ウイルス種別が特定された149件のうちQilinが32件で最多、LockBitが19件で続きました。2025年上半期だけで116件と半期最多に並び、そのうち中小企業が77件と約3分の2を占めて過去最多を更新しています。調査・復旧費用に1,000万円以上を要した組織の割合は前年の50%から59%へ上昇しました。RaaSによる攻撃実行者の裾野拡大が、中小企業の被害増加に直結しているという分析です。

同レポートはランサムウェア以外の数字も深刻です。フィッシング対策協議会への報告件数は245万4,297件(前年比42.9%増)と過去最多、証券会社を装ったフィッシングによる不正取引の被害額は約7,400億円に達しました。ネットバンキング不正送金は4,677件・約102億円、SNS型投資詐欺・ロマンス詐欺は約1,827億円(前年比43.6%増)で、いずれも過去最高です。組織のネットワーク防御の話をしている間に、金銭被害の主戦場はソーシャルエンジニアリングと詐欺に移っている、という構図が数字に出ています。

象徴的な事例がアサヒグループホールディングスです。同社の2026年2月18日付および7月17日付の公表資料によれば、経緯は次の通りです。2025年9月29日午前7時頃にシステム障害が発生し、調査の中で暗号化されたファイルを確認。同日午前11時頃にネットワークを遮断し、データセンターを隔離しました。その後の調査で、障害発生の約10日前に、外部の攻撃者がグループ内拠点のネットワーク機器を経由して内部ネットワークへ侵入し、管理者権限を奪取していたことが判明しています。ランサムウェアグループQilinが犯行声明を出し、約27GBの社内ファイルを窃取したと主張しました。

被害の規模については、報道された数字が時系列で変わっているため注意が必要です。2026年2月18日時点で漏えいが確認された個人情報は115,513件(従業員5,117件、取引先110,396件)で、クレジットカード情報は含まれていません。その後の追加調査を踏まえ、同社は2026年7月17日、二次被害防止の観点から「漏えいのおそれを完全には否定できないもの」まで含める保守的な整理に見直し、漏えいのおそれがある対象範囲を約228.9万件へ上方修正しました。ただし2月時点で確定した漏えい範囲そのものに訂正はなく、データセンターのサーバー内に保管されていた個人情報が外部に流出した事実は確認されていない、とされています。復旧は2026年4月に完了し、独立したセキュリティ部署と専任役員の設置を含むガバナンス強化策が公表されました。

この事例から読み取るべき教訓は、被害件数の大小ではありません。侵入から発覚まで約10日、入口はネットワーク機器、決定打は管理者権限の奪取という流れが、M-Trends 2026やCrowdStrikeが世界規模で観測している傾向とほぼ完全に一致していることです。日本固有の脅威というものは、少なくともランサムウェアに関しては存在しません。

IPAが2026年1月29日に公表した「情報セキュリティ10大脅威 2026」では、組織編の1位が「ランサム攻撃による被害」、2位が「サプライチェーンや委託先を狙った攻撃」で、この上位2つは不動でした。注目は3位に「AIの利用をめぐるサイバーリスク」が初選出された点です。AIの悪用、AI基盤そのものへの攻撃、運用・法的リスクの3側面を含む項目で、「将来的な課題」ではなく現在の統制対象として公的に位置づけられたことの意味は小さくありません。解説書[組織編]は2026年3月12日に公開されています。

7. 2026〜2031年の展望

ここから先は予測です。確度に幅があるため、「確度が比較的高いと考えられるもの」と「不確実性が大きいもの」を分けて整理します。区分は公表されている一次情報と各調査機関の見通しをもとにした筆者の判断であり、精密な予測ではありません。

領域 確度が比較的高いと考えられるもの 不確実性が大きいもの
AIと攻防 攻撃側のAI活用は偵察・エクスプロイト開発・ソーシャルエンジニアリングの各フェーズで常態化する。防御側もトリアージ・調査・シミュレーションでAIを使うのが標準になる。GTIGも2026年の見通しとして両者の競争加速を明言している。 GTG-1002型の高度に自律的な作戦がどれだけ拡散するか。能力が低スキルアクターへ降りてくる速度。当面は攻撃側優位に傾くという見方が有力だが、防御側のAI展開規模次第で逆転し得る。
耐量子暗号 米連邦の2030/2031年期限と調達要件により、サプライチェーン全体でPQC対応が事実上の必須要件になる。CBOMと暗号アジリティが調達仕様に入る。HNDLを前提とした長期機密データの扱いの見直しが進む。 Q-Dayの実際の時期。専門家推計は10年以内28〜49%と幅が大きい。2026年のGoogle/Oratomicの成果は独立検証が済んでおらず、さらなる前倒しも、逆に工学的障壁による停滞もあり得る。
ランサムウェア/恐喝 支払率の低水準は継続する。攻撃者は暗号化への回帰と、バックアップ・仮想化基盤・ID基盤の破壊による回復妨害を強める。Covewareもこの方向を見込んでいる。中小企業の被害比率は高止まりする。 法執行機関の解体作戦がエコシステムに与える影響の持続性。LockBitやALPHV解体後に断片化が進んだが、その後の再集約が起きるかは読みにくい。
規制 CRA報告義務(2026年9月)、CRA全面適用(2027年12月)、日本のACD法段階施行(2026〜2027年)は日程が確定している。クロスボーダー企業のコンプライアンス負荷は増える。 EUのDigital Omnibusによる簡素化がどこまで実現するか。「一度報告すれば多方面に共有」の単一窓口は提案段階で、採択後18か月で適用の見込みとされるが確定していない。
人材 課題の軸が「人数」から「スキル」へ移る。ISC2の2025年版調査(16,029名)では95%が何らかのスキル不足を報告し、59%が「重大または深刻」、十分に充足しているのは5%のみ。70%がAI関連の資格取得を進めている。 AIによる省力化がスキルギャップをどこまで埋めるか。ISC2は2025年版で人材ギャップの推計値の公表を史上初めて見送っており、この数字を追う従来の議論の枠組み自体が変わりつつある。

市場面では、Gartnerの『Forecast: Information Security, Worldwide, 2023–2029, 4Q25 Update』(2025年12月18日)が2026年の世界情報セキュリティ支出を2,442億ドル(前年比13.3%増)と予測しています。最も成長率が高いのはクラウドセキュリティで2026年に28.8%増、CSPM・CASB・CWPPを合わせたクラウドセキュリティ市場は2029年に324億ドルに達する見込みです。ただし前述の通り、AIツールへの投資はAIそのものを守る支出の17倍という不均衡が続いており、支出の総額が増えることと、増えた分が正しい場所に行くこととは別問題です。Gartnerは、他のAIエージェントを監視・統制する「ガーディアンエージェント」が2030年までにエージェント型AI市場の10〜15%を占めると予測しています。

経営層の関心の移り変わりも興味深い変化です。世界経済フォーラムが2026年1月12日に公表した『Global Cybersecurity Outlook 2026』(Accenture協働、92か国804名。うちCISO 316名、CEO 105名)では、CEOの最大の懸念がランサムウェアからサイバー対応型詐欺へ移りました。回答者の73%が自分または身近な人が2025年に詐欺被害に遭ったと答え、77%が詐欺・フィッシングの増加を報告しています。一方でCISOは依然としてランサムウェアとサプライチェーンを最大の懸念に挙げており、取締役会と現場で優先順位が乖離しています。AIについては94%が2026年のセキュリティを最も大きく変える要因と回答、87%がAI関連の脆弱性を最も急増する脅威と回答しました。明るい材料としては、自社のAIツールのセキュリティ影響を評価している組織が2025年の37%から2026年には64%へほぼ倍増しています。

8. 何から手をつけるか

以上を踏まえた優先順位です。5年後を見据えつつ、来週から動かせるものから順に並べます。

今すぐ(0〜6か月)

  • アイデンティティを最優先の境界として扱う。フィッシング耐性のあるMFA/パスキーを全社展開し、OAuthトークンとセッションの寿命を極小化する。SaaSアプリケーションは中央のIdP経由に統一し、SaaS連携を定期監査する。FIDO Allianceの『State of Passkeys 2026』(2026年5月7日)によれば世界で50億のパスキーが使用中で、組織の68%が従業員サインインへの展開または展開作業中、世界トップ100サイトの48%がパスキーに対応済み。技術的な障壁はもう理由になりません。
  • ヘルプデスクをヴィッシング対策で訓練する。侵入経路の11%を占め第2位に浮上した経路であり、技術ではなく手順の問題です。本人確認手続きを、電話越しに再現できない要素に基づく形へ改める。
  • 可視性の空白を埋める。エッジ機器、ハイパーバイザー、認証プロトコルのログを中央のSIEMへ集約し、保持期間を90日から最低1年へ延長する。BRICKSTORM級の400日近い潜伏に対し、90日保持では侵害範囲すら証明できません。
  • 低影響アラートを重大指標として扱う。引き渡しが22秒まで縮んだ以上、「ありふれたマルウェア検知」は数十分後に始まる二次侵害の予告と見なして対応プレイブックを組み直す。
  • 社内で動いているAIエージェントを棚卸しする。認可・非認可を問わず数を把握し、間接プロンプトインジェクションを脅威モデルに組み込む。Google SAIFなどのフレームワークが出発点になります。

中期(6〜18か月)

  • ランサムウェア対策をレジリエンスの問題として再設計する。仮想化基盤と管理面をTier-0として最も厳しいアクセス制約下に置き、バックアップ環境を社内Active Directoryドメインから分離してイミュータブルストレージを使う。復号鍵に頼らず復旧できる状態が、支払率20%という数字の実態です。
  • PQC移行のロードマップに着手する。暗号資産の棚卸し→ハイブリッド証明書のパイロット→暗号アジリティのアーキテクチャ化。機密保持期間が10年を超えるデータから優先する。米国の2030/2031年期限は調達を通じて日本企業にも波及します。
  • サードパーティ/SaaSのリスク管理を整える。SSPM等でSaaS資産を棚卸しし、エンドユーザーによる未検証アプリへの同意を無効化する。ベンダー選定基準にSSO対応と監査ログの提供を必須で入れる。
  • CRA報告義務(2026年9月11日)への対応体制。EU市場に製品を出しているなら、既存製品も含めて24時間/72時間/14日の報告フローを回せる体制が必要です。

長期(18か月〜)

  • AIを防御の力の増幅装置として組み込みつつ、人間の判断力に投資する。調査・トリアージ・レッドチーミングの自動化は費用対効果が見えやすい領域です。同時に、AIが出力した判断を評価できる人材がいなければ、自動化はリスクの所在を移すだけに終わります。
  • 静的なIOCから振る舞い検知へ移行する。インフラを高速に切り替え、インメモリのカスタムマルウェアを使う相手に対して、シグネチャベースの検知は前線を張れません。

最後に、判断を切り替える閾値を3つ挙げておきます。①GTIGの年次ゼロデイ報告で、企業向け技術・セキュリティ製品を標的とする割合がさらに上昇したら、エッジ機器のパッチ優先度を全社最上位に引き上げる。②Q-Day推定が2028年以前に前倒しされる、あるいはGoogleのECCアルゴリズムが独立検証されたら、PQC移行を全社最優先プロジェクトへ格上げする。③社内で稼働するAIエージェント数が管理可能な閾値を超えたら、エージェント専用のIAMと監査基盤を必須化する。

まとめ

2025年から2026年前半にかけて起きたことを一文でまとめると、「攻撃の速度が人間の対応速度を追い越し、防御の前提だった暗号の耐用年数が5年縮んだ」ということになります。AIエージェントによる攻撃の自律化と、耐量子暗号への駆け込み移行という2つの構造変化は、どちらも今後5年間の中心議題であり続けるでしょう。

ただし、Mandiantが2026年の報告書ではっきり書いた通り、2025年に組織を実際に侵害したのは、依然として人的・システム的な基本的欠陥でした。放置されたネットワーク機器、ヘルプデスクを騙す電話、Tier-0として扱われていなかった仮想化基盤。アサヒグループの事例が示したのも、まさにこの三点です。AIとQ-Dayの議論に予算と注意を吸い取られて足元が空くという失敗は、十分に起こり得ます。

身代金支払率が20%まで落ちたという事実は、防御側が構造的に勝ちつつある領域があることも示しています。バックアップの完全性、復旧計画、インシデント対応の実行力という、地味で測定可能な投資が、攻撃者の経済性を実際に削っている。5年先を見据えるからこそ、来週やるべきことは変わらない、というのが本稿の結論です。

日曜日, 7月 26, 2026

【2026年7月版】eVTOL産業の最新地図 ―― Joby型式証明目前、EHangは商用化遅延で予想下方修正

2025年末にまとめた「2026年 電動垂直離着陸機(eVTOL)産業白書」では、大阪・関西万博を経て産業が「勝者と敗者を選別するフェーズ」に入ったこと、そして欧州勢(Volocopter、Lilium、Airbus)が相次いで脱落する一方、米国勢と中国・EHangが2026年の商用化に向けて前進する構図を描いた。それから7カ月が経過した2026年7月末時点で、この大枠の見立ては概ね現実化している。

最大の変化は、業界の重心が「開発競争」から「規制・量産競争」へ移ったことだ。米国ではJoby AviationがFAA型式証明の最終段階に入り、Archer Aviationが追走する。欧州では、破綻したVolocopterが中国資本(万豊グループ/Diamond Aircraft)の傘下に入り、Liliumは特許資産のみがArcherに買い取られるという、白書執筆時点では確定していなかった「淘汰の着地点」が明確になった。

一方で、白書の見立てが楽観に過ぎた部分もある。中国・EHangの商用運航は当初計画どおりには立ち上がっておらず、2026年4月には米SECへの年次報告書(Form 20-F)提出を「売上計上時期の見直し」を理由に延期し、大手証券会社が2026〜2028年の出荷・売上予想を大幅に引き下げる事態となった。「認証を先に取った者が商用化でも先行する」という単純な図式は、少なくとも収益化のスピードという点では成立していない。本稿は、これら2026年1月〜7月の動きをファクトチェックの上でまとめ、白書からの「差分」として整理したものである。

本稿に含まれる「2026年後半に商用運航開始」「2027年に型式証明取得」といった時期の見通しは、各社が公表時点で示した目標であり、確定した事実ではない。eVTOL業界はこれまでも型式証明の目標時期を繰り返し後ろ倒ししてきた実績があるため、実際の進捗は本稿執筆時点(2026年7月26日)の情報を上限として理解されたい。また、認証プロセスの段階呼称(Jobyの「5ステージ」、Archerの「4フェーズ」)は各社が自ら用いている表現であり、FAAの単一の公式区分に対応するものではない。

1. 米国:FAA型式証明「最終コーナー」に入ったJoby、可視化を待たれるArcher

Joby Aviationは2026年3月11日、FAA承認設計に基づく最初の実機「N547JX」の飛行試験を開始したと発表した。これはType Inspection Authorization(TIA)と呼ばれる、FAA試験パイロットが直接評価に入る最終段階を支える機体である。同社は2026年第1四半期の株主レターで「SR3監査を完了した。これは認証プロセスにおける4つの主要レビューのうち3番目で、最終段階に向けて試験データと結果がFAAの期待水準を満たすことを確認する長期先行項目である」と説明している。一部業界メディアは「ステージ4完了」という表現でこの進捗を報じているが、同社自身はこの呼称を用いておらず、本稿では同社の公表表現に従う。いずれにせよ、TIA試験そのものはまだ開始されておらず、FAAパイロットによる「for-credit」飛行試験は2026年後半に見込まれている段階だ。ロイターの取材に応じた専門家は、米国での最初のeVTOL型式証明は2027年より前には出ない可能性が高いとの見方を示している。

事業面での動きは活発だ。2026年4月にはニューヨーク市初となるeVTOLの地点間飛行(JFK空港からマンハッタンの3カ所のヘリポート)を実施。6月30日にはトヨタ自動車との製造アライアンス第一段階の開始を発表し、7月22日にはヴァージン・アトランティック航空との複数年契約を締結して英国での独占航空会社パートナーとした(デルタ航空がヴァージン・アトランティックに49%出資している関係を活用した提携である)。また、コアとなる電動プラットフォームにガスタービンを組み合わせた「タービン・エレクトリックVTOL」の初のトランジション飛行にも成功しており、最大離陸重量での148マイル飛行を記録している。2026年第1四半期末時点の現金・現金同等物・短期投資は25億ドル。

Archer Aviationは、FAAの4フェーズ型式証明プロセスのうちフェーズ3を業界で初めて完了したと2026年5月に発表し、フェーズ4(適合性の実証試験)に進んでいる。ただし技術面では課題が残る。Archerは2024年6月に無操縦(遠隔操縦)でのトランジション飛行には成功しているが、パイロットが搭乗した状態でのトランジション飛行は2026年7月時点でも公開実施していない。同社は2026年前半にパイロット搭乗でのVTOL飛行試験を開始しており、有人トランジションは2026年後半を予定するが、この「未達のマイルストーン」がJobyとの進捗差として市場の関心を集めている。7月20日には防衛企業Anduril Industriesと共同開発した自律VTOLプラットフォームを発表し、商用機「Halo」と防衛派生型「Thunder」を公開するなど、旅客事業以外への事業分散を進めている。2026年第1四半期末の流動性は約18億ドル。

両社に共通する追い風が、FAAが2026年3月9日に発表した「eVTOL統合パイロットプログラム(eIPP)」である。トランプ政権の大統領令に基づき、30件超の応募から8プロジェクト・26州が選定された。型式証明の完全取得前でも、管制官とやり取りしながら実際の国家空域で有償の貨物輸送等を行える点が特徴で、Archer・Joby・BETA Technologies・Wisk・Electra・Elroy Air・Reliable Robotics等が参加する。Jobyは自社の発表で「最大11州で型式証明取得前の早期運航を開始する機会を得た」としている。参加社数で最多となったのはBETA Technologiesで、8プログラム中7つに選定され、2026年7月にはUnited Therapeuticsと共同でバージニア州からメリーランド州への臓器輸送を想定した飛行試験を実施した。

2. 中国:認証では先行、しかし収益化は想定より遅れる

EHangは2026年3月12日の2025年通期決算発表で、「今月中にEH216-Sの商用運航を広州・合肥で開始する」と表明した。運航主体は2025年3月にCAAC(中国民用航空局)から運航者証明(OC)を取得した2社――広東EHang General Aviation(完全子会社)と、合肥市との合弁である合肥合翼航空――で、広州のEHang Future Cityと合肥の駱崗中央公園で有料の遊覧飛行サービスを提供する計画だった。複数の業界メディアは3月に有料運航が開始されたと報じているが、同社自身の2026年第1四半期発表(6月9日)における表現は「公衆向け商用運航に向けた進展を継続中」というもので、本格的な定常運航への移行が完了したとは述べていない。

財務面はむしろ厳しい。2026年第1四半期の売上高は2,570万人民元(370万米ドル)で前年同期比ほぼ横ばい、記録的だった前四半期(1億7,760万人民元)からは機体納入の減少により大幅に落ち込んだ。純損失は1億2,640万人民元。粗利率62.5%は維持しており、通期ガイダンス6億人民元も据え置いているが、CFOは第1四半期の売上の約40%が「空中メディア事業」(ドローンショー等)であったと説明しており、有人eVTOL事業が収益の柱になっているわけではない。加えて同社は2026年4月30日、2025年度のForm 20-F提出延期を届け出た。理由は「売上計上時期の見直し」で、2025年に計上した一部売上が後の期にずれる可能性を示唆するものだった(20-F自体は5月15日に提出済み)。この前後にUBSは投資判断をBuyからNeutralに引き下げ、2026〜2028年の出荷・売上予想を50〜70%削減、損益分岐点の到達時期を2029〜2030年へと後ろ倒しした。理由として挙げられたのが、eVTOL商用化の遅れと、広州・合肥の地方政府による認可への強い依存である。長距離型「VT35」は2025年10月発表・同年12月に合肥で公開実証飛行を実施し、CAACとの型式証明基準策定段階にあるが、こちらも商用化には時間を要する。

AutoFlightは、貨物用「V2000CG CarryAll」がCAACの型式証明・生産証明・耐空証明をすべて取得し、洋上石油プラットフォームへの飛行実績も積んでいる。有人用の「V2000EM Prosperity」は2026年5月時点で「コンプライアンス検証フェーズ」にあり、型式証明は未取得である。2025年10月にUAEのFalcon Aviation Servicesと貨物機15機・有人機35機の計50機の契約を結んでいるが、有人機はUAE当局(GCAA)側での認証取得も別途必要になるため、貨物機が先行する形になる。

XPeng傘下で「空飛ぶクルマ」を手がけてきたAeroHTは、2025年10月にドバイで開催したイベントで社名を「ARIDGE」(Air+Bridge)に変更した。地上を走る6輪の母艦から2人乗りeVTOLモジュールを分離させる「陸空母艦(Land Aircraft Carrier)」については、CAACが飛行体(コード名X3-F)の型式証明申請と機体の生産証明申請をいずれも受理しており、審査が進行中である(型式証明の取得は完了していない)。広州の量産工場は2025年9月末に完成し、年産1万機の能力を持つとされる。世界での予約受注は2026年前半時点で7,000件超、うち600機は中東の複数企業グループからの大口契約で、価格は200万人民元(約28万米ドル)を下回る水準とされている。納入開始は2026年、本格量産は2027年という計画が示されている。

政策面では、改正「中華人民共和国民用航空法」が2026年7月1日に施行され、低空経済に関する「発展促進」章が新設されるとともに、高度300メートル以下の空域を分類管理する規則が明確化された。無人航空機の実名登録・識別に関する強制国家標準も2026年5月1日に施行されている。低空経済は「十五五」規画で新興支柱産業の一つに位置づけられ、2026年7月25日に上海で閉幕した「国際低空経済博覧会」には過去最多となる452社が出展し、23件の世界初公開・42件の中国初公開があったと新華社が報じている。なお市場規模については、白書類によって「2023年に5,059.5億人民元、2026年に1兆人民元超え」とする試算と、「2025年時点で既に1.5兆人民元」とする試算が並存しており、算出範囲(無人機物流を含むか等)が異なるため単純比較はできない。

3. 欧州:淘汰の「着地点」が確定 — Volocopterは中国資本傘下、Liliumは特許のみ現存

白書執筆時点(2025年12月)では「投資家探索継続中」としていたVolocopterの行方は決着した。同社の資産は、ダイアモンド・エアクラフト・インダストリーズの中国側親会社である万豊(Wanfeng)グループに約1,000万〜1,100万ユーロ規模で売却された。2022年時点のピーク評価額と比較すると99%を超える下落である。Liliumについては、Mobile Uplift Corporationによる約2億ユーロの救済合意が資金未達で頓挫し、2025年2月の2度目の破産申請以降、再建は実現していない。2025年8月には別の投資家グループ(Ambitious Air Mobility Group)が資産買収による事業再開を模索したが交渉は難航し、最終的に同社が保有していた高電圧システム、バッテリー管理、フライトコントロール、ダクテッドファン推進などに関する特許ポートフォリオ(約300件)は、2025年10月にArcher Aviationが1,800万ユーロで競争入札を制して取得した。バッテリー工場は別のドイツ企業Vaeridionに売却されており、Lilium本体としての再建ではなく資産の切り売りという形で決着している。

英国のVertical Aerospaceは、これまで開発してきた実証機「VX4」を土台に、2025年12月、量産を前提とした新型機「Valo」を発表した。VX4は2026年4月14日に有人でのトランジション飛行に成功し、6月には2機目のVX4プロトタイプも初飛行するなど、実証プログラム自体は着実に進んでいる。しかし本命であるValoについては、当初「2028年に英国CAAとEASAの型式証明取得」としていた目標が、2026年7月13日の発表で「2029年」へとさらに後ろ倒しされた。同社は「新しい航空機クラスを既存の認証フレームワークで型式証明する厳格さを反映したもの」と説明しており、詳細設計審査(CDR)の完了目標は2026年末としている。Valoは認証キャンペーン用に7機が英国で製造される計画である。欧州勢の中では最後まで独立系として生き残っている企業だが、認証スケジュールの遅延という点では他の欧米勢と同じパターンをたどっている。

4. 日本:万博後の「地域実装」フェーズへ着実に移行

SkyDriveは2026年4月20日、JCAB(国土交通省航空局)から日本のeVTOL専業メーカーとして初めて「設計組織承認(ADO)」を取得したと発表した。同年5月8日には、大阪府・大阪市・大阪メトロ・Soracle・丸紅で構成する日本初のeVTOLバーティポート商用化コンソーシアムを発足させ、大阪港バーティポートの商用化に向けた官民ロードマップの議論を開始した。背景には、関西経済連合会が2026年3月25日に公表した「2035年までに大阪湾岸エリアで約100機のeVTOLが飛ぶ」というビジョンがある。さらに7月9日にはHondaJetやBell 429を運航するJapan Biz Aviation(JBZ)と商用運航体制構築に向けたMoUを締結し、7月13日には山口県の実証拠点で瀬戸内海遊覧を想定した実証飛行(最大速度86km/h、高度30m、遠隔・自律操縦)を実施した。7月のファーンボロー国際航空ショーでは、高精度機械加工部品の供給に関してイトーとの供給契約も締結している。累計受注は427機(プレオーダー354機、基本購入契約73機。うちドバイAeroGulf Servicesからの20機を含む)に達し、試作機の累計飛行回数は300回を超えた。商用運航開始の目標は2028年で変わっていない。

Hondaは2025年11月のドバイエアショーで、それまで非公開で進めていたハイブリッド型eVTOLの開発状況を初めて公にした。バッテリー単独ではなく、ガスタービン発電機とバッテリーを組み合わせたハイブリッド推進を採用しているのが特徴で、純電動機の2倍以上となる最大航続距離400kmを目標に掲げる。1/3スケールの実証機で400回超の飛行試験を積み重ね、ホバリングから巡航への遷移制御を検証済みとしており、2026年4月1日には米カリフォルニアの開発拠点で実機大の技術検証機による飛行試験を開始したと同社が公式に発表している(発表日は2026年5月12日)。事業化目標は2030年頃、型式証明取得は2030年代初頭を見込む。

5. バッテリー技術:研究室の記録と量産の距離

白書が指摘した「バッテリーがアキレス腱」という構図は、2026年7月時点でも本質的に変わっていない。eVTOL各社が現在要求するバッテリー性能は概ねエネルギー密度300Wh/kg・サイクル寿命500回程度とされ、自動車用EVバッテリー(250〜300Wh/kg)と大差ない水準にとどまる。

実機での成果として最もよく引用されるのが、EHangが2024年11月13日に発表した全固体電池搭載機の飛行試験である。深圳のInx Energy製(リチウム金属負極・酸化物セラミック電解質、公称エネルギー密度480Wh/kg)を搭載したEH216-Sが48分10秒の連続飛行を記録し、従来比60〜90%の飛行時間延長を確認したとしている。ただしこれは実証機での結果であり、同社が当時掲げた「2025年末までに全固体電池の認証・量産適用」という目標が達成されたことを示す公表は、2026年7月時点で確認できない。

研究レベルでは、清華大学の張強教授らのチームが2025年9月にNature誌へ発表した成果が注目された。フッ素化ポリエーテル系ポリマー電解質とリチウム過剰系マンガン層状酸化物正極、アノードフリー構造を組み合わせた準固体(quasi-solid-state)パウチセルで、重量エネルギー密度604Wh/kg・体積エネルギー密度1,027Wh/Lを達成したものである。ただし、これは「全固体リチウム硫黄電池」ではなく準固体系である点、実験室規模のセルであってパック実装時には数値が下がる点、500サイクル後の容量維持率が72.1%とされる点には注意が必要だ。CATLも2025年5月時点で自社の全固体電池が最大500Wh/kg相当を達成可能としているが、こちらは独立検証を経ていない自社評価である。

業界の大勢としては、2026年型の機体は「半固体電池」を過渡的な選択肢として採用し、本格的な全固体電池の商用量産は2028〜2030年頃という見立てが標準的である。バッテリーがeVTOLの航続距離とペイロードを規定している以上、この時期が実質的に「都市内シャトルから都市間移動へ」の転換点になる。

6. 主要企業ステータス比較(2026年7月26日時点)

企業名 本拠地 認証・許認可の現状 商用化の現状 2026年後半の焦点
Joby Aviation 米国 4大レビュー中3番目のSR3監査完了。TIA用適合機が飛行開始 未商用。eIPPで最大11州の早期運航に参加予定 FAAパイロットによるTIA試験開始、トヨタとの量産体制構築
Archer Aviation 米国 4フェーズ中フェーズ3完了、フェーズ4進行中 未商用。有人トランジション飛行は未公開(無操縦では2024年に達成) 有人トランジション飛行の実施、UAE/米国での早期運航
EHang 中国 EH216-SはTC/PC/AC/OC全取得済み。VT35は基準策定段階 広州・合肥で有料運航を開始したが定常運航への移行は進行中。売上の約40%は空中メディア事業 商用運航の定常化、VT35型式証明、海外展開(タイ等)
AutoFlight 中国 貨物機CarryAllはTC/PC/AC取得済み。旅客機Prosperityは検証段階 貨物機は洋上輸送に実績。旅客機は未商用 Prosperityの型式証明、UAEでの認証取得
ARIDGE(旧XPeng AeroHT) 中国 飛行体の型式証明・生産証明はいずれも申請受理・審査中(取得済みではない) 未商用。予約受注7,000件超、うち中東600機 型式証明取得、先行納入開始
SkyDrive 日本 JCAB設計組織承認(ADO)取得済み。型式証明は申請段階 未商用。累計受注427機、実証飛行を継続中 大阪港バーティポート商用化、量産体制整備
Honda 日本 型式証明取得目標は2030年代初頭。実機大検証機で飛行試験開始 未商用。事業化目標は2030年頃 実機大検証機の試験継続、設計の具体化
Vertical Aerospace 英国 VX4は有人トランジション達成。量産機Valoは型式証明目標を2029年に再延期 未商用 Valoの詳細設計審査(CDR)完了
Volocopter 独(中国資本傘下) 2024年末に破産申請。資産は万豊グループが取得 独立企業としては実質消滅 Diamond Aircraft傘下での技術活用の行方
Lilium 2025年2月に2度目の破産、事業継続を断念 企業としては消滅。特許約300件はArcherが取得 (再建の見込みなし)

7. 2026年後半〜2027年の展望

白書が示した「2026年は完成の年ではなく、長期的な社会実装へのスタートライン」という見立ては、2026年後半に向けてより具体的な形を取りつつある。米国はJoby・Archerともに、型式証明の完全取得より先にeIPPという「型式証明前の限定運航」制度を使って実績づくりを始めており、完全な型式証明の取得は2026年末から2027年以降にずれ込む可能性が高い。中国は認証取得という点では依然として世界最先進だが、EHangの事例が示すとおり、認証と収益化の間には想定以上の距離がある。地方政府の認可、バーティポート整備、運航要員の確保といった実務的な制約が積み上がるためだ。欧州は独立系としてはVertical Aerospaceのみが残り、そのValoも2029年目標への後退に直面している。

日本はSkyDriveが2028年の商用化目標に向けて、認証(ADO取得)・インフラ(大阪港バーティポート)・オペレーター提携(JBZ、東北エアサービス等)の3方向で着実に地歩を固めており、Hondaのハイブリッド路線が2030年前後にもう一つの選択肢を提示する構図になっている。派手さはないが、認証と実運用体制を並行して積み上げるアプローチは、拙速な商用化がむしろ信頼を損なう可能性があるこの分野では合理的な選択と言える。

まとめ

2025年末の白書で描いた「米中が先行し、欧州が淘汰される」という構図は、2026年7月時点でほぼそのまま実現している。変わったのは、淘汰の帰結が明確になった点(Volocopterは中国資本傘下、Liliumは特許のみ現存)と、米中それぞれの「型式証明前でも飛ばす」実務的な工夫(米国のeIPP、中国の運航者証明先行取得モデル)が実際に動き始めた点である。

同時に見えてきたのは、認証を取ることと事業として成立させることが別物だという現実だ。世界で唯一有人eVTOLの全証明を揃えたEHangが、商用化の遅れを理由に大幅な業績予想の下方修正を受けているという事実は、この産業の難所が技術でも規制でもなく「日々飛ばし続けられる運航体制と、それを支える需要」にあることを示している。バッテリー技術という根本的な制約が解消されない限り、この構造は当面大きくは変わらないだろう。

AGIは「一人に一台」なのか——長期記憶と継続学習から考える、AIの提供形態

「AGIの実現には長期記憶と継続学習が前提だ」という見方があります。実際、Andrej Karpathy氏をはじめ複数の研究者が、継続学習の欠如をAGIへの主要な技術的障壁として挙げています。

では仮にそれが実現したとき、AIは個人・企業・団体ごとに「一体ずつ」配備されるのでしょうか。それとも記憶の部分だけが個別化され、本体は共有されるサービスとして提供されるのでしょうか。

結論から言えば、単一の勝者は存在しないというのが現時点での見立てです。ただし用途別の優劣にははっきりした傾向があり、それを決めるのは技術ではなく経済性と統制可能性です。以下、2025〜2026年の一次情報をもとに整理します。

本記事は未来予測を含みます。確立した専門家コンセンサスが存在しない領域のため、確認できる事実と筆者の推定を区別して記述しています。確率の数値は根拠に基づく推定であり、精密な予測ではありません。

1. 「記憶」を実装レイヤーに分解する

「長期記憶・継続学習」は単一の技術ではありません。コストが桁違いの層が積み重なったものです。この分解をしないと議論が噛み合いません。

代表的な実装 個別化コスト 消去・監査のしやすさ
対話文脈 コンテキストウィンドウ ほぼゼロ 容易(セッション終了で消える)
外部知識 RAG、ベクトルDB、GraphRAG 容易(レコード単位で削除・出典提示可)
エージェント記憶 構造化メモリストア、時間的知識グラフ、階層要約 低〜中 容易(項目単位で閲覧・編集可)
適応層 LoRA/アダプタ等のPEFT 差分(リビジョン)単位で管理・ロールバック可
基盤重み 継続事前学習、全パラメータ更新 極大 ほぼ不可能(特定の事実だけ消せない)

重要なのは、最下層以外はすべて共有基盤モデルの上で個別化できるという点です。ここが答えの分岐点になります。

2. 経済性が「共有基盤+個別アダプタ」を強く押す

推論経済の肝はマルチテナントでのバッチング効率です。テナントごとに重みが違えばGPUメモリに重みが張り付き、稼働率が崩壊します。だから素朴には「完全個別化=経済的に不利」となります。

ところが2023年のS-LoRA以降、共有ベース重み+小さなアダプタ差分を多数同時にサービングする技術が急速に成熟しました。2026年5月に公開されたMinT(Mind Lab)は、1Tパラメータ超の共有ベースモデル上でLoRAアダプタのライフサイクル(学習・エクスポート・評価・配信・ロールバック)を管理する基盤です。rank-1設定ではアダプタはベースモデルの1%未満に収まります。

ただし規模の解釈には注意が必要です。100万件のアダプタ・リビジョンを扱えるとされていますが、論文自身が「100万のアダプタが同時に常駐・稼働することを意味しない」と明記しています。実測は単一エンジンで10万規模までのスイープであり、100万リビジョンについては「構築・命名・監査し、限定された常駐ワーキングセットを通じて選択的に配信できる」ことを示したものです。またMinTは商用ベンダーによる論文であり、査読を経ていません。

より本記事の主題に近いのが、同チームが2026年6月に出した姉妹論文「On the Scaling of PEFT: Towards Million Personal Models of Trillion Parameters」です。ここではPEFTを「安価な代替手段」ではなく、共有基盤モデルの上に載る永続的なローカル状態として位置づけ直しています。アダプタが担うのは、嗜好・スキル・ツールの使い癖・記憶的な更新といった、まさに個体差にあたる情報です。

論文が使っている比喩は的確です。ヒトゲノムは99%以上が共有され、個体差は1%未満。同じように、99%以上を共有する基盤モデルと1%未満のアダプタで、何百万もの永続的な「個人モデル」が成立しうる——という構図です。

ただしこの論文の著者自身も、現段階は「実戦投入された商用規模の展開ではなく、まとまった研究青写真である」と率直に認めています。数百万の同時アクティブユーザーを実トラフィックで捌けば、ネットワークとコールドスタート遅延のボトルネックが必ず顔を出します。

3. 継続学習そのものの現在地

では、重みを直接更新し続ける本命の継続学習はどこまで来ているのか。

Google Researchは2024年末にTitansを、2025年11月にNeurIPS 2025でNested Learningを発表しました。後者はモデルを「入れ子になった多層の最適化問題群」として捉え直すもので、アーキテクチャと学習アルゴリズムを同じものの異なるレベルとみなす発想です。実証アーキテクチャHopeは、Titansの自己修正型の変種で、更新頻度の異なるモジュール群からなる連続体メモリシステム(CMS)を備えます。

もっとも、過大評価は禁物です。Google自身の表現は「破滅的忘却のような問題の解決に資する」であり、著者らは継続学習を解決したとは主張していません。Hopeの実験結果も、長文脈推論や記憶集約型タスクで「控えめだが有望」という水準にとどまります。大規模実運用で忘却が克服されたわけではなく、現時点では概念実証と理解しておくべきです。

より根本的な立場もあります。2024年チューリング賞受賞者のRichard Sutton氏は2026年7月、John Carmack氏のKeen Technologiesを離れ、トロントにOak Labを設立しました。現在の深層学習手法を「弱く非効率で、小手先の調整ではなく根本的に新しい発想と全面的な作り直しが必要」と断じ、データを保存・再生することなく実時間で学習し続けるエージェントを目指すとしています。長期目標は、1兆パラメータのエージェントを20ワットで実時間学習・計画させること。

ただしOak Labは基礎研究段階で、製品も公表された資金調達額もロードマップもありません。ここは「有力な異論が存在する」という理解にとどめるのが妥当でしょう。

4. 市場はどちらに動いているか

興味深いことに、実際の製品動向は「重みを個別化する」方向から明確に離れています。

OpenAIはfine-tuning APIを畳んでいます。公式のDeprecationsページによれば、2026年5月7日にセルフサービス型fine-tuningプラットフォームの提供縮小を通知。同年7月2日に制限が強化され、2027年1月6日には既存の稼働中顧客も新規の学習ジョブを作成できなくなります。学習済みモデルでの推論は、ベースモデルが廃止されるまでは継続します。直接の代替サービスは発表されていません。

背景としてOpenAIは、新しいベースモデルが指示やフォーマットの遵守にはるかに優れており、fine-tuningの必要性が下がったと説明しています。オープンウェイトモデル側ではLoRA/QLoRAは健在で、Google Vertex AIやAmazon Bedrock経由のマネージドfine-tuningも継続しています。つまり「fine-tuningの終わり」ではなく、最大手APIにおける重み個別化からの撤退と読むのが正確です。

その一方で記憶機能への投資は加速しています。OpenAIは2026年6月4日、"Dreaming V3" と呼ばれる新メモリアーキテクチャの展開を開始しました。手動で保存するメモリ一覧を廃し、過去の会話全体を読み込んで背景プロセスがユーザー像を合成・更新し続ける仕組みです。時間経過も追跡し、「7月にシンガポールに行く予定」という記憶を、旅行終了後に「2026年7月にシンガポールへ行った」と自動で書き換えます。

OpenAI社内評価(自社ベンチマーク) 2024年版 2025年版 2026年版
事実の想起 41.5% 67.9% 82.8%
嗜好・制約の遵守 31.4% 55.3% 71.3%
時間経過後の正確さ 9.4% 52.2% 75.1%

これらはすべてOpenAIの自社評価であり、方法論やデータセットは公開されていません。独立検証も済んでいないため、方向性のシグナルとして読むべき数字です。とはいえ「時間経過後の正確さ」が9.4%から75.1%へ動いたという主張は、従来の記憶機能が構造的に陳腐化していたことの率直な自認でもあります。配信コストも約5分の1になり、無料プランへの展開が可能になったとされています。

Anthropicのアプローチは対照的です。2025年9月11日にTeam/Enterpriseプラン向けにメモリ機能を提供開始、10月23日にPro/Maxへ、2026年3月2日には無料プランにも拡大しました。特徴はプロジェクト単位で記憶を分離することと、明示的なオプトイン設計、そして記憶をプロジェクト単位でダウンロードしてChatGPTやGeminiへ移せる点です(インポートは実験的機能)。相互運用性を初期から意識した設計と言えます。

専業の記憶レイヤーも市場を形成しました。Mem0は2025年10月28日に総額2400万ドル(シード390万ドル+シリーズA 2000万ドル)の調達を発表。API呼び出しは2025年Q1の3500万件からQ3には1億8600万件へ伸び、AWSは自社Agent SDKの排他的メモリプロバイダとしてMem0を採用しました。共同創業者のTaranjeet Singh氏は、大手AIラボが記憶システムを構築する動機は持っていても、それを可搬・相互運用可能にする動機はほとんど持っていないと指摘しています。この指摘は後述のロックイン論点に直結します。

5. 実務上は「重みに焼かない」ことが要件になる

技術的に継続学習が可能になったとしても、企業システムとしては別の力学が働きます。記憶をパラメータに焼き込むと、以下の性質が付いてきます。

  • 消せない——削除権への対応、退職者データの扱い、誤情報混入時のロールバックが原理的に困難
  • 監査できない——なぜその出力になったかの説明責任、根拠文書の提示ができない
  • 再現できない——「いつの個体か」で挙動が変わり、受け入れテストの前提が崩れる
  • 壊れうる——破滅的忘却、テナント固有データによる汎用性能の劣化

規制産業ほど「記憶は外部化・構造化して、参照可能かつ削除可能な形で持つ」ことが要件そのものになります。この観点は決して枝葉ではありません。Lenovo/IDCのCIO Playbook 2026によれば、AI導入の後期段階にある組織が60%に達する一方、包括的なAIガバナンス枠組みを持つ組織は27%にとどまります。統制の整備が能力の展開に追いついていない状況で、監査不能なアーキテクチャを選ぶ判断は取りにくいはずです。

6. それでも完全個別配備が残る領域

経済性と統制可能性が共有基盤を押す一方、逆向きの力も明確に存在します。

  • データ主権・機密性——防衛、政府、金融、医療。学習データを外に出せない
  • 学習データ自体が競争優位——製造ノウハウ、独自プロセス。共有基盤に還流させたくない
  • 物理制約——オフライン環境、レイテンシ要件

日本のソブリンAIの取り組みは、まさにこの層に位置します。デジタル庁のガバメントAI「源内」は2026年4月24日、Webインターフェース部分のソースコードと一部AIアプリの開発テンプレートを、商用利用可能なライセンス(ソフトウェアはMIT中心、ドキュメントはCC BY 4.0)でGitHubに公開しました。全府省庁の約18万人を対象とした大規模実証は2026年5月28日に開始されています。国産・海外を含む複数のLLMを切り替えて利用できる構成で、tsuzumi 2やPLaMo 2.0 Primeなどが採用されています。

江戸時代の発明家・平賀源内に由来する命名は象徴的で、この設計はベンダーロックインを構造から断つことを明確な目的としています。自治体が同じ基盤を再利用でき、重複開発を避けられる。国レベルで「個別配備しつつロックインは避ける」という解を志向していると読めます。

計算基盤側では、産総研のABCI 3.0が2025年1月に本格提供を開始しています。NVIDIA H200を6,128基(766ノード)搭載し、ピーク性能は半精度で6.2エクサフロップス。整備は日本ヒューレット・パッカードが348.7億円で落札しました。これは経済産業省による約1,566億円規模の計算基盤整備イニシアチブの一部です。

7. 6つの実装パターンと見立て

ここまでを踏まえ、想定される提供形態を6つに整理します。確率はいずれも筆者の推定であり、精密な予測ではありません。

パターン 技術的実現性 経済性 主戦場と見立て(推定)
(a) 完全個別配備
組織ごとに専用インスタンス
実現済み。蒸留した中小規模モデルなら単一GPU級でも運用可能 バッチング効率を放棄するため汎用用途では不利 政府・防衛で支配的(60〜70%)/規制産業で中(30〜40%)/消費者向けは10%未満
(b) 共有基盤+外部記憶のみ
RAG/メモリストア
実現済み・製品化済み 最も安価。削除権・監査要件との相性も最良 消費者向けで支配的(50〜60%)/一般企業SaaSでも同程度
(c) 共有基盤+軽量アダプタ+外部記憶 S-LoRA〜MinTで実証段階。1T級ベース上でも成立 共有ベースを崩さないため成立。ただし運用複雑度は上がる 中堅〜大企業で有力(40〜50%)。オープンウェイト側で拡大中
(d) 階層モデル
基盤+業界層+組織層+個人層
階層型アダプタの研究が進行中。統合設計は未成熟 共有度が高く効率的だが、層間の責任分界が難所 規制産業・業界コンソーシアムで中(30〜40%)
(e) ハイブリッド/フェデレーテッド 実現済み。オンプレ+クラウド併用が既に商用化 主権とスケール経済の折衷。運用コストは高め 規制産業・多国籍企業で有力(40%前後)
(f) 自律継続学習による「個体化」 研究段階。Nested LearningやOaKアーキテクチャが挑戦中 未知。成立すれば経済構造そのものが変わる 2030年代前半までの一般化は限定的(20%未満)

8. 時間軸で見た変化

短中期(今後2〜5年)

パターン(b)と(c)が主流を形成します。すでに製品化されている記憶機能、RAG、メモリレイヤーが積み上がり、RAGはGraphRAGやエージェンティックRAGへ進化して「知識ランタイム」化していきます。重み個別化は最大手APIから後退し、オープンウェイト+LoRAという別ルートに移動します。この局面での競争軸は、モデルの賢さより記憶の運用品質——鮮度、削除可能性、監査可能性——になるはずです。

長期(5〜15年以降)

継続学習が実用水準に達した場合、論点は「個体化」に移ります。同じベンダーの同じモデルでも、育て方によって組織間に能力差が出る。すると「引き継ぎ」「配置転換」「離職に相当する喪失」といった、人材マネジメントとほぼ同型の概念が発生します。AIが費用ではなく資産として扱われ、減価償却ではなく育成投資として語られるようになるでしょう。

SIerやシステムインテグレータのビジネスモデルへの影響も大きく、重心は「導入」から「育成・運用」へ移ります。ただしここは筆者の推論であり、現時点で確立した業界データがあるわけではありません。

9. 次の主戦場は「記憶のポータビリティ」

この構成が現実的だとすると、避けて通れない論点が浮上します。

基盤モデルは数か月で世代交代しますが、蓄積された組織記憶は資産です。モデルを乗り換えたとき、その記憶を持ち出せるのか。フォーマットは標準化されるのか。前述のMem0創業者の指摘——大手ラボに記憶を可搬にする動機はない——は、この問題の本質を突いています。

現状、MCP(Model Context Protocol)はツールアクセスを標準化しましたが、記憶の永続化と移転は明示的に扱っていません。Anthropicがプロジェクト単位の記憶ダウンロードと他サービスへの移行を実験的に提供しているのは、この空白に対する数少ない具体的な動きです。

調達の観点で言えば、記憶を重みに焼くアーキテクチャは「乗り換え不能な状態」を意味します。RFPで問うべきは「学習できるか」ではなく「学習させたものを取り出せるか、消せるか、説明できるか」でしょう。

まとめ

「AGIは個人や組織ごとに配備されるのか」という問いに対する現時点の答えは、用途によって異なり、当面は共有基盤+個別記憶が優勢です。

興味深いのは、その理由が技術的可能性ではないことです。PEFTの研究は「1%未満のアダプタで数百万の個人モデルを成立させる」という方向を示し、継続学習の研究も着実に前進しています。それでも産業実装が外部記憶に寄るのは、統制可能性という要件が技術的可能性より先に効くからです。消せること、説明できること、再現できること。これらは規制産業では機能要件そのものです。

ただしこの前提は、経験からの重み更新こそがAGIの本質であり外部記憶では代替不能だと判明すれば崩れます。Sutton氏のような有力な異論は現に存在します。その場合、私たちは組織ごとに「個体」を育てる世界に入り、AIの調達は採用に、運用は育成に、乗り換えは離職に似た問題になるでしょう。

どちらに転ぶかは未解決の実証問題です。当面の実務的な指針としては、記憶を取り出せる形で持っておくこと——これに尽きるように思います。