木曜日, 8月 20, 2026

Windows Server 2025のワークグループ運用 ― 変わらないライセンス制約と、静かに入れ替わる認証基盤

2020年8月に「Windows Server 2019のワークグループ環境でリモートデスクトップサーバを構築する」という記事を書きました。ドメインコントローラーのない環境でRDSを立てたら「リモートデスクトップライセンスに問題があるため、このセッションは60分後に切断されます」と怒られ、ローカルグループポリシーでライセンスモードを「接続デバイス数」に変えたら解決した、という内容です。記事の最後に追記として、接続デバイス数(Per Device)なら動くが接続ユーザー数(Per User)はダメで、その場合はADが必要と書きました。

あれから6年が経ち、Windows Serverは2022を経て2025になりました。当時の話はまだ通用するのか。ワークグループという「ADを使わない構成」そのものが、Microsoftの中でどう扱われているのか。小規模拠点やDMZ、閉域の検証環境など、ADを立てるほどでもない場所は今も現場に山ほどあります。改めて調べ直してみました。

結論を先に書きます。元記事の結論は2026年8月現在もそのまま有効です。ワークグループではPer Device CALのみ、Per UserはAD必須。これはMicrosoftの現行ドキュメントに今も明記されています。ただし「変わっていないのはそこだけ」でした。周辺の認証基盤は静かに、しかし決定的に作り替えられつつあります。ワークグループ運用の土台であるNTLMが非推奨になり、SMBは既定でハードニングされ、その代わりにワークグループでもKerberosが使える仕組みが準備されている。以下、順に見ていきます。

本記事には、Microsoftが公表しているロードマップ上の「予定」が含まれます。IAKerb/LocalKDCの一般提供時期、NTLMの既定無効化、NTLMv1関連レジストリキーの既定値変更などは、いずれも実施済みの事実ではなく発表された計画です。本文中でも「予定」と明示していますが、時期・内容とも変更されうる点にご留意ください。

1. まず答え合わせ:ライセンス制約は6年間まったく変わっていない

Microsoft LearnのRDS CAL解説ページには、Per DeviceとPer Userを比較する表があります。そこでPer Deviceには「Active Directoryのメンバーシップに関係なく追跡できる」、Per Userには「ワークグループ内では追跡できない」と書かれています。適用対象にはWindows Server 2025が筆頭で並んでいます。

なぜこうなるのか、理屈を押さえておくと納得しやすくなります。Per User CALは、発行したライセンス情報をADのユーザーオブジェクトの属性に書き込んで管理する仕組みです。書き込む先のADがないワークグループでは、そもそも発行・追跡の器が存在しません。一方Per Device CALは、接続してくるデバイス側にライセンスを紐づけるので、ADの有無と無関係に成立します。2020年に私が遭遇した60分切断は、この「器がない」状態でPer Userを要求していたことの現れだったわけです。

対処法も当時のままです。gpedit.msc で「コンピューターの構成 → 管理用テンプレート → Windowsコンポーネント → リモートデスクトップサービス → リモートデスクトップセッションホスト → ライセンス」を開き、「リモートデスクトップライセンスモードの設定」を有効にして「接続デバイス数」を選ぶ。ライセンスサーバーも同じ場所で明示指定します。1台のセッションホストが要求できるモードはPer DeviceかPer Userのどちらか一方だけ、という制約も変わっていません。

項目 2019(2020年当時) 2022 2025(2026年8月現在)
ワークグループでのPer Device CAL
ワークグループでのPer User CAL 不可(60分切断) 不可 不可(公式に非サポート)
グループポリシーでのライセンスモード手動設定 必要 必要 必要
RDS CALのバージョン互換 下位互換のみ 下位互換のみ 2025ホストには2025 CALが必須

最後の行は移行時に効いてくるので補足します。RDS CALは下位互換のみです。2025 CALを持っていれば2022や2019のセッションホストに使えますが、逆はできません。つまりセッションホストを2025に上げるなら、2025のRDS CALを新規に買う必要があります。OSのアップグレードだけ考えて予算を組むと、ここで足が出ます。

なお、ワークグループでもPer Userを設定すること自体は技術的には可能です。しかし追跡も強制も行われないため、「セッションは張れるがライセンス管理としては成立しておらず、Microsoftのサポート対象外」という状態になります。Microsoftの見解は一貫して「ワークグループではPer Deviceのみ」です。

2. 逆に「ワークグループでできること」は増えている

ワークグループは冷遇されている、という印象を持たれがちですが、実は正式サポートの範囲は広がっています。

代表がフェールオーバークラスタリングです。ワークグループクラスター(ADに参加しないノードでクラスターを組む構成)はWindows Server 2016で導入され、現行ドキュメントの適用対象にも2025・2022・2019・2016とAzure Localが並んでいます。ADは不要ですが、DNSは必要です。

そして2025での大きな前進が、ワークグループクラスターでのライブマイグレーション対応です。ワークグループクラスター自体は2016からありましたが、その上でHyper-Vのライブマイグレーションを行うことは長らくサポート外でした。Windows Server 2025で初めて正式にサポートされ、Microsoft Learnに手順が用意されています。

仕組みは、各ノードに同じユーザー名・同じパスワードのローカルアカウントを作り、クラスターが自己署名証明書によるPKU2U認証でノード間の信頼を確立するというものです。Kerberosを使わずにVMを移動させられる。ADを立てるほどの規模でない2ノード構成のエッジ・拠点サーバーには、現実的な選択肢が増えたことになります。

ファイル共有の面ではSMB over QUICが効きます。2022ではAzure Editionだけの機能でしたが、2025ではStandard/Datacenterを含む全エディションで使えるようになりました。TLS 1.3と証明書でSMBを丸ごと暗号化し、UDP 443で通すので、VPNなしで境界越しのファイルアクセスができます。ADに依存しない証明書ベースの認証という意味で、ワークグループとの相性は悪くありません。

Hyper-V Replicaも同様で、ワークグループや信頼関係のないドメイン間ではもともと証明書ベース認証(HTTPS)が必須です。この設計は2019から2025まで一貫しています。

3. その一方で、足元のNTLMが崩れ始めている

ここからが本題です。ワークグループ運用でいちばん注意すべきなのは、実はRDSライセンスではなく認証プロトコルの世代交代です。

前提として押さえておきたいのは、ワークグループは本質的にNTLMに依存しているという事実です。Kerberosは鍵配布センター(KDC)を持つドメインコントローラーがあってこそ機能します。DCのないワークグループでは、サーバー間のファイル共有もWinRMもRDPも、最終的にNTLMにフォールバックする。Microsoft自身も、ワークグループのメンバーやDC以外でのローカルログオン認証ではNTLMが今も使われている(使われざるを得ない)と認めています。

そのNTLMが、2024年6月に非推奨(deprecated)と宣言されました。Microsoft Learnの「Windowsクライアントの非推奨の機能」ページは、LANMAN・NTLMv1・NTLMv2を含むすべてのバージョンのNTLMがアクティブな機能開発の対象ではなくなった、と明記しています。NTLMv1はWindows 11 24H2およびWindows Server 2025ですでに削除済みです。NTLMv2は当面動きますが、将来の削除が予告されています。

廃止の道筋は3段階で示されています。

  • フェーズ1:監査 — どこでNTLMが使われているかを可視化する段階。Windows Server 2025では監査が既定で有効です。
  • フェーズ2:代替手段の提供 — IAKerbとLocalKDCでNTLMなしでも成り立つようにする。一般提供は2026年後半予定。
  • フェーズ3:既定で無効化 — 次期メジャーリリースでネットワークNTLMを既定オフにし、必要な場合はポリシーで明示的に再有効化させる(予定)。

直近の具体的な期日としては、BlockNTLMv1SSO レジストリキーの既定値が2026年10月に監査(0)から強制(1)へ自動的に変わる予定がアナウンスされています。手動でこのキーを配布していない環境は、放っておくと既定値が切り替わることになります。

4. Windows Server 2025のSMBハードニングが刺さるところ

NTLM廃止と並行して、SMBの既定値が大きく変わりました。ワークグループ運用に直撃する順に並べます。

SMB署名の既定要求。従来、SMB署名が既定で必須だったのはSYSVOL/NETLOGON共有とドメインコントローラーへの接続だけでした。Windows 11 24H2とWindows Server 2025からは、これがすべての接続に広がります。厳密にはWindows Server 2025は送信(アウトバウンド)接続で既定要求、Windows 11 24H2は送受信の両方です。署名を要求するとゲストアクセスも同時に無効化されるので、署名非対応の古いNASや一部のサードパーティSMBサーバーに繋がらなくなる可能性があります。ワークグループのファイルサーバー環境では真っ先に踏むポイントです。

SMB NTLMブロック。SMBクライアントが送信接続でNTLMを使うこと自体をブロックできるようになりました。グループポリシー(Lanman Workstation配下)または net use /blockntlm で制御します。これはクライアント側の機能だけで、サーバー側にはありません。注意点として、ワークグループ環境やIPアドレス直指定の接続はまさにNTLMにフォールバックする典型例なので、これを有効にすると既存の運用が止まります。例外リストが用意されているので、いきなり全面適用しないことです。

SMB認証レート制限。Windows Server 2025で既定有効です。NTLMまたはLocalKDC Kerberosの認証が失敗すると2秒の遅延を挟みます。Microsoftの試算では、毎秒300回×5分で90,000回試せていた総当たりが、同じ回数に50時間かかるようになります。SMBを外に出さざるを得ない構成では、地味ですが効果の大きい変更です。

5. 救世主候補:IAKerbとLocalKDC

「NTLMを廃止したらワークグループはどうなるのか」という当然の疑問に対するMicrosoftの答えが、この2つです。ワークグループ運用者にとっては本記事でいちばん重要な話かもしれません。

LocalKDCは、各マシンのLSAの中にKerberosのKDCを内蔵してしまう仕組みです。ローカルアカウント(SAM)に対してKerberosチケットを発行できるようにする。つまりドメインコントローラーがなくてもKerberosが使えるようになります。ワークグループがNTLMに縛られていた根本原因が解消されるわけです。

IAKerb(Initial and Pass-Through Authentication using Kerberos)は、クライアントがKDCに直接到達できない場合に、接続先サーバーをプロキシとしてKerberos認証を通す仕組みです。ネットワーク的な到達性の問題でNTLMに落ちていたケースを救います。

現状(2026年8月時点)は、2026年6月にWindows Insiderのパブリックプレビューが始まった段階です。プレビューではIAKerbが既定で有効、LocalKDCは既定で無効という構成になっています。一般提供はWindows 11 24H2およびWindows Server 2025向けに2026年後半を予定とされています。あくまで予定であり、本番環境で当てにする段階ではありません。

とはいえ、これがGAすればワークグループの設計思想は一段変わります。「ADがないからNTLMしかない」という前提が消え、NTLM既定無効化フェーズが来ても慌てずに済む。現時点でやるべきは、プレビューへの飛びつきではなく自分の環境のどこがNTLMに依存しているかの棚卸しです。Windows Server 2025なら、イベントビューアの「アプリケーションとサービス ログ → Microsoft → Windows → NTLM → Operational」で監査ログが取れます。

6. ワークグループ最大の弱点は、実はパスワード管理

技術的な話から少し離れますが、運用上いちばん怖いのはここです。

ワークグループの各サーバーは、それぞれ独立したローカルSAMだけで認証します。集中管理がないので、実務では「全台で同じローカルAdministratorパスワード」になりがちです。これはPass-the-Hashによる横展開の理想的な条件で、1台落ちれば全台落ちる構図になります。

これを解決するのが本来Windows LAPS(ローカル管理者パスワードの自動ローテーション)です。Windows LAPS自体はWindows Server 2019(2023年4月以降の更新)・2022・2025にOS標準で組み込まれています。ところが致命的な制約があります。パスワードの保存先としてActive DirectoryかMicrosoft Entra IDが必須なのです。ADもEntraもない純粋なワークグループでは、LAPSは使えません。

つまりワークグループでは、ローカル管理者パスワードのユニーク化と定期ローテーションを手作業か自前の仕組みでやるしかない。これは構造的な弱点であり、「ワークグループでいくか、ADを立てるか」を判断するとき、ライセンスや構築の手間より先に検討すべき論点だと思います。ゼロトラストの文脈でも、集中IDと条件付きアクセスが効かない構成は明確に不利です。

逆に言えば、DMZ・エッジ・閉域の検証環境など「あえてADの信頼境界から切り離したい」明確な理由があるときにワークグループを選ぶ、という整理になります。「ADを立てるのが面倒だから」で選ぶと、後でパスワード管理に苦しみます。

7. サポート期限:2019はいつまで使えるのか

元記事を読んで2019を構築した方も多いと思うので、期限を整理しておきます。日付はMicrosoft公式ライフサイクルページの値です。

バージョン メインストリーム終了 延長サポート終了 Microsoft 365 Apps
Windows Server 2019 2024年1月9日 2029年1月9日 2025年10月14日にサポート終了済み(セキュリティ更新は2028年10月10日まで)
Windows Server 2022 2026年10月13日 2031年10月14日 メインストリーム終了まで(セキュリティ更新は2028年10月10日まで)
Windows Server 2025 2029年11月13日 2034年11月14日 サポート対象

日付について一点補足します。Microsoftのライフサイクルページの表示は「翌日 6:59:59 AM(太平洋時間)」というタイムスタンプで持っているため、印字値が実効終了日の+1日になっていることがあります。ネット上で2025の期限を「11月14日/11月15日」と書いているものと「11月13日/11月14日」と書いているものが混在するのはこのためです。上表は実効日で統一しています。

実務的な判断としては、RDS用途で2019を使い続ける理由はもう薄いと考えます。延長サポートは2029年1月まで残っていますが、メインストリームはすでに終了しており新機能は入りません。加えて2019上のMicrosoft 365 Appsのサポートが2025年10月に切れているので、RDSでOfficeを使う典型的な構成はすでに賞味期限を過ぎています。2022もメインストリーム終了が2026年10月13日と目前です。新規構築・更改なら、2019も2022も飛ばして2025へ直行するのが素直でしょう。2034年11月まで持ちます。

8. 周辺で消えていくもの

元記事の手法や、その周辺の運用に影響しうる廃止・非推奨をまとめます。

機能 状態 ワークグループ運用への影響
NTLMv1 削除済み(2025/24H2) v1しか話せない古いNASや装置に接続できなくなる
NTLM全般 非推奨(当面は動作) RDS・ファイル共有・WinRMが依存。将来の既定無効化に要注意
WINS 非推奨。2025より後のリリースから削除予定 2025では2034年11月まで標準サポート下で利用可。名前解決はDNSへ移行を
TLS 1.0/1.1 既定で無効 古いクライアントや業務アプリが接続不能になる場合あり
ネットワーク負荷分散(NLB) 非推奨 RDS本体には直接影響しないが冗長化設計の見直し材料

紛らわしいので分けて書いておきたいのがクライアント側アプリの廃止です。Microsoft Store版の「リモート デスクトップ」アプリは2025年5月27日にサポート終了し、「Windows App」へ統合されました。旧アプリからWindows 365やAzure Virtual Desktopといったクラウド側への接続は、2025年9月30日以降ブロックが始まっています。MSI版のリモートデスクトップクライアントも、商用クラウド向けサポートが2026年3月27日に終了しました(Azure Government/21Vianetは2026年9月28日まで)。

ただし、これらはクライアントアプリの話であって、サーバー側のRDSや標準の mstsc.exe(リモートデスクトップ接続)は影響を受けません。「リモートデスクトップが終わる」という見出しを見て慌てる必要はありません。オンプレのRDSサーバーにmstscで繋ぐ、という元記事そのままの構成は現役です。

もう一つ、ライセンス面で影響が大きいのがSPLAの変更です。2025年10月1日以降、SPLAではListed Provider(AWS・Azure・Google Cloud・Alibaba)上でRDSを提供できなくなりました。オンプレミスや非Listedのホスティング事業者は対象外です。

9. まとめ:2026年にワークグループとどう付き合うか

6年前の記事の答え合わせとしては、結論は当たっていたと言えます。ワークグループRDSはPer Device CALのみ、Per UserはAD必須。この一点は2019・2022・2025を通じて微動だにしていません。グループポリシーでライセンスモードを明示する回避策も、そのまま使えます。

一方で、当時は意識していなかった論点が浮かび上がりました。ワークグループという構成はNTLMという退場が決まったプロトコルの上に乗っている、ということです。今すぐ壊れるわけではありませんが、監査フェーズはすでに始まり、SMBの既定値は締め上げられ、2026年10月にはNTLMv1関連の既定値変更が予定されています。そして代替となるLocalKDC/IAKerbは、まだプレビューです。この「移行期の谷間」に今いる、という認識を持っておくことに意味があります。

実務的な優先順位としては、こう考えています。

  • すぐやる:ローカル管理者パスワードのユニーク化と手動ローテーションの仕組み作り。LAPSが使えない以上、ここが最大の穴。あわせて署名非対応のNAS・機器の洗い出しと、正引き・逆引きDNSの整備(IP直指定はNTLMフォールバックを招きます)。
  • 2025なら追加で:NTLM監査ログを有効にして依存箇所を可視化しておく。SMB NTLMブロックは例外リストを併用して段階導入。
  • 更改のとき:2019・2022を飛ばして2025へ。RDS CALは2025版を別途手当て。2ノードのHA要件があるならワークグループHyper-Vクラスター+ライブマイグレーションが選択肢に入る。
  • 方針転換の判断ライン:Per Userが必要になった/RD Web Accessを使いたい/集中ID管理が要件化した/パスワード管理が回らなくなった。このいずれかに触れたら、ADドメイン化またはEntra参加へ舵を切るタイミングです。

RD Web Accessについて一点だけ補足しておくと、Per Deviceを選んだ環境でRD Web Accessを使うと、ポータルにアクセスしただけのデバイスにCALが消費されてしまいます。ワークグループ=Per Device固定である以上、RD Web Accessを使いたい時点でADが実質必須になる、という連鎖になります。設計初期に確認しておきたいポイントです。

6年前は「60分で切断される」という目の前のエラーをどう消すか、という記事でした。今回調べ直してみて、同じ構成が今も動くという安心と、その足元が静かに入れ替わりつつあるという緊張の両方を感じました。次にこのテーマを書くとしたら、LocalKDCがGAして「ワークグループでもKerberosが当たり前」になった後になるのかもしれません。

2026年の残り4ヶ月半、AIに何が起こるか — 20項目を確率つきで予想する

2026年も残り4ヶ月半になりました。今年前半のAI業界は、モデルの性能競争そのものよりも「誰がリリースの可否を決めるのか」が動いた年でした。6月にはAnthropicのClaude Fable 5とMythos 5が米商務省の輸出規制指令で全世界から停止され、OpenAIのGPT-5.6も政府要請で段階提供という形を取りました。フロンティアモデルの公開は、いつの間にか製品発表ではなく交渉事になっています。

残り4ヶ月半で何が起こるのか。「たぶん〇〇が来るでしょう」という書き方は、後から読み返しても当たったのか外れたのかわかりません。そこで本記事では、年内に決着がつく事柄を20項目に絞り、それぞれに予想確率判定条件を付けた形で提示します。年明けに機械的に答え合わせできる形にしてあります。

先に結論を述べておくと、年内の最大の焦点は3つです。第一にAnthropicの上場(10月目標、投資家は2兆ドル超を期待)が、AIバリュエーションに対する初めての公開市場のジャッジになること。第二にサイバー能力特化モデルの「限定提供」が定型化し、モデルの性能ではなく提供条件が競争軸になること。第三に、GoogleのGemini 3.5 Proが4度スリップしたまま年を越すかどうか——ここは、フロンティアラボの開発ペースが本当に落ちているのかを測る指標になります。

本記事の性格について
本記事の後半は未来予測を含みます。付記した確率は筆者の主観的な推定であり、統計モデルや予測市場の値をそのまま転記したものではありません。精密な予測ではなく、「どの程度自信があるか」を後から検証可能な形で表明したものとお読みください。前半の「起きたこと」は公開情報に基づく事実ですが、後半の確率は外れる前提のものです。
また、本記事は特定の企業や金融商品の売買を推奨するものではありません。

1. 前提:2026年前半に何が起きたか

予想の前提として、今年ここまでの主要な出来事を整理しておきます。予想の妥当性を判断する材料としてご覧ください。

フロンティアモデルと政府介入

  • OpenAIはGPT-5.4(3月5日)、GPT-5.5(4月23日)を経て、6月26日にGPT-5.6(Sol / Terra / Luna)を発表。ただし米政府の要請により当初は限定プレビューにとどまり、全面提供は7月9日。実質的に13日間の事前審査を経ています。
  • Anthropicは4月にProject Glasswingを立ち上げ、サイバー能力の高い「Mythos」級モデルを一般提供せず限定パートナーに供給する方針を取りました。6月9日にFable 5(高リスク領域を下位モデルに迂回させる安全策つき)とMythos 5を公開しましたが、6月12日に米商務省の輸出規制指令を受けて全世界でアクセスを停止。6月30日に規制が解除され、7月1日に再開しています。
  • Google DeepMindは5月19日のI/OでGemini 3.5ファミリーを発表し、3.5 Proを「翌月」提供と表明しましたが、これが未達。7月21日には3.6 Flash・3.5 Flash-Lite・3.5 Flash Cyberを出しつつ3.5 Proは「パートナーとテスト中」とし、同時にGemini 4のプリトレーニング開始を明かしました。8月中旬には3.7 Flashも登場しており、Flash系だけが先行する状態が続いています。8月12日にKoray KavukcuogluがDeepMind責任者に就任しました。
  • xAI(2026年2月にSpaceXが買収し、SpaceXAIへブランド変更)は7月8日にGrok 4.5を、8月にGrok 4.6を出荷。一方でGrok 5は当初のQ1目標、続くQ2目標をいずれも逃し、8月時点でも訓練中です。

「サイバー特化モデルは売るが、一般には出さない」という型

今年前半で最も見落とされやすい構造変化がこれです。3社が別々に、同じ形の答えに辿り着きました。AnthropicのMythos Preview(Glasswing限定)、GoogleのGemini 3.5 Flash Cyber(7月21日、政府と信頼できるパートナー向けの限定パイロット)、そしてOpenAIのGPT-5.6-Cyber(8月10日、Daybreakプログラムを防御作業向けのBlueと高度検証向けのRedに再編し、Red層の承認済み利用者のみに提供)です。

GPT-5.6-Cyberについては、OpenAIの社内指標「Advanced Cybersecurity Completion Rate」で高度なセキュリティ依頼の95.0%を完遂したと発表されています(通常のGPT-5.6 Solは1.5%)。ただしこれは依頼への応答率を測る自社評価であり、回答の正確性やモデル全体の安全性を評価したものではないとOpenAI自身が注記しています。独立検証が可能な成果としては、ChromeのJavaScriptエンジンV8で発見された脆弱性にCVE-2026-15903が割り当てられ、Googleが修正した件が挙げられます。同社は2026年9月1日から個人向けDaybreakアカウントにハードウェアセキュリティキーを義務付けます。

さらに8月7日、OpenAIは次期フラッグシップAstraについて、暫定評価でサイバー能力が自社Preparedness Frameworkの「Critical」に達している可能性を否定できないと発表しました。GPT-5.6-Cyberは「High」評価です。つまりCriticalは隔離、Highは審査つきで販売という線引きが、事実上できあがりつつあります。

資本市場

  • Anthropicは5月28日にSeries H-1で650億ドルを調達し、ポストマネー評価9,650億ドル。5月時点の年換算収益は470億ドルと公表しています。5月31日にSEC への秘密裏S-1提出を公表し(報道は6月1日付が中心)、10月のNasdaq上場を目標としています。主幹事はGoldman Sachs、JPMorgan、Morgan Stanley。
  • 8月13日、Financial Timesが「投資家は2兆ドル以上での上場を期待している」と報道しました。ただし同報道は、この数字は投資家側の見立てであり、Anthropic経営陣は社内でも評価目標を設定していないと明記しています。投資家は年末時点の年換算収益を1,000億〜1,200億ドルと見込んでいるとされます。
  • OpenAIは6月8日にS-1を提出(評価8,520億ドル)しましたが、CFOのSarah Friar氏が2027年上場を目標としていると報じられ、Altman CEOは1兆ドルの評価額を下げることは論外だとしています。
  • SpaceXは6月11日に1株135ドル、評価1.77兆ドルで上場。その後は大きく変動し、一時IPO価格を下回りました。
  • エンタープライズ市場では、Menlo Venturesの調査(2025年12月公表)でAnthropic 40%、OpenAI 27%、Google 21%という支出シェアが示されています。ただしこれは2025年の調査であり、2026年に入ってからのシェア変動は同一基準では追えていません。

設備投資とバブル論

BISは6月28日の年次経済報告で、5大ハイパースケーラーの2025〜2026年のAI関連設備投資が1兆ドルを超え、これが利益とフリーキャッシュフローを上回っていると指摘しました。同報告は「循環取引」——チップメーカーやハイパースケーラーがAIラボやネオクラウドに出資し、その資金で自社製品を購入させる構造——について、取引条件がほとんど開示されず、同一資産が複数回担保に入る可能性があると警告しています。GPU等の法定減価償却期間が5〜7年である一方、実際の陳腐化は2年程度とされる点も、資産の過大評価リスクとして挙げられました。

この警戒は既に市場に表れています。6月下旬以降、AI・半導体関連株は調整色を強め、7月23日にはAlphabet株が約7%下落しました。8月16日にはNVIDIAが、OpenAIのデータセンター計画に対する2,500億ドル規模の融資保証を、1,200億ドル未満かつ第1期のみへと組み替えたと報じられています。ベンダー・ファイナンスへの露出を明示的に絞る動きです。

日本

  • AI推進法(令和7年法律第53号)は2025年9月1日に全面施行済み。第2期AI基本計画「日本AX、より強く、より豊かに」が7月14日に閣議決定されました。
  • デジタル庁の政府AI基盤「源内」は3月6日に7モデルを選定(tsuzumi 2、Llama-3.1-ELYZA-JP-70B、Sarashina2 mini、cotomi v3、Takane 32B、PLaMo 2.0 Prime、CC Gov-LLM)。5月から39機関・約18万人規模の実証に入り、評価結果の一部公表は2027年1月、有償調達開始は2027年4月の予定です。
  • 経済産業省はNEDO公募でNoetra(ソフトバンク中核のJV)等を採択。FY2026予算は約3,873億円、5年で最大約1兆円のステージゲート方式です。Microsoftは4月に日本へ100億ドル(約1.6兆円、2026〜2029年)の投資を発表しました。

2. 年内の予想一覧(確率つき)

以下、20項目です。判定期限はすべて2026年12月31日 23:59(日本時間)、判定材料は同時点で公開されている情報とします。曖昧さを減らすため、各項目に「何をもって成立とみなすか」を書き添えました。

2-1. フロンティアモデル

No. 予想と判定条件 確率 主な根拠
1 Gemini 3.5 Proが一般提供される。
判定:Geminiアプリまたは公開APIで、限定プレビューではなく通常利用可能になること
55% 6月・7月・7月17日と3度以上スリップ。8月時点でも公開APIに該当モデルIDなし。一方でGoogleは公式に「パートナーとテスト中」と継続表明
2 Gemini 4系のモデルが一般提供される。
判定:Flash / Proを問わず「Gemini 4」を冠するモデルが公開APIまたはGeminiアプリで利用可能になること
20% 7月21日にプリトレーニング開始が公表された段階。通常のリードタイムでは年内GAは短い。ただし3.5 Proを飛ばす可能性は残る
3 Grok 5が公開される。
判定:ベータ・限定公開を含め、xAI(SpaceXAI)外部の利用者が「Grok 5」の名称のモデルを利用できる状態になること
30% Q1・Q2の目標をいずれも逃し、8月時点で訓練中。ただし4.5→4.6の出荷ペースは速く、Colossus 2の計算資源は確保済み
4 OpenAIの次期フラッグシップ「Astra」が外部提供を開始する。
判定:一般提供でなくとも、承認パートナー等の外部利用者が使える状態になったとOpenAIが公式に発表すること
45% 8月7日にCriticalの可能性を否定できないと公表し社内作業を一時停止。GPT-5.6では13日の政府審査で解決した前例があるが、Criticalは「隔離」側の線引き
5 AnthropicがOpus 5を超える新しいフラッグシップ世代を発表する。
判定:Opus 5より上位と同社が位置づける新モデルの発表。限定提供でも可
65% 4.8(5/28)→Fable 5(6/9)→Opus 5(7/24)と極めて高頻度。ただし上場審査期間中は開示上の制約から静かになる可能性
6 サイバー能力を理由に一般提供を制限した新モデルが、主要ラボから追加でリリースされる。
判定:OpenAI / Anthropic / Google / xAI / Metaのいずれかによる新規1件以上
80% 既にMythos Preview(4月)、Gemini 3.5 Flash Cyber(7月)、GPT-5.6-Cyber(8月)と3社で型が確立。防御側需要と規制圧力の双方が追い風
7 米政府がフロンティアモデルのリリースに新たに介入する。
判定:事前審査・段階提供要請・輸出規制のいずれかについて、8月20日以降の新規事案が公式発表または主要報道で確認できること
75% 6月2日の大統領令で30日事前レビュー枠組みが整備済み。Astraをはじめ審査対象になり得るモデルが控えている
8 中国勢がメジャー番号を更新したフラッグシップを公開する。
判定:DeepSeek V5 / Moonshot K4 / Alibaba Qwen4 など、メジャーバージョンを繰り上げたモデルが1件以上公開されること
55% 7月にKimi K3、DeepSeek V4-Flash、Qwen 3.8系が集中。ただしメジャー番号更新となると間隔が空く傾向
9 日本の国産LLMで、新たなフルスクラッチ系フラッグシップが公開される。
判定:国内企業・研究機関による、蒸留やファインチューニングでない自社事前学習モデルの新規公開が1件以上
60% GENIAC採択各社の開発サイクルが年度後半に集中する傾向。ただしベースモデル由来の派生は多く、判定には開示内容の確認が必要

2-2. 資本市場・IPO

No. 予想と判定条件 確率 主な根拠
10 Anthropicが年内に上場する。
判定:12月31日までに初値がつくこと。取引所はNasdaq / NYSEいずれでも可
60% 10月目標で主幹事3社が確定、7月から投資家説明を開始。一方、秘密裏提出から公開S-1・ロードショーまでの標準的な所要期間と、国防総省との係争に関する開示が摩擦要因
11 上記10が成立し、かつ初値時価総額が1兆ドル以上となる。
判定:上場初日の終値ベースの時価総額
45% 直前ラウンドが9,650億ドルで、セカンダリーはそれを上回る水準。上場すれば1兆ドル超は自然だが、市況次第
12 上記10が成立し、かつ初値時価総額が2兆ドル以上となる。
判定:同上
15% 投資家の期待値であって会社の目標ではないとFTが明記。中国オープンウェイトとの価格競争、6月の輸出規制による収益成長鈍化が下押し要因
13 OpenAIが年内に上場する。
判定:12月31日までに初値がつくこと
8% CFOが2027年目標と社内表明、CEOは評価額引き下げを拒否。方針転換がなければ年内は困難
14 AI関連で50億ドル超のM&Aが1件以上成立発表される。
判定:買収額が公表または主要報道で50億ドル超とされる案件の正式発表
65% AnthropicによるDecart買収交渉(約60億ドル)が報道済み。大型再編の圧力は継続
15 国際機関・当局がAI投資に関する新たな警告を発する。
判定:BIS / IMF / FSB / FRB / 格付機関のいずれかが、8月20日以降にAI関連投資・債務のリスクを主題とする公式文書を公表すること
85% BIS年次報告に加え、IMFの金融安定報告等が定期刊行される。循環取引・簿外債務は既に主要論点
16 ハイパースケーラー大手が設備投資計画を下方修正する。
判定:Alphabet / Amazon / Microsoft / Metaのいずれかが、Q3決算等で2027年capexの減額または明確な伸び鈍化を示すこと
25% これまで各社は一貫して上方修正を続けてきた。フリーキャッシュフローの悪化は進むが、競争上、先に減速を宣言しにくい構造

2-3. 規制・政策と日本市場

No. 予想と判定条件 確率 主な根拠
17 EUのGPAI義務を理由に、主要ラボがEUでのモデル提供を制限・遅延する。
判定:EU域内での提供見送り・機能制限・提供遅延を、いずれかのラボが公式に表明すること
30% GPAI義務は2026年8月2日から適用済み。高リスク義務は2027年12月へ延期されたため、当面の圧力は限定的
18 米中間選挙後、年内に新たな連邦レベルのAI関連大統領令が署名される。
判定:11月4日以降12月31日までの署名。既存令の軽微な修正は除く
45% 現政権は大統領令を多用しており、選挙後の政策仕切り直しの局面。ただし議会構成の変化次第で優先度が下がる可能性
19 デジタル庁が「源内」について年内に新たな公式発表を行う。
判定:対象機関の拡大、モデルの追加・入替、評価の中間報告のいずれかに関する公式発表
60% 実証は2027年3月まで継続中で、評価公表は2027年1月予定。年内の中間的な発信はあり得るが、公式には次の節目まで沈黙する可能性も
20 日本国内で1,000億円超のAI/データセンター投資が新たに発表される。
判定:8月20日以降の新規発表。既発表案件の再掲・積み上げ集計は除く
75% Microsoftの100億ドル投資に続く動きが継続中。ただし電力系統の制約が案件化の律速になりつつある

3. なぜその確率にしたか(主要3項目)

Gemini 3.5 Pro(No.1、55%)

この項目を50%付近に置いたのは、「遅れているから出る」と「遅れているから出ない」のどちらの読みも成り立つからです。強気側の材料は、Googleが一貫して「もうすぐ」と公式に言い続けており、パートナーテストまでは到達している点。弱気側の材料は、遅延の理由が調整不足ではなくベースモデルの作り直しだと報じられている点、そしてその間にFlash系を3.6→3.7と2世代進め、さらにGemini 4のプリトレーニングまで始めてしまった点です。3.5 Proを出す実利が、時間が経つほど薄れていく構造になっています。予測市場が6月・7月末・8月上旬と繰り返し高い確率を付けては外している経緯もあり、直近の市場価格をそのまま採用するのは避けました。

Anthropicの上場(No.10、60%)

10月という報道上の目標をそのまま信じれば80%以上になりますが、手続き面を踏むと下がります。この規模の企業のSEC秘密審査は3〜6ヶ月が一般的で、6月1日起点だと9月〜11月に公開S-1、そこから15日間のクーリング期間とロードショーで、実際の値付けは10月下旬から12月に寄りやすい。加えて、国防総省との係争がリスクファクターとして重要な開示事項になること、収益をグロス計上するかネット計上するかの会計論点が審査で時間を食いやすいことが、年またぎ方向への圧力になります。逆に言えば、これらが片付けば10月〜11月の可能性は十分あります。1〜2ヶ月のずれで「年内か年明けか」が決まる、判定としては際どい項目です。

サイバー特化モデルの追加リリース(No.6、80%)

確率を高く置いたのは、これが単発の判断ではなく3社が独立に同じ構造へ収束した結果だからです。ゼロデイ探索能力を持つモデルは、公開すれば攻撃側に渡り、封印すれば防御側も使えない。この板挟みに対して、Anthropic・Google・OpenAIはいずれも「審査つきの限定提供」という同じ答えを出しました。しかも、その枠組み自体が製品として値付けされ、パートナー企業のエコシステムまで組成されています。一度できた型は再利用されるので、年内にもう1件出る確率は高いと判断しました。むしろ注視すべきは件数ではなく、AstraのようにCritical判定を受けたモデルが出せなくなるケースが出るかどうかです。

4. 答え合わせの方法

年明けに検証するための手順を決めておきます。予想は「当てる」ことより「どれくらいの自信を持つべきだったか」を測ることに意味があるので、○×の数え上げではなくスコアで評価します。

  • 判定日:2026年12月31日 23:59(日本時間)時点の公開情報で判定する。年明けに事後的に判明した事実も、事象自体が期限内に起きていれば成立とみなす。
  • 判定値:起きた=1、起きなかった=0の二値。判定条件の解釈が割れる場合は「起きなかった」側に倒す(予想者に厳しい方に倒す)。
  • スコア:各項目について(予想確率 − 実績)2 を計算し、20項目の平均を取る(Brierスコア)。

たとえばNo.1(55%)が実際に起きた場合の寄与は (0.55 − 1)2 = 0.2025、起きなかった場合は (0.55 − 0)2 = 0.3025 です。No.13(8%)が起きなければ 0.0064 と、ほとんど減点されません。低い確率を付けた項目が外れたときに損をしない一方、高い確率を付けて外すと大きく減点される——これが「自信の表明」を評価する仕組みです。

目安として、全項目に一律50%と答えた場合のBrierスコアは0.25になります。これを下回れなければ、予想に情報価値はなかったことになります。0.15を切れば実用的、0.10を切れば良好、というのが一般的な感覚です。

もうひとつ、キャリブレーション(確率の目盛りが合っているか)も見ます。今回の20項目の確率を合計すると約10.3なので、おおむね10項目前後が的中するのが「目盛りが合っている」状態です。15項目当たったなら確率を低く見積もりすぎ、5項目しか当たらなかったなら高く見積もりすぎ、ということになります。当たった数が多ければ良いわけではない、というのがこの手法のポイントです。

5. まとめ

残り4ヶ月半で決着がつく論点を並べてみると、今年後半のAI業界は「性能が伸びるか」ではなく「出せるか、値がつくか、電気が届くか」を問われる局面に入ったことがわかります。

出せるか、というのは政府審査の話です。GPT-5.6の13日間、Fable 5の19日間の停止は、いずれも一過性の事故ではなく、6月2日の大統領令で制度化された枠組みの最初の適用例でした。AstraがCritical判定を受ければ、次は「一時停止」ではなく「そもそも出ない」が起こり得ます。モデルを業務システムに深く組み込む側としては、特定ベンダーの単一モデルに依存した設計が、技術的リスクではなく地政学的リスクを抱える構造になったことを織り込む必要があります。

値がつくか、というのはAnthropicの上場です。9,650億ドルという私募市場の評価に対して、公開市場が初めて値を付ける。ここで大きく上振れれば私募市場のバリュエーションが一段と正当化され、下振れれば連鎖的な再評価が始まります。SpaceXが上場後に大きく変動した直近の記憶があるだけに、初日ではなく90日後の水準のほうが実態を示すでしょう。

電気が届くか、というのは日本にとって最も具体的な話です。AI投資の実行可能性を測る単位は、確保したGPUの枚数から、系統に接続できたメガワット数へ移りました。国内で1,000億円級の投資発表が続くかどうか(No.20)は、資金の問題というより電力と土地の問題です。ここは年内に見えてくると思います。

年明けに、この20項目を上から順に○×で埋めていきます。半分ほど外れているはずですが、どの方向に外れたかがわかれば、それが翌年の読みの精度になります。

水曜日, 8月 19, 2026

AnthropicとOpenAIの両取り──AWSが選んだ中立プラットフォーマーの道

2024年から2025年にかけて、AWSには「AIで出遅れた」という評価がついて回っていました。自社にフロンティアモデルがなく、Amazon Novaの存在感は薄く、成長率ではMicrosoft AzureとGoogle Cloudに見劣りする。生成AIの主戦場はクラウド1位の座を守ってきたAWSの外側で動いている——そういう見方です。

ところが2026年に入って、この構図は数字の上で大きく崩れました。AWSの四半期成長率は5四半期連続で加速し、直近では前年同期比36.7%に達しています。同時にAWSは、出資先であるAnthropicと、競合Microsoftの牙城だったOpenAIの両方を抱え込むという、他社にはないポジションを手に入れました。

本記事の結論を先に述べます。AWSの強みは「自社でモデルを作れること」ではなく、「誰のモデルでも動かせるインフラと調達力を持つこと」に移りました。逆に弱点も明確で、最大の資産であるAnthropicが意図的にマルチクラウド化を進めており、AWSはもはや「Anthropicの独占的パートナー」ではありません。以下、財務・シリコン・モデル・エージェント・日本市場の順に、一次情報を軸に整理していきます。

本記事には2026年から2028年にかけての見通しに関する記述が含まれます。将来予測の部分は筆者の推定であり、精密な予測ではありません。事実として確認できた事項と、推定・見通しは文中で区別して記載しています。また、性能値や価格性能比のうちベンダー自身の発表に基づくものは、その旨を明記しています。数値はいずれも2026年8月時点で確認できたものです。

1. 数字で見る現在地——「AIで出遅れた」論の検証

まず財務から見ていきます。Amazonの2026年度第2四半期(4〜6月)決算で、AWSセグメントの売上は422億ドル、前年同期比36.7%増でした。営業利益は166億ドル、営業利益率は39.4%で、前年同期の32.9%から650ベーシスポイント改善しています。Andy Jassy CEOはこれを「18四半期ぶりの最速成長」と表現しました。

四半期 AWS売上 前年同期比 補足
2025年 第3四半期 20% 加速の起点
2025年 第4四半期 356億ドル 24% 営業利益125億ドル。年換算ランレート1,420億ドル
2026年 第1四半期 376億ドル 28% バックログ3,640億ドル
2026年 第2四半期 422億ドル 36.7% 営業利益166億ドル・利益率39.4%。バックログ4,960億ドル、年換算ランレート1,690億ドル

注目すべきは契約残高(バックログ)です。第1四半期の3,640億ドルから第2四半期の4,960億ドルへ、1四半期で1,320億ドル積み増しました。AI事業と自社チップ事業は、それぞれ年換算250億ドル超のランレートに到達しています。

一方で、弱気材料も同じ決算に含まれています。Amazon全体の設備投資は2026年当初ガイダンスの約2,000億ドルから、7月30日の決算発表時に約2,200億ドルへ上方修正されました。理由としてメモリなど部材コストの上昇とAI需要が挙げられています。この重い投資の結果、トレーリング12か月のフリーキャッシュフローは約76億ドルのマイナスに転落しました。前年は182億ドルのプラスでしたから、反転の幅は小さくありません。

もうひとつ、決算を読むうえで注意すべき点があります。第2四半期の純利益には、非営業・税引前で534億ドルという巨額の「その他収益」が計上されており、その大半はAnthropicへの投資に対する時価評価益です。つまりAmazonの純利益はAnthropicの企業価値上昇によって大きく膨らんでおり、本業の収益力とは切り分けて評価する必要があります。この評価益は会計上の未実現利益であり、Anthropicの評価額が下がれば逆方向に振れます。

Jassyは2025年の株主書簡で「AIはバブルか、マージンとROICは魅力的か」という問いに対し「バブルではない、魅力的だ」という趣旨の回答を示しています。2025年に3.9GWのデータセンター容量を追加し、2027年末までに総電力容量を倍増させる計画も明言しました。ただし「2026年も2027年も、全需要を満たす容量には届かない」とも述べており、需要超過が続いている状況を強調しています。

2. 独自シリコン——Trainium3とProject Rainier

AWSのAI戦略で最も差別化が効いているのはシリコンです。re:Invent 2025で発表・一般提供が開始されたTrainium3は、AWSにとって初の3nmプロセスAIチップになります。Trn3 UltraServerは最大144チップを搭載し、AWSの公表値ではTrainium2 UltraServer比で演算性能最大4.4倍、メモリ帯域3.9倍、電力効率約40%改善とされています。なお、この性能値はいずれもAWS自身の発表に基づくもので、独立した第三者によるベンチマーク検証は本稿執筆時点では確認できていません。

Trainium2の事業規模は、2025年第4四半期時点でTrainiumとGravitonを合わせた年換算ランレートが100億ドル超、前年比で三桁成長という水準でした。2026年第2四半期には自社チップ事業単独で250億ドル超のランレートに達しています。AWSは対競合GPU比で30〜40%の価格性能優位を主張していますが、これも自社評価であり、比較条件の詳細は公開されていません。

大規模実証の場となったのがProject Rainierです。2025年10月29日にフル稼働し、米国内の複数データセンターに約50万基のTrainium2を展開、2025年末までに100万基超への拡張が進みました。中核はインディアナ州New Carlisleのデータセンター群で、AWSの当該サイトへの投資は総額約110億ドル規模とされています。Anthropicのモデル学習・推論に充てられており、旧世代比で5倍超の学習演算力を提供します。

競合の自社シリコンと並べると、AWSの立ち位置がはっきりします。

ベンダー チップ 外部提供 主張・特記(いずれもベンダー自己申告値を含む)
AWS Trainium3(3nm) AWS内のみ T2比で演算最大4.4倍。Anthropic経由で100万基規模の外部実証を持つ点が他社と異なる
Google TPU v7 Ironwood 外販あり 4社のうち外部から直接調達できる唯一の存在。Anthropicが最大100万基を契約
Microsoft Maia 200 自社利用のみ 前世代比30%の価格性能改善を主張。開発遅延を経て量産
Meta MTIA 自社利用のみ 推論優先。短サイクルでの反復開発

この表で実務上いちばん重要なのは「外部提供」の列です。Trainium・Maia・MTIAはいずれも自社クラウド内でしか使えず、顧客から見れば「そのクラウドを選ぶこと」とセットになります。TPUだけがBroadcom経由で外部にも供給される構造で、Anthropicは実際にBroadcomから直接TPUを調達する形をとっています。AWSがTrainiumの価格性能を訴求するとき、それは同時にAWSへのロックインを意味する——この両面性は提案時に押さえておくべき点です。

なお、AWSはNVIDIA GPUの併用も継続しています。2025年中にP6-B200、P6e-GB200、P6e-GB300が順次一般提供となり、GB300搭載のP6e-GB300 UltraServersは2025年12月にGAとなりました。「Trainiumで置き換える」のではなく「Trainiumという選択肢を追加する」のが実態です。

3. Anthropicという両義的な資産

AWSのAI戦略を語るうえで避けて通れないのがAnthropicです。ここは「最大の資産」であると同時に「最大のリスク」でもある、という両義性を丁寧に見る必要があります。

まず数字を押さえます。Anthropicの年換算収益ランレートは、2025年末の約90億ドルから2026年2月に140億ドル、3月に190億ドル、4月に300億ドル、5月に470億ドル、そして7月末に650億ドル超へと駆け上がりました。1年前の約7倍です。同社は2026年6月にSECへ非公開でIPO申請を行っており、上場は2026年後半が見込まれています。この急拡大が、Amazonの決算に計上された巨額の評価益の源泉です。

問題は、Anthropicへの資本と計算資源の供給者がAWSだけではないことです。2026年4月、わずか4日間のあいだに次の2つの発表が並びました。

出資者 発表日 出資額 計算資源のコミットメント
Amazon 2026年4月20日 まず50億ドル、最大250億ドルまで追加(既存の累計80億ドルとは別枠) AnthropicがAWSに10年で1,000億ドル超を支出、最大5GWの容量を確保
Google 2026年4月24日 まず100億ドル(評価額3,500億ドル)、業績目標達成で最大400億ドルまで Google Cloudが5年で5GWを供給。Broadcom経由のTPU調達を含む三者契約の拡張

つまり金額ベースではGoogleのコミットメントのほうが大きいのが現状です。Anthropicは両社から合計10GW規模の計算資源を確保し、意図的にハードウェア中立を貫いています。GoogleのTPU契約規模については、公式には「数百億ドル規模(tens of billions)」という表現にとどまっており、一部で報じられた具体的な総額は本稿で一次情報まで辿れなかったため記載しません。

AWS側の資産価値が失われたわけではありません。Bedrock上でClaudeを利用する組織は10万社を超え、Project Rainierは実際に稼働しています。しかし「AnthropicはAWSの独占的パートナー」という2024年当時の物語はもう成立しません。ここは提案の場でも正確に伝えるべきポイントです。

見方を変えれば、世界最高水準のモデル2つ——ClaudeとGemini——が、それぞれTrainiumとTPUという非NVIDIAシリコンの上で動いている構図でもあります。NVIDIA一強に対する構造変化としては、こちらのほうが本質的かもしれません。

4. OpenAIの取り込み——Microsoft独占の終焉

2025年11月3日、AWSとOpenAIは7年・380億ドルのコンピュート契約を締結しました。そして2026年4月末、OpenAIとMicrosoftのクラウド独占契約が改定され、OpenAIモデルのBedrock展開への道が開きます。

時期 内容
2025年8月5日 オープンウェイトのgpt-oss-120b/20bがBedrockとSageMaker JumpStartで提供開始
2025年11月3日 AWS-OpenAIが7年・380億ドルのコンピュート契約を発表
2026年4月28日 パートナーシップ拡大を発表。OpenAIモデル・Codex等が限定プレビューで提供開始
2026年6月1日 GPT-5.5・GPT-5.4・CodexがBedrockでGA。価格はOpenAI直販レートと同一でAWSのマークアップなし、AWSの既存コミットメントを消化可能
2026年7月9日 GPT-5.6のSol/Terra/LunaがGA。3階層で能力とコストを使い分け可能に
2026年8月11日 サイバーセキュリティ特化のDaybreak Red/Blueが対象顧客向けに提供開始

実務的に効くのは価格と調達の設計です。BedrockのOpenAIモデルはOpenAI直販と同一価格で、AWSのEDPやSavings Plansのコミットメント消化に充当できます。さらに、すでにBedrockを使っている10万社超の組織は、新規ベンダーとの契約・請求経路・ガバナンスプロセスを増やさずにOpenAIモデルを使えるようになりました。日本企業のセキュリティ審査の実情を考えると、この「審査対象ベンダーを増やさない」という点は、性能比較以上に導入判断を左右することがあります。

なお技術的な制約もあります。BedrockのGPTモデルは当初Responses APIのみのサポートで、bedrock-mantleという専用エンドポイントを使う必要がありました。GPT-5.5の実効入力上限は272Kトークンです。移行を検討する際は、公式ドキュメントで現行の対応状況を確認してください。

5. Bedrockのモデル調達力とNovaの現在地

Bedrockの本質は「AWSのモデル」を売る場所ではなく、「あらゆるモデルを1つのAPI・IAM・課金で扱える場所」です。2026年時点のラインナップは、Anthropic(Claude)、OpenAI(GPT-5.5/5.6系、Codex、gpt-oss)、Meta Llama、Mistral、Cohere、AI21、Stability、DeepSeek、Qwenに加え、2026年3月にはGLM 5とMiniMax M2.5という中国系フロンティアモデルも追加されました。この品揃えの広さは3大クラウドの中で突出しています。

自社モデルのAmazon Novaについては、評価を分けて書く必要があります。re:Invent 2025で発表されたNova 2(Pro/Lite/Omni)は、前世代から大きく改善しました。第三者評価機関Artificial Analysisは、Nova 2について「以前のNovaモデルからの実質的なアップグレードで、特にエージェント能力に強みを示す」と評価しています。Nova 2 Omniはテキスト・画像・動画・音声を入力として扱えるネイティブなマルチモーダルモデルで、この構成を持つのはGemini系など少数です。

ただし、市場での実採用という観点では依然として存在感が薄いのが実情です。AWS自身のベンチマーク主張(Claude Sonnet 4.5やGPT-5.1に対し複数項目で同等以上)はありますが、これは自社評価であり、Bedrock上の実利用がClaude中心である構図は変わっていません。AWSは「自社モデルで勝つ」戦略を採っていない——この理解が正しいと考えます。Novaはコスト最適化用途の選択肢として位置づけるのが実務的です。

構造として3社を比較すると、戦略の違いが明確になります。

観点 AWS Microsoft Google
モデル戦略 マルチモデル(中立プラットフォーマー) OpenAI依存が主軸、モデル中立へ拡大中 Gemini垂直統合
自社フロンティアモデル なし(Novaは中位) なし あり(Gemini)
主要な外部依存 Anthropic(出資先)+OpenAI(顧客)の両取り OpenAI(RPOの相当部分を占めると報じられる) 自給自足+AnthropicがTPU顧客
自社シリコンの外販 なし なし あり(TPU)
バックログの集中度 相対的に分散 OpenAIへの集中が指摘される Anthropic向けの比重が上昇

6. エージェンティックAI——Q DeveloperからKiroへ

アプリケーション層では、2026年に大きな方針転換がありました。AWSは2026年4月30日、Amazon Q Developerの終息を公式に発表します。

  • 2026年5月15日:Q Developerの新規サインアップ・新規サブスクリプション作成をブロック(既存契約への席追加は可能)
  • 2026年5月29日:Q Developer ProからOpus 4.6を削除。最新のコーディングモデル(Opus 4.7等)はKiro専用に
  • 2027年4月30日:IDEプラグインと有償サブスクリプションのサポート終了

影響範囲は限定されており、AWSマネジメントコンソール内のQ Developer、ドキュメント、モバイルアプリ、Slack/Teams統合は継続します。終了するのはVS Code・JetBrains・Eclipse・Visual Studioの各IDEプラグインと有償サブスクリプション、そしてコード変換機能(Javaバージョンアップ、.NET移植)です。

後継のKiroは、AWS自身が「スペック駆動開発のために一から構築したエージェンティック開発環境」と説明しています。プロンプトに逐次反応するのではなく、構造化された仕様(requirements・design・tasks)を先に生成し、それに基づいてコードベース全体の変更を計画・実装・検証する設計です。Specs、Hooks(ファイル保存やコミットをトリガとする自動処理)、Steering Files(プロジェクト規約でエージェントの挙動を制約する設定)が中核機能になります。Code OSSベースのためVS Code設定とOpen VSX拡張は引き継げますが、JetBrains・Eclipse・Visual Studioのネイティブプラグインには後継が用意されていません

この点は日本のSI現場にとって無視できない摩擦です。JavaやC#/.NETを主軸とし、JetBrainsやVisual Studioを標準環境としている組織は、IDE標準そのものの見直しを迫られます。移行猶予は12か月ありますが、企業のセキュリティレビューと調達手続きを考えると、2026年度内に評価を始めておくのが現実的でしょう。あわせて、Q Developerのコード変換機能に依存したモダナイゼーション案件を抱えている場合、代替手段の確保が必要になります。

その他のエージェント関連では、Bedrock AgentCore(re:Invent 2025でGA、Policy/Memory/評価機能を追加)、業務横断のAmazon Quick(Microsoft 365、Google Workspace、Slack、Zoom等と連携するデスクトップアプリ)が柱になります。相互運用の面では、AgentCore・Kiro CLI・QuickがいずれもMCP(Model Context Protocol)に対応しており、AWSは独自プロトコルで囲い込む方向を採っていません。コンシューマ側では、買い物アシスタントのRufusや音声アシスタントのAlexa+がBedrock/Nova上で動いています。

7. 市場ポジション——成長率ではGoogle Cloudが上回る

シェアで見れば、2026年第1四半期時点でAWSが約28〜30%、Azureが約21〜25%、Google Cloudが約13〜14%です(Synergy Research系の集計。トラッカーにより数値に幅があります)。市場全体は四半期1,290億ドル規模で前年比約35%成長しています。

ただし成長率の絶対値では、Google Cloudが3社中最も高い水準にあります。2026年第1四半期に前年同期比63%増(200億ドル)、第2四半期には82%増(248億ドル)を記録しました。AWSの36.7%は「加速している」という点で評価すべき数字であって、「最も速い」わけではありません。もっとも、AWSは4倍以上大きい売上基盤の上でその成長率を出しているため、絶対額の増加ではAWSが依然として最大です。この2つの見方は両立します。

共通のボトルネックは電力です。AWSは2027年末までに電力容量を倍増させる計画ですが、Jassy自身が「全需要は満たせない」と認めています。この制約はどの事業者にも等しくかかっており、日本ではさらに厳しい形で現れます(次節)。

8. 日本市場——投資額で最大、ソブリンで劣後

日本におけるAWSの立ち位置は、「圧倒的な既存基盤」と「ソブリン領域での出遅れ」が同居する状態にあります。

投資額では、2024年1月に発表された2023〜2027年の2兆2,600億円(約149.6億ドル)が現行の基準です。2011〜2022年の累計1兆5,100億円と合わせると、2011〜2027年で約3兆7,700億円に達します。AWS自身の試算では、この投資が2023〜2027年の日本のGDPに5兆5,700億円貢献し、年平均3万500人以上の雇用を支えるとされています。2026年8月時点で、これを上回る新規の日本向け大型コミットは確認できていません。

2026年1月、AWSジャパンは新戦略「日本のために、社会のために、その先へ」を発表しました。白幡晶彦社長のもと、従来の「技術への投資」「人と社会への投資」に加えて「信頼性への投資」を新たな柱に掲げ、2つのリージョンの拡張計画も示しています。日本リージョンでのサービス開始から15年という節目に、公共・エンタープライズ領域を意識した打ち出しに舵を切った形です。

競合の日本投資と並べると、金額で最大なのはAWSですが、Microsoftが急速に差を詰めています。

ベンダー 投資額 対象期間 特記
AWS 2兆2,600億円(約149.6億ドル) 2023〜2027年 東京・大阪リージョン。2026年に2リージョンの拡張計画を発表
Microsoft 100億ドル(約1.6兆円) 2026〜2029年 2026年4月3日発表。既存DC増強と新設が中心。2030年までにAI人材100万人育成、国内SIer各社と連携
Oracle 80億ドル超 10年 ソフトバンク・NTTデータとのソブリンクラウド構築が軸

ただし、日本のデータセンター投資には資金では解けない制約があります。東京都心では電力会社からの給電開始まで5〜10年待ちという状況が生じており、大阪エリアでは2026年から4つの変電所のアップグレードに1,500億円以上が投じられる予定です。この制約を回避するため、MicrosoftとAWSはいずれも従来の「東京・大阪」二拠点体制から、北海道・九州・北陸を含む地域分散へと戦略を転換しつつあります。

ガバメントクラウドでは、AWSが圧倒的な実績を持ちます。デジタル庁が2026年2月27日に公表した移行状況データによれば、標準化対象の34,592システムのうち移行完了は13,283件(38.4%)です。早期移行団体463団体のうち300を超える自治体がAWSを採択しており、報道ベースでは利用中・利用決定済み自治体の9割超がAWSを選択しているとされています。「先行実績の多さ」と「国内SIerのAWS対応スキルの成熟」という循環が働いた結果です。

この構図に2026年3月27日、変化が入りました。さくらインターネットの「さくらのクラウド」が305項目の技術要件をすべて満たし、国産事業者として初めてガバメントクラウドの本番環境提供が可能になったのです。AWS、Google Cloud、Microsoft Azure、OCIに続く5番目で、外資4社独占が崩れた形になります。ただし本番実績の蓄積はこれからで、既存のノウハウの大部分がAWS環境を前提としている以上、短期でシェアが動く性質のものではありません。

一方、ソブリンクラウドではAWSは明確に劣後しています。AWSのEuropean Sovereign Cloudは2026年1月にドイツで一般提供が始まりましたが、これはEU専用であり、日本向けの専用ソブリンクラウドは提供されていません。日本ではISMAP認証を取得した東京・大阪リージョンで対応する形です。対して、ソフトバンクはOracle Alloy基盤の「Cloud PF Type A」を東日本2026年4月・西日本2026年10月に、NTTデータは「OpenCanvas Type-Oracle Alloy」を2025年12月に東日本リージョンで提供開始しており、「ソブリンクラウド」を明示的に構築しています。金融・公共でデータ主権が最優先される案件では、この差が直接効いてきます。

国産LLMの動きも押さえておく必要があります。経産省・NEDOのGENIACでは、AWSは第2期以降、複数サイクルにわたって計算資源提供者に選定されています(第4期は2026年6月キックオフでP6-B200等を提供)。ただしGENIACはAWS、Google Cloud、さくらインターネットなど複数事業者を採用しており、AWSの独占ではありません。モデル側では、NTTのtsuzumi 2、NECのcotomi、PFNのPLaMo、富士通のTakaneといった国産LLMが、金融・公共領域で純国産という訴求とともに存在感を高めています。デジタル庁の政府AI環境「源内」にも複数の国産モデルが採用されました。

日本企業のBedrock採用事例では、野村総合研究所がBedrock上のClaudeを用いて日本語文書分析を自動化し、複雑な文書のレビュー時間を50%削減したとする事例が公表されています(Anthropic公式の顧客事例に基づく数値であり、独立した検証は行われていません)。2026年にはBedrockのクロスリージョン推論でClaude系モデルの日本国内推論が可能になり、データ越境を懸念する金融・公共顧客への提案条件が改善しました。

9. 2026〜2028年の展望とリスク

ここからは筆者の推定を含む見通しです。確度の高い予測ではなく、シナリオとして読んでください。

強気シナリオ。AI事業と自社チップ事業がそれぞれ250億ドル超のランレートからさらに倍増し、TrainiumがAnthropic以外の大規模顧客でも実証されることでNVIDIA調達比率が下がり、粗利が改善する。Bedrockが「モデル中立ハブ」として企業の既定選択になり、営業利益率は高40%台で持続する。

中立シナリオ。成長率ではGoogle Cloudに劣後し続けるが、絶対額とバックログで首位を維持。Novaはコスト最適化用途で定着し、日本ではガバメントクラウドの牙城を守る。ソブリン領域はOracle陣営に譲る形が続く。

弱気シナリオ。AnthropicがTPUや自社調達にさらに傾斜し、AmazonのAnthropic評価益が剥落する。電力制約で需要を取りこぼす。AI投資の調整局面が来た場合、積み上がった有形固定資産の減価償却がフリーキャッシュフローを圧迫し続ける。

主要リスクを整理すると、次のようになります。

  • Anthropic依存の両義性——最大の需要源かつ会計上の評価益源だが、マルチクラウド化とIPOによって関係の性質が変わる可能性がある
  • 自社フロンティアモデルの不在——モデル供給者との交渉力に構造的な上限がある
  • シリコンの囲い込み構造——Trainiumの価格性能はAWSを選ぶこととセットであり、TPU外販が価格圧力を生む
  • 電力・グリッド制約——特に日本では東京圏の5〜10年待ちが投資サイクルと噛み合わない
  • 日本のソブリン要件——専用ソブリンクラウドの不在が規制業種の案件で不利に働く
  • キャッシュフローと減価償却——トレーリングFCFのマイナス転落が示すとおり、投資回収の時間軸は長い

日本のSIerやベンダーの立場から見た論点は3つに整理できます。第一に、Bedrockを「モデル中立ハブ」として提案の中核に据える価値が高まったこと。Claude、GPT-5.6系、gpt-oss、Novaを用途別に使い分けられ、しかも新規ベンダー審査を増やさずに済むという実務メリットは、日本企業の調達プロセスと相性が良いためです。第二に、データ主権が最優先の案件ではAWSが最適解とは限らないこと。ソブリンクラウドや国産LLMを含めた選択肢と並べて評価すべきです。第三に、Q Developer終息への対応が2026年度内の実務課題になること。特にJetBrains・Visual Studio前提の開発体制を持つ組織は、IDE標準の見直しを含めた計画が必要です。

継続的にモニタリングすべき指標としては、AWS四半期成長率とGoogle Cloud/Azureとの差、Novaの第三者評価における位置づけ、Anthropicの追加TPU傾斜とIPO動向、AWSジャパンの新規AI/ソブリン投資発表の有無、が挙げられます。

10. まとめ

AWSの「AI出遅れ論」は、2026年の財務数字によって少なくとも売上・利益率の面では反証されました。5四半期連続の成長加速、39.4%の営業利益率、4,960億ドルのバックログは、AIワークロードがAWS上で確実に増えていることを示しています。

ただし、勝ち方の構造は当初想定と違うものになりました。AWSは自社モデルで勝負しておらず、Anthropicに出資しつつOpenAIを顧客として迎え、両者のモデルを同じBedrock上で売るという中立プラットフォーマーの道を選んでいます。この立ち位置は、OpenAIに深く紐づくMicrosoftとも、Geminiを垂直統合するGoogleとも異なります。

弱点も構造的です。自社フロンティアモデルがないため、モデル供給者との関係が事業の前提を左右します。そのAnthropicは、Googleから金額ベースではAmazonを上回る出資コミットメントを受け、TPUで大規模な計算資源を確保しました。AWSにとってAnthropicは、いまも最大の資産であり、同時に最大の不確実性です。

日本市場では、投資額と既存実績で圧倒しながら、ソブリンクラウドという新しい競争軸では後手に回っています。ガバメントクラウドにおける9割超のシェアは強固ですが、さくらのクラウドの正式採択とOracle陣営のソブリン展開は、その前提が永続的ではないことを示しています。「AWSを使う/使わない」の二択ではなく、案件のデータ主権要件と業務特性に応じて、Bedrock経由のマルチモデル、ソブリンクラウド、国産LLMを組み合わせる設計が、これから数年の現実解になると考えます。

月曜日, 8月 17, 2026

データの置き場所より、事業者の管轄——米中クラウドの外国法リスクを数字で見る

「データを国内リージョンに置いているから安心」——クラウド調達の議論でいまだによく聞くフレーズです。しかし米国のCLOUD Actが問題にしているのはデータの所在地ではなく、事業者がどの国の管轄に服しているかです。日本のデータセンターに保管されていても、事業者が米国の管轄下にある限り、米国の令状は及びます。同じ問いは中国資本のクラウドにも向けられます。日本国内にリージョンを持つ中国系事業者に対して、中国の国家情報法はどこまで及ぶのか。

この二つは「外国政府がデータを見にくるリスク」として同じ棚に並べられがちですが、リスクの構造はかなり違います。米国側は司法審査があり、件数が公表され、事業者が争う制度上の手段がある。中国側はそのいずれも公開情報からは確認できない。一方で発動の蓋然性という点では、米国のエンタープライズデータ開示は統計的に見て極めて少ない。構造と蓋然性を混ぜて議論すると、判断を誤ります。

結論を先に書きます。データ所在地(residency)ではなく管轄(jurisdiction)を基準に分類すること、機微度の高いデータには暗号鍵の自己管理を必須にすること、そして米中いずれの外国資本クラウドについても「完全に排除できる」という前提を置かないこと。これがデジタル庁のガイドラインの記述とも整合する、現時点で取りうる最も現実的な線です。以下、法の条文、透明性レポートの実数、日本政府の制度対応の順に根拠を示していきます。

本記事は2026年8月時点の公開情報に基づいています。FISA第702条の失効をはじめ、状況が流動的な論点を含みます。また記事後半には今後の見通しに関する記述がありますが、これは筆者の推定であり、精密な予測ではありません。法的評価が分かれている論点については、両論を併記しています。

1. CLOUD Actが可能にしていること

CLOUD Act(Clarifying Lawful Overseas Use of Data Act)は2018年3月23日、統合歳出法(Pub. L. 115-141)のDivision Vとして成立しました。1986年の通信記録保存法(Stored Communications Act, 18 U.S.C. §§2701-2712)を改正するもので、中核は新設された18 U.S.C. §2713です。

電子通信サービスまたはリモートコンピューティングサービスの提供者は、通信・記録その他の情報が米国内外いずれに所在するかにかかわらず、自己の占有・保管・支配(possession, custody, or control)の下にある顧客・加入者に関する通信内容および記録を保全・バックアップ・開示する義務を遵守しなければならない。(18 U.S.C. §2713、筆者訳)

ここに「データセンターの所在地」という概念は出てきません。米国と十分な接点を持つ事業者が支配下に置いているデータであれば、それが東京にあってもロンドンにあっても、米国の令状・召喚状の対象になります。この構造こそがリスクの本体であり、リージョン選択では動かせない部分です。

もっとも、事業者側に対抗手段がないわけではありません。18 U.S.C. §2703(h)は「国際礼譲(comity)」の分析を規定しており、対象顧客が米国人でなく、開示が米国と行政協定を締結した外国政府の法に抵触する場合、事業者は令状の取消を申し立てることができ、裁判所は米国と外国の利益を衡量します。ただし後述するとおり、この条項が実効的に働く前提には「行政協定を締結した外国」という限定がかかっています。

この立法の直接の引き金は、いわゆるMicrosoftアイルランド事件です。2013年12月、ニューヨーク南部地区の治安判事が麻薬取引捜査でSCAに基づく令状を発付し、Microsoftにダブリンのサーバーに保管された電子メールの開示を命じました。Microsoftは「米国の令状は国境を越えない、刑事共助条約(MLAT)を使うべきだ」として拒否し、第2巡回区控訴裁判所で勝訴。政府が上告し2018年2月27日に連邦最高裁で口頭弁論が行われましたが、その約1か月後にCLOUD Actが成立して争点が立法的に解決されたため、最高裁は2018年4月17日に本件を訴えの利益なし(moot)として下級審判決を破棄・差戻しました。つまりCLOUD Actは、政府が同事件で主張していた立場を議会が追認した立法です。

2. どれだけ発動されているのか——透明性レポートの実数

構造上のリスクと、実際の発動頻度は別の話です。Microsoftは半期ごとに法執行機関からの要求件数を公表しており、これが数少ない定量データになります。最新の2025年下半期(7〜12月)の数字を見てみます。

同期間、Microsoftが世界中の法執行機関から受け取った消費者向けサービスに関する要求は27,412件。これに対してエンタープライズ顧客(商用クラウドを50シート超購入している組織、またはAzureサブスクリプション契約者)に関する要求は190件にとどまります。同社は「年間数万件の法的要求のうち、エンタープライズ顧客データを求めるものは1%を大きく下回る」と説明しています。

項目(エンタープライズ顧客関連) 2024年下半期 2025年下半期(最新)
法執行要求の総数 173件 190件
却下・撤回・データ不存在・顧客への誘導 107件(62%) 96件(51%)
開示を強制されたもの 66件(38%) 94件(49%)
うちコンテンツデータの開示 26件(うち20件が米国法執行関連) 45件(うち31件が米国法執行関連)
うち非コンテンツデータの開示 40件 49件
越境開示(米国外保管の非米国エンタープライズ顧客のコンテンツを米国法執行機関へ) 5社分(いずれもEU/EFTA域外の顧客) 3社分(うち1社はEU/EFTA域内)
Azureのコンテンツデータ開示 なし なし(商用・公共・教育のいずれも)

越境開示が半期あたり数社分という水準は、率直に言って少ない。ただしこれをもって「リスクは無視できる」と結論づけるのは早計です。三つ留保があります。

  • 件数は事業者の自己申告である。独立した検証手段はありません。
  • 秘匿命令の存在。Microsoftは2025年下半期、米国の法的要求の32%(1,823件、うち1,473件は連邦当局発)に顧客への通知を禁じる秘匿命令が付されていたと公表しています。件数は事後に集計されますが、当該顧客がその時点で知ることはできません。
  • 消費者向けサービスでは桁が違う。同期間、米国法執行機関からの消費者データ要求は5,587件あり、そのうち115件は米国外に保管されたコンテンツを求める令状でした。CLOUD Actが日常的に使われていることは、この数字からわかります。

3. FISA第702条という別の経路

CLOUD Actの議論でしばしば混同されるのが、外国情報監視法(FISA)第702条です。両者は別制度で、リスクの性質も異なります。CLOUD Actは刑事捜査における令状・召喚状であり、裁判官による相当理由の審査を伴います。第702条は米国外にいる非米国人を対象とした外国情報の収集であり、個別の令状を要しません。日本の企業や個人にとって直接関係が深いのは、むしろ後者です。

この第702条は、2024年のRISAA(Reforming Intelligence and Securing America Act)で2年間再授権され、2026年4月20日が失効期限とされていました。以後、10日間・45日間といった短期延長が繰り返されましたが、下院が2026年6月11日に短期延長案を198対218で否決し、第702条は2026年6月12日深夜に失効しました。2008年の制定以来初めてのことです。

ただし失効=収集停止ではありません。第702条の運用は外国情報監視裁判所(FISC)が承認する年次認証に基づいており、この認証は法律が失効しても有効期限まで存続します。FISCは2026年3月17日に認証を出しており、これにより収集は2027年3月頃まで法的に継続可能とされています。とはいえ、根拠法が失効した状態で事業者がどこまで応じるかについては法的な不確実性が指摘されており、本記事執筆時点で再授権は成立していません。

日本企業にとっての含意は単純です。米国資本クラウドの外国法リスクを評価するなら、CLOUD Actだけを見ていては不十分で、第702条の帰趨も監視対象に入れる必要がある、ということです。

4. 「ソブリンクラウド」は管轄を切り離せるか

欧州の主権要求に応えるかたちで、各メガクラウドはソブリン提供を打ち出しています。最も踏み込んだのがAWSで、AWS European Sovereign Cloud(ESC)が2026年1月15日に一般提供を開始しました。ドイツ・ブランデンブルク州の第一リージョンはグローバルAWSとは物理的にも論理的にも分離された独立パーティション(aws-eusc)で、IAM・課金・DNS・認証局も独立、運用はEU居住者に限定され、ドイツ法人を親会社とする専用のガバナンス構造が置かれています。投資額は78億ユーロ超とされ、ベルギー・オランダ・ポルトガルへのLocal Zone拡張も発表されています。トレードオフとして、提供サービス数がグローバルリージョンより少なく、開始時点でアベイラビリティゾーンは2つでした。

では、これでCLOUD Actの適用は排除されるのか。法的にはされません。AWS European Sovereign Cloud GmbHはAmazon.com, Inc.の100%子会社であり、この点は欧州のアナリストからも指摘されています。運用主体をEU居住者に限定し、法人をドイツ法の下に置いても、親会社が米国企業である限り「占有・保管・支配」の議論は残ります。

この論点を最も明確にしたのが、2025年6月10日のフランス上院での証言です。「公共調達とデジタル主権」調査委員会の宣誓聴取で、Microsoft Franceの公共渉外・法務ディレクターAnton Carniaux氏は、フランス市民のデータが仏当局の同意なく米当局に渡らないことを保証できるかと問われ、公式議事録上「保証はできない。ただし繰り返すが、そうした事態はこれまで一度も起きていない」と答えました。正当な根拠を欠く要求は拒否しており、欧州の企業・公共部門への発動事例はないと付言していますが、技術的措置と契約上の約束では米国法の適用そのものは排除できないことを、事業者自身が公の場で認めた形になります。

なお、Microsoftは自社FAQで、EU域内のサービスはアイルランド法人Microsoft Ireland Operations Limited(MIOL)が提供し、欧州のデータセンターはMIOLとその子会社が所有・賃借していると説明しています。法人の所在を欧州に置く構成は共通の設計思想です。

CLOUD Actの直接の適用とは別に、欧州の危機感を高めた出来事として、2025年に国際刑事裁判所(ICC)主任検察官が米国の制裁対象に指定された件があります。同氏のMicrosoftアカウントが遮断されたと報じられ(Microsoftはサービスの停止・中断を否定)、ICCは2025年10月31日、Microsoft Officeからドイツ製オープンソースの「OpenDesk」への移行を確認しました。データを読まれるリスクではなく、サービスを止められるリスク——可用性の側面が主権議論の中心に入ってきたのは、この時期からです。

5. 日米間の非対称性

CLOUD Actのもう一つの柱が18 U.S.C. §2523の行政協定(executive agreement)です。一定の人権・プライバシー基準を満たす外国政府と協定を結ぶことで、相互に事業者へ直接データを請求できるようにする枠組みで、従来のMLAT(司法省と裁判所の個別承認を要する、時間のかかる手続)を迂回します。

2026年8月時点で発効しているのは米英協定(2019年10月署名、2022年10月3日発効)と米豪協定(2021年12月15日署名、2024年1月30日発効)の二つだけです。Microsoftも自社の透明性レポートで、米国政府が協定を締結しているのは英国と豪州であり、カナダおよびEUとは交渉を公表している、と明記しています。いずれの協定も重大犯罪に限定され(豪州協定では3年以上の拘禁刑)、5年の有効期間を持ちます。

日本との協定は存在せず、公開情報上、交渉開始の事実も確認できません。日米間には2003年8月に署名され2006年に発効した刑事共助条約があり、日本の当局が米国事業者からデータを取得しようとすればこのMLAT経路になります。ここに構造的な非対称性があります。

  • 米当局は、日本国内に保管されたデータでも、§2713により米国事業者へ直接請求できる。
  • 日本の当局は、米国事業者へ直接請求する迅速な経路を持たず、MLATを経由するしかない。
  • §2703(h)の礼譲条項が想定する「協定締結国の法との抵触」という抗弁も、協定がない以上、日本を対象としては働きにくい。

6. 日本政府はどう扱っているか

日本政府はこの問題を明示的に制度に書き込んでいます。デジタル社会推進標準ガイドラインDS-310「政府情報システムにおけるクラウドサービスの適切な利用に係る基本方針」(2025年5月27日 デジタル社会推進会議幹事会改定)の3.2節は、次のように定めています。

クラウドの利用にあたっては、国内法以外の法令及び規制が適用されるリスクを評価し、情報が取扱われる場所及び契約に定める場所と準拠法・国際裁判管轄に留意する必要がある。(中略)政府情報システムが利用する場合、クラウドのデータセンタの設置場所に関しては、国内であることを基本とする。(DS-310 3.2節)

さらに踏み込んでいるのが、利用者データを国外クラウドに保管する場合の対策です。CRYPTREC暗号リスト掲載の暗号による暗号化を求めた上で、機密性によっては「利用者自身の暗号鍵によるデータの保護と鍵管理(BYOK等)を行い、クラウド(CSP)や監督権限を持った政府等が利用者データを判読不能とする措置を行うこと」と明記しています。「監督権限を持った政府等」——つまり外国政府による閲覧を、鍵管理によって無効化せよと政府自身が書いている。可用性についても、外国法令によるデータ域内保存義務等でリスクが予見される場合には「当該法令の効力の及ばない場所(国)にバックアップ等を保持する」よう求めています。

調達側の制度としてはISMAP(政府情報システムのためのセキュリティ評価制度)があり、政府調達は原則としてISMAP等クラウドサービスリスト登録サービスから選定されます。DS-310の3.1節は、サプライチェーン・リスクに注意を要する場合は「IT調達に係る国等の物品又は役務の調達方針及び調達手続きに関する申合せ」(平成30年12月10日関係省庁申合せ)に従って事前確認を行うことも求めています。この申合せが、後述する中央省庁での中国製通信機器の事実上の排除の根拠になっています。

ガバメントクラウドについては、長らくAWS・Azure・Google Cloud・Oracleの外資4社のみという状態が続きましたが、2023年11月に条件付きで採択されたさくらインターネットが約300項目の技術要件をすべて満たし、2026年3月27日に正式認定されました。国産事業者としては初、5番目の採択事業者となります。

民間側の主権対応としては、Oracleが提供するOracle Alloy(OCIと同一基盤をパートナーが自社データセンターで設置・運用する形態)を採用する事業者が複数あります。国内では富士通、NTTデータ、野村総合研究所などがこれを採用し、それぞれ自社ブランドのクラウドサービスを構築しています。日本オラクル自身も2025年7月、日本国内在住者のみで構成する「ジャパン・オペレーション・センター」を開設しました。運用要員の国籍・居住地まで管理対象に含めるという発想は、AWS ESCがEU居住者限定運用を掲げているのと同じ設計思想です。ただしこれらも、親会社の管轄という論点を法的に解消するものではない点は同様です。

7. 中国資本クラウドの日本国内展開

では中国資本のクラウドはどうか。まず事実関係として、日本国内に相当規模のインフラが存在します。

アリババクラウドは2016年に東京リージョンを開設しました。当初はソフトバンクとの合弁SBクラウドが運営していましたが、同社は2021年10月1日付でソフトバンクに吸収合併され消滅。現在はアリババクラウド・ジャパンサービス株式会社が国内事業を担っています。注目すべきは近年の拡張速度で、2026年3月に日本国内4か所目のデータセンターを開設し、その数か月後の2026年6月18日には5か所目を東京に開設。日本リージョンは5つのアベイラビリティゾーンで構成されるまでになりました。同時にAI開発プラットフォーム「Model Studio」の日本リージョン提供も始まっています。撤退どころか、AI需要を背景に日本での投資を加速させているのが実態です。

テンセントクラウドは東京に2ゾーンを持ち、2025年4月15日から16日にかけて、国内3拠点目のデータセンターを大阪に開設し大阪をリージョンとして設定すると発表しました(大阪リージョンのローンチ時期は2026年と説明されています)。日本法人はTencent Japan合同会社。同社カントリーマネージャーによれば顧客の約95%は日本国内のクライアントで、ゲーム・配信などエンターテインメント領域が約半分を占め、金融・小売分野も伸びているとのことです。

つまり「中国資本クラウドは日本ではほとんど使われていない」という前提は、事実に反します。少なくともゲーム・エンタメ・越境ECの領域では、実運用の基盤として定着しています。

8. 中国法の域外適用をめぐる二つの読み方

議論の中心にあるのが、2017年6月27日に可決され翌28日に施行された国家情報法(2018年改正)の第7条です。

いかなる組織及び国民も、法に基づき国家の情報活動を支持し、援助し、協力し、知り得た国家情報活動の秘密を守らなければならない。(国家情報法第7条、筆者訳)

この条文が中国企業の海外子会社にまで及ぶかについては、評価が割れています。

広く読む立場。スウェーデンの法律事務所Mannheimer Swartlingが2019年1月に公表した報告書は、国家情報法はすべての中国国民に適用され、中国企業グループの海外子会社も対象となりうる(親会社が同法の適用を受ける以上、国際公法の観点からは海外子会社にも管轄が及びうるし、親会社は子会社に対するガバナンス権限を持つ)と結論づけました。ただし同報告書自身が、これは英語版の客観的な読解と国際公法の原則に基づく分析であって、中国国内法体系の下での解釈ではないと明示的に留保しています。

限定的に読む立場。China Law Translate創設者のJeremy Daum氏は2024年、第7条が情報収集・共有への能動的な参加を求める趣旨であったかは全く明らかでないと指摘しています。同条には実効的な執行メカニズムがなく、罰則は情報活動が「妨害された」場合に限られ、その活動も「法に基づき」行われることが前提になっている、という読み方です。

重要なのは、この対立が公開情報だけでは決着しないという点です。中国資本クラウドには透明性レポートが存在しません。したがって「日本国内で開示事例が確認されていない」という事実は、事例が存在しないことの証明にはならず、確認する手段がないことを意味するにすぎません。米国資本クラウドについて件数を数えて議論できるのとは、そもそも土俵が違います。

関連する法制度としては、サイバーセキュリティ法(2017年)、データ安全法(2021年9月1日施行)、個人情報保護法(PIPL、2021年11月1日施行)があります。PIPLは域外適用条項を持ち、データの越境移転には安全評価・専門機関認証・標準契約のいずれかを要します。日本側から見ると、日本国内データの持ち出しを直接命じる規定というより、中国側の規制環境全体が国家の管理を前提に設計されている、という理解が実務的です。

9. 二つのリスクの構造比較

観点 米国資本クラウド 中国資本クラウド
主な根拠法 CLOUD Act(18 U.S.C. §2713)、SCA、FISA第702条 国家情報法、国家安全法、反スパイ法、サイバーセキュリティ法、データ安全法、PIPL
取得の主体 裁判官発付の令状・大陪審の召喚状(刑事)/FISC承認の認証(情報監視) 国家情報機関・公安機関
独立した司法審査 あり(刑事は相当理由の審査を伴う) 公開情報からは確認できない
透明性 半期ごとの件数公表が定着。越境開示件数も区分掲載 透明性レポートは存在しない
事業者による異議申立て §2703(h)の礼譲分析、裁判所での争訟が制度上可能 実効的な手段は公開情報上確認できない
越境協定の枠組み 米英・米豪の行政協定が発効。加・EUと交渉中。日本とは未締結 相当する相互協定の枠組みなし
確認できる発動実績 2025年下半期の越境エンタープライズ開示は3社分(Microsoft) 公開情報上、日本での開示事例は確認できない(確認手段自体がない)
日本政府の扱い ISMAP登録可、ガバメントクラウド採択。DS-310で外国法リスクを明示的に評価対象化 中央省庁は2018年の申合せで通信機器を事実上排除。自治体調達も認定制で限定する方針が報じられている
緩和策の効き方 鍵の自己管理は有効。ソブリン提供は運用・法人を分離するが、親会社の管轄は残る 運用主体とデータ所在で蓋然性は変わるが、透明性の欠如は技術では埋められない

日本政府の対中対応は、時系列で見ると一貫した方向を持っています。2018年12月の関係省庁申合せにより中央省庁・自衛隊のIT調達から中国製通信機器が事実上排除され、2024年5月17日には経済安全保障推進法の基幹インフラ事前審査制度が本格運用に入りました。そして2026年4月には、総務省が自治体のIT機器・サーバー・クラウド調達を政府認定品(経済産業省のJC-STARおよびISMAP)に限定する方針を固めたと報じられ、地方自治法関係の総務省令を改正のうえ2027年夏からの運用開始が見込まれています。JC-STARもISMAPも中国製品を認定していないため、事実上の排除になるという整理です。ハードウェアからクラウドへ、中央省庁から自治体へと、規制の網が段階的に広がってきたと見るのが自然でしょう。

10. 実務上の判断軸

以上を踏まえた実務的な整理です。順序が重要で、技術的対策から入ると必ず失敗します。

第一に、データを機微度で分類し、管轄をマッピングする。①一般業務データ、②個人情報・営業秘密、③基幹インフラ・国家安全保障に関わるもの、程度の粗い三分類で構いません。その上で各クラウド利用について「データ所在地」ではなく「運用主体の法人格と、その法人が服する管轄」を棚卸しします。ここで初めて、リージョン選択では動かせない部分が可視化されます。

第二に、機微度②③には暗号鍵の自己管理を標準化する。BYOK/HYOK、confidential computing、外部鍵管理サービスの利用です。判断軸は単純で、鍵を事業者が保持しているかどうか。事業者が復号できる構成である限り、令状は意味を持ちます。DS-310が「CSPや監督権限を持った政府等が利用者データを判読不能とする措置」と書いているのは、まさにこの点です。ただし同ガイドラインも、クラウド外で鍵を作成・保管・管理する場合は運用負荷と処理の複雑さが大幅に増すため導入前に十分な検討が必要だと注意喚起しています。実際、鍵の紛失は暗号化されたデータの永久喪失を意味します。

第三に、機微度③は管轄そのものを切り離す。国産クラウド、あるいは国内法人が国内要員で運用するソブリン提供を選択肢に入れます。政府・自治体関連業務では、2027年夏の自治体調達制限を先取りして認定制度(ISMAP、JC-STAR)への適合を要件化しておくのが安全です。

中国資本クラウドについては、機微度③には用いないというのが素直な結論になります。日本国内リージョンを使い、運用主体が日本法人であっても、透明性レポートが存在しない以上、リスクを定量的に評価できないからです。逆に言えば、中国向けEC・ゲーム配信のように業務上の必然性がある領域で機微度①のデータを扱う限りにおいて、これを一律に忌避する理由も薄い。用途で切り分ける話です。

判断を見直すべきトリガーとしては、日米CLOUD Act行政協定の交渉開始または締結、FISA第702条の再授権の帰趨(現在失効中で、FISCの認証は2027年3月頃まで)、メガクラウドの日本向けソブリン提供が非米国法人運営を実現するかどうか、あたりが挙げられます。いずれも制度の前提を動かす要素です。

まとめ

米国資本クラウドのCLOUD Actリスクは、構造としては不可避だが、エンタープライズ・非米国データに対する発動の蓋然性は統計的に低い。半期あたり数社分という越境開示の実績は、そのことを示しています。一方でその低さは事業者の自己申告に依存しており、秘匿命令の存在と、FISA第702条という別経路の不透明さがつきまといます。技術的措置と契約でCLOUD Actの適用を排除することはできない——これは事業者自身が公の場で認めた事実です。

中国資本クラウドのリスクは、蓋然性の高低以前に評価する手段が存在しないという設計上の問題を抱えています。国家情報法第7条の域外適用は法的評価が割れており、否定しきることも肯定しきることもできない。にもかかわらず日本国内には相当規模のインフラが存在し、拡張が続いています。「使われていないから問題にならない」という前提は成り立ちません。

結局のところ、外国資本クラウドの利用は「安全か危険か」の二択ではなく、どの管轄のどの制度に、どのデータを、どの緩和策を伴って預けるかという設計の問題です。日本政府自身がDS-310で、外国法リスクの評価、国内データセンターの原則、そして鍵の自己管理という三点を書き込んでいます。民間の実務も、そこから出発するのが筋が通っているように思います。

3年前に書いた「航空業界2050年ネットゼロ」の答え合わせ — SAFは0.6%、水素機は2040年代へ

2023年6月に「航空業界の2050年までに二酸化炭素排出を実質ゼロにする目標」という記事を書きました。ICAO(国際民間航空機関)が2022年の総会で2050年カーボンニュートラルの長期目標を採択したことを起点に、SAF(持続可能な航空燃料)が削減の主役になること、2030年代には水素航空機が登場すること、そして2020年代はまずeVTOL(いわゆる空飛ぶクルマ)がどこまで実用化されるかに注目したい、という内容でした。

あれから3年が経ちました。この種の長期目標を扱った記事は、書いた時点では誰も答え合わせができません。しかし3年という時間は、技術ロードマップの現実性を検証するには十分な長さです。実際、この3年間に起きたことは、当時の業界コンセンサスをかなりの部分で裏切るものでした。

結論を先に書きます。2050年ネットゼロという目標そのものは国際合意として堅持されている一方、それを支える技術のうち、水素航空機と固定翼の電動航空機は明確に後退しました。最大の柱であるSAFも、生産量は2025年時点でジェット燃料消費のわずか0.6%にとどまっています。他方、当時「まず注目すべき」と書いたeVTOLは、破綻と前進が交錯しながらも型式証明の最終局面まで到達しました。以下、領域ごとに現在地を整理し、3年前の見立ての答え合わせをします。

本記事の後半には2028年・2035年・2050年に向けた見通しとシナリオ評価が含まれます。これらは公表資料を根拠とした筆者の推定であり、精密な予測ではありません。また企業の商用化時期は各社の「目標」であって確定した事実ではない点にご注意ください。数値は特記のない限り2026年8月時点で確認できたものです。

1. 2023年6月時点の見立て

まず元記事が何を前提にしていたかを整理しておきます。

  • 航空は世界のCO2排出の約2.5%を占める。ICAO第41回総会(2022年)で2050年カーボンニュートラルの長期目標(LTAG)が採択された。
  • 世界経済フォーラムの資料(2023年1月)を引き、2050年時点の削減はSAFが65%、電動化・水素が13%を担うという想定を紹介した。
  • 飛行によるCO2排出の半分を占める2,500海里(約4,630km)未満の路線は電動・水素で置換可能であり、最長でも新千歳〜那覇(約2,587km)の日本国内線は理屈の上ではすべて置き換わりうる。
  • イスラエルEviationの9人乗り電動機「Alice」(航続400km)を「空のテスラ」的な存在として挙げ、1,000〜1,500km級の小型機電動化、500km以下はeVTOL、という段階論を示した。
  • エアバスが2020年に発表した水素旅客機コンセプト「ZEROe」(2035年実用化目標)に触れ、水素航空機の登場は2030年代と予測した。
  • 日本勢としてホンダのSAF試験(HF120エンジンでの100% SAF試験)とHySE(水素小型モビリティ・エンジン技術研究組合)を挙げた。

要するに「SAF主導+2030年代からの水素・電動+2020年代のeVTOL先行」という、当時としてはごく標準的な整理です。この3年で、このうち何が生き残ったのかを見ていきます。

2. この3年間に起きたこと

時期 出来事 領域
2023年10月 EUがReFuelEU Aviationを正式採択(2025年2%からのSAF混合義務化) 政策
2023年11月 ICAO CAAF/3(ドバイ)で「2030年に国際航空CO2を5%削減」の努力目標に合意 政策
2024年1月 CORSIA第1フェーズ(2024〜2026年、任意参加)開始 政策
2024年12月 独Volocopterが破産申請(2025年3月に中国・万豊傘下のDiamond Aircraftが資産買収) eVTOL
2025年1〜3月 中国EHangがパイロットレス旅客eVTOLの型式証明・運航許可(AOC)を取得し有償運航を開始 eVTOL
2025年2月 エアバスがZEROe水素機を5〜10年延期・予算25%削減、A380水素試験機計画を中止 水素
2025年2月 Eviationが大半の従業員を解雇し、電動機Aliceの開発を無期限停止 電動
2025年4月 コスモ石油系の合弁が堺製油所で国産SAFの大規模供給を開始(年約3万kL) 日本SAF
2025年4〜10月 大阪・関西万博でeVTOLのデモ飛行。当初計画の商用有人運航は全事業者が断念 日本eVTOL
2025年7月 米国でOne Big Beautiful Bill Act成立、45Z税額控除のSAF優遇上乗せが廃止 政策
2025年9〜10月 ICAO第42回総会(モントリオール)で2050年ネットゼロとCORSIAを再確認 政策
2025年12月 IATAが2025年のSAF生産量を約190万トン(ジェット燃料の0.6%)と発表 市場
2026年2月 ATAGがWaypoint 2050最新版を公表、「今後5年が決定的」と警告 政策
2026年3月 日本政府が「空の移動革命に向けたロードマップ」を改訂、商用運航開始を2027〜2028年と明記 日本eVTOL

3. SAF——最大の柱が伸びない

元記事でも中核に据えたSAFは、2026年時点でも削減の最大レバーであることに変わりはありません。ATAGのWaypoint 2050最新版は、2050年までの削減におけるSAFの寄与を38〜58%と見積もっています。問題は、その供給が業界自身の想定を毎年下回り続けていることです。

世界のSAF生産量 ジェット燃料消費に占める比率 補足
2023年 約50万トン(6億L) 約0.2〜0.3% 元記事を書いた頃の水準
2024年 約100万トン(13億L) 0.3% 前年比で倍増したが、IATAは当初予測を下回ったと表明
2025年 約190万トン(24億L) 0.6% 再び倍増。ただし伸び率自体は鈍化しているとIATAが指摘
2026年(見込み) 約240万トン 0.8% IATA予測
2050年(必要量) 約4.3〜5億トン 現状の250倍超。ATAG/IATAの想定

2年で4倍近くに増えたと言えば健闘しているようにも見えますが、必要量まで250倍という距離を考えると、この増加率では到底届きません。しかも供給が細いままコストだけが上がっています。IATAは2025年にSAF調達で発生した追加コストを数十億ドル規模と説明しており、発表時点や算定の前提によって29億ドル、36億ドルといった数字が出ています。いずれにせよ、ジェット燃料全体の0.6%を賄うためにこの規模の追加負担が発生している、というのが実態です。SAFの価格は通常のジェット燃料の2〜10倍、合成燃料(e-SAF)では最大12倍とされます。

興味深いのは、IATAが義務化(マンデート)そのものに批判的な立場を取り始めたことです。事務総長のWillie Walsh氏は2025年12月の発表で、設計の悪い義務化がかえって価格を吊り上げ供給を阻害したという趣旨の指摘をしています。同氏は2025年6月のIATA年次総会でも、2050年ネットゼロは技術的には達成可能だがSAF生産の遅れによって達成時期に深刻な疑義が生じている、と述べました。業界団体のトップが目標の達成時期に公然と疑義を呈するというのは、2023年時点では考えにくい光景でした。

政策面では地域差が鮮明です。EUのReFuelEU Aviationは2025年1月施行で、SAF混合比率を2025年2%→2030年6%→2035年20%→2050年70%と段階的に義務化し、e-SAFのサブ目標を2030年1.2%→2050年35%と定めています。英国も2030年10%→2040年22%の義務化に加え、投資判断を後押しする収入確実性メカニズムを併設しました。対照的に米国は、2025年7月成立のOne Big Beautiful Bill Actで45Z税額控除を2029年末まで延長する一方、SAFに認めていた上乗せ(最大1.75ドル/ガロン)を廃止して他の燃料と同じ最大1.00ドル/ガロンに揃え、原料を北米産に限定し、間接的土地利用変化(ILUC)を算定から除外しました。SAF固有の優遇は実質的に縮小されています。

4. 水素航空機——「2030年代」が崩れた

元記事で最も期待を書いた領域が、最も大きく後退しました。

エアバスは2025年2月、ZEROe水素旅客機の実用化を5〜10年延期し、関連予算を25%削減すると決定しました。A380を改造した水素燃料電池の飛行試験機計画も中止されています。当初の2035年就航目標は実質的に2040年以降へずれ込みました。同社は「水素から離れるわけではないが、ロードマップは調整する」と説明していますが、一部の機体技術の成熟が想定より遅いという理由は、コンセプト発表から5年での大幅後退としては重いものです。欧州の業界ロードマップ「Destination 2050」も、水素航空機の2050年削減寄与を旧版の約20%から6%へ下方修正しました。

水素パワートレインのZeroAviaも、資金難で人員を縮小し、当初2025年としていたZA600の認証時期を燃料電池単体で2027年、統合パワートレインで2029年前後へ後ろ倒ししています。ただしこの領域は、機体側より規制の枠組み整備のほうが先行しているという珍しい状況にあります。FAAは2026年3月に600kW級電気エンジンの特別要件を最終規則として公示し、英CAAは2025年11月にZeroAviaへ設計組織承認(DOA)を付与しました。認証の道筋自体は引かれつつあるので、資金が続けば2030年前後に小型・地域機から入る、という筋書きはまだ残っています。

元記事で触れたホンダのHySEは二輪など小型モビリティ向けが主眼であり、航空機用水素エンジンとしての商用化像はまだ具体化していません。ホンダはSAF側での取り組みを継続しています。

5. 電動航空機とeVTOL——固定翼は総崩れ、eVTOLは前進

固定翼の電動航空機は、この3年で事実上退場しました。元記事で「空のテスラ」的な例として挙げたEviation Aliceは、2022年の8分間の初飛行以降、追加の飛行がないまま設計変更を繰り返し、2025年2月に大半の従業員を解雇して開発を無期限停止しています。DHLやニュージーランド航空を含む600機超の受注を抱えたままの中断でした。「1,000〜1,500km級の小型機から電動化が進む」という段階論は、少なくとも2020年代においては成立しなかったことになります。

一方、eVTOLは破綻と前進が同時進行しています。

企業 2026年8月時点の状況
Joby Aviation 米国 FAA型式証明のStage 4(適合機の型式検査)に進み、2026年3月に適合機の飛行を開始したと報じられた。型式証明は未取得で、進捗の評価には報道間で幅がある。トヨタが累計8.94億ドルを出資。ドバイでの商用運航開始を計画
Archer Aviation 米国 適合性証明手法(Means of Compliance)のFAA受理を完了。アブダビでの商用開始を計画。ユナイテッド航空が最大15億ドルの発注、Stellantisが製造支援
EHang 中国 2025年1月にパイロットレス旅客eVTOLとして型式証明、3月に運航許可(AOC)を取得し有償運航を開始。2026年3月には広州・合肥で正式なチケット制サービスの開始が報じられた
Volocopter ドイツ 2024年12月に破産申請。2025年3月に中国・万豊傘下のDiamond Aircraftが約1,000万ユーロ規模で資産を買収
Lilium ドイツ 2024年に経営破綻。投資家連合による救済を経て事業は縮小
SkyDrive 日本 万博でデモ飛行を実施。2026年3月に国土交通省と型式証明の全般計画書で合意、4月に国内初の航空機設計検査認定事業場(ADO)を取得。2028年の商用運航を目標

注目すべきは欧州勢の脱落と、その受け皿になった中国資本という構図です。VolocopterとLiliumという欧州の二枚看板がいずれも破綻し、Volocopterは中国資本傘下に入りました。認証で先行するのは米国のJoby・Archer、実際に有償運航を始めたのは中国のEHang、という状況になっています。2023年時点では欧州勢がリードしているようにも見えていたので、この3年での勢力図の入れ替わりは大きいものでした。

6. 排出量そのものは増えている

技術面の話が続きましたが、肝心の排出量はどうなったか。需要回復により、むしろ増えています。IATAのNet Zero Progress Reportによれば、2024年の航空総排出量(グロス)は942百万トンで、2023年の882百万トンから増加しました。IEAも2024年の航空排出が記録的な旅客需要を背景に約5.5%増加したとしています。そして同年、業界の緩和策(SAFとオフセット)が削減できたのは総排出の約1.0%にすぎません。

制度面では、ICAOが2025年9月23日〜10月3日にモントリオールで第42回総会を開催し、2050年ネットゼロを含む環境決議を再確認しました。ただし依然として拘束力のある中間削減目標は合意されておらず、2023年のCAAF/3で合意した「2030年に国際航空CO2を5%削減」も努力目標にとどまります。市場メカニズムであるCORSIAは2024年から第1フェーズ(任意参加)が始まり、2027年からは第2フェーズで参加が原則義務化されます。日本の航空会社にもオフセット義務が及ぶ局面が近づいています。

ATAGが2026年2月に公表したWaypoint 2050の最新版は、2050年ネットゼロは依然として達成可能としつつ、今後5年が決定的であると警告しました。同時に、SAFの寄与を38〜58%、そして市場メカニズム(オフセット等)で処理する残余排出を19〜32%と見積もっています。「ネットゼロ」の3割近くをオフセットで埋める可能性があるという想定は、実削減(in-sector)の見通しがそれだけ厳しくなったことの裏返しでもあります。

7. 日本の現在地

日本については、SAFとeVTOLの両方で具体的な動きがありました。

SAF:2030年に本邦エアラインの燃料使用量の10%(約171万kL)をSAFに置き換える目標が設定されています。支援策としてGX経済移行債からSAF関連設備投資へ5年で約3,400億円、戦略分野国内生産促進税制で1Lあたり30円の税額控除が用意されました。そして2025年、コスモ石油・日揮ホールディングス・レボインターナショナルの合弁「SAFFAIRE SKY ENERGY」が堺製油所で廃食用油由来の国産SAFの供給を開始しました。年産約3万kL、ISCC CORSIA認証取得済みで、JAL・ANAへの供給が始まっています。国内で作って国内で使う体制ができたこと自体は前進ですが、3万kLは2030年目標171万kLの2%弱にすぎません。しかも廃食用油という原料には量的な上限が見えており、次世代原料(バイオエタノール由来のATJ、木質、e-SAF)への移行と原料の安定確保が次の課題になります。

eVTOL:大阪・関西万博は、この分野にとって試金石でした。結果から言えば、当初計画されていた来場者を乗せた商用有人運航は全事業者が断念し、デモ飛行にとどまりました。耐空証明・型式証明の取得が間に合わなかったためです。SkyDriveは2025年7月末から8月にかけて遠隔操縦によるデモ飛行を実施し、丸紅が扱ったHEXAは4月26日のデモ中に機体が損傷して一時中断しました。「2025年の万博で空飛ぶクルマが実用化される」という2019年頃からの期待値に対しては、明確な未達です。

これを受けて、経済産業省・国土交通省の官民協議会は2026年3月27日に「空の移動革命に向けたロードマップ」を改訂し、商用運航開始時期を2027〜2028年と明記しました。2030年代前半に遠隔操縦での旅客輸送とAAMコリドーなど新たな交通管理、2030年代後半に自動・自律運航の一部実現、という段階が示されています。SkyDriveは2026年3月に国交省と型式証明の全般計画書で合意し、4月に国内初のADO(航空機設計検査認定事業場)を取得しました。制度と手続きは着実に進んでいますが、万博で一度スケジュールが崩れた以上、2028年という時期も相応の幅を持って見るべきでしょう。

8. 3年前の見立ての答え合わせ

2023年6月時点の見立て 2026年8月時点の結果 評価
2050年ネットゼロ目標は国際合意として維持される ICAO第42回総会(2025年)で再確認。ただし拘束力のある中間目標は依然なし 的中
SAFが削減の中核(2050年に65%寄与という想定を紹介) 最大レバーである点は不変だが、最新の想定では38〜58%に下方修正 方向性は的中
SAFは今のところ全く足りていない 2025年でジェット燃料の0.6%。当時の悲観がむしろ的確だった 的中
水素航空機の登場は2030年代 エアバスZEROeは5〜10年延期で2040年以降へ。ZeroAviaも後退 大幅に楽観的すぎた
2020年代にeVTOL・小型電動機の実用化が進む 中国では有償運航が始まり、米国は認証最終局面。日本は2027〜2028年へ 概ね妥当
電動航空機は大型化・長距離化が進む(Alice等) Aliceは開発停止。固定翼の電動化は事実上停滞 外れ
日本国内線は電動・水素に置換可能 理屈としては残るが、想定した時間軸は現実的でなくなった 時期は非現実的

総括すると、「SAF主導」「目標は維持される」という大枠は当たり、「技術が間に合う時期」の見立てはほぼ全て楽観的すぎたということになります。特に示唆的なのは、元記事の中で最も慎重だった記述——SAFが全く足りていないという指摘——が最も正確だった点です。逆に、具体的な機体や年次に紐づいた期待(Alice、ZEROeの2035年)はことごとく外れました。長期目標を扱う記事では、制度の慣性は当たりやすく、個別プロダクトの時間軸は外しやすい、という教訓かもしれません。

9. 今後の見込み

ここからは筆者の推定です。

短期(〜2028年):SAFはジェット燃料比で1〜2%台にとどまる公算が高いと見ます。EU・英国の義務化が需要を牽引しますが、価格の高止まりと供給不足は続きます。CORSIA第2フェーズ(2027年〜)で排出権需要が押し上げられ、オフセット価格が上昇する可能性があります。eVTOLは米国と中東で限定的な商用運航が始まり、日本は2027〜2028年の商用運航開始を目指す段階。水素旅客機はこの期間中には商用化しません。

中期(〜2035年):EUの2035年20%目標に向けてe-SAFが立ち上がるかが最大の焦点になります。技術的には可能でも、通常燃料の最大12倍というコストと、必要となる再エネ電力・グリーン水素の供給が制約です。水素航空機はエアバスの延期により2035年就航が絶望的になったので、小型・地域機で先行する可能性のほうが高いでしょう。eVTOLは空港アクセスや都市間の特定路線でニッチ市場を形成しますが、当初語られた「空飛ぶタクシーが日常の足になる」像には届かないと見ます。

長期(〜2050年):ネットゼロ達成にはSAFを現状の250倍超に拡大する必要があり、これが最大のボトルネックであり続けます。実削減が届かない分は市場メカニズムで埋めることになり、「実質ゼロ」の中身がオフセット依存に傾くリスクがあります。

シナリオ 前提 2050年ネットゼロの達成
楽観 政策支援でSAF・e-SAFが急拡大、水素が2040年代に商用化、需要の伸びが鈍化 達成可能(ただしオフセット併用が前提)
基準 SAFが漸増、水素は限定的な用途にとどまり、オフセット依存が拡大 部分達成(グロスでは未達、ネットで接近)
悲観 米国型の政策後退が波及、コスト高で普及が停滞、需要は高成長を維持 未達(大幅な排出が残存)

なお、業界団体(ATAG・IATA)が一貫して「達成可能」と表現している点は割り引いて読む必要があります。これは業界の努力目標を反映した表現であり、裏を返せば「現状の延長では達成困難」という警告でもあります。独立系の研究機関にはより慎重な見方もあります。

見通しが変わるかどうかを判断する指標としては、次のあたりを見ておくとよさそうです。世界のSAF生産量が2028年までにジェット燃料の2%を超えるか。e-SAFの大規模プラントで最初の最終投資判断(FID)が2027年までに出るか。JobyまたはArcherがFAA型式証明を取得するか。そして米国の45Z縮小が実際にどれだけSAF投資を冷やすか。

10. まとめ

3年前の記事を書いた時点で、私は「2020年代にeVTOLがどこまで実用化されるかに注目したい」と締めました。その注目の仕方自体は間違っていなかったと思います。ただし、注目した結果として見えてきたのは、技術の進歩より認証と資金という地味な壁のほうが決定的だったという事実です。VolocopterもLiliumもEviationも、技術で行き詰まったというより、証明を取り切る前に資金が尽きました。

SAFについても同じ構図が見えます。技術(HEFA、ATJ、e-SAF)は既に存在し、認証も済んでいます。足りないのは、通常燃料の数倍というコストを誰がどう負担するかの合意です。義務化で需要を作った欧州では価格が上がり、税制で供給を支えようとした米国は政権交代で後退しました。日本は国産量産をようやく始めた段階です。

2050年まであと24年。ATAGが「今後5年が決定的」と書いたのは、おそらく正しい認識です。2030年前後にSAFの生産曲線が立ち上がらなければ、残りの20年でその遅れを取り戻すのは現実的でなくなります。次にこのテーマで答え合わせをするとしたら、2030年か2031年あたりが適当でしょう。そのときSAFがジェット燃料の何%になっているかで、2050年の姿はかなり見えてくるはずです。