日曜日, 8月 09, 2026

フラッグシップ遅延と創業級幹部の離脱——Google AI戦略、実行力の逆風

前回、GoogleのAI戦略を「Gemini・TPU・Cloudの垂直統合」という切り口で整理してから、わずか1週間で状況は大きく動いた。2026年8月5日、Google DeepMindのCEOを務めてきたデミス・ハサビス氏が会長職へ退き、27年在籍の最高科学責任者ジェフ・ディーン氏を含む4名の幹部・研究者が同日に離脱を発表した。同じ週には、5月のI/Oで「6月提供」と約束されたフラッグシップモデル「Gemini 3.5 Pro」が、8月に入っても一般提供されていないという事実が改めて注目を集めている。

この2つの出来事は無関係ではない。Googleの強みを「モデル・半導体・配荷網を一体で持つ垂直統合」に見出した前回の結論は今も揺らいでいないが、その一角である「モデル」の実行力そのものが、この夏に入って明確に軋み始めている。フラッグシップの遅延、相次ぐ研究者の離脱、そして創業級の経営陣交代——これらが同じ2週間に集中したことは、単なる偶然の悪いニュースの重なりというより、Googleの意思決定構造そのものが変化の途上にあることを示しているように見える。

結論を先に述べると、Googleのクラウド事業は四半期82%成長という記録的な数字を出し続けており、資本市場・ビジネス面での勢いは損なわれていない。問題はもっぱら「フロンティアモデルを最速で作り続けられるか」という一点に集中している。以下、8月5日の再編、Gemini 3.5 Proの遅延の実情、人材流出の全体像、そしてそれらに対する市場・アナリストの受け止めを順に見ていく。

本稿には、独立系予測会社FutureSearchによるGemini 4のリリース時期などの予測値を含みます。これらは同社の確率的見積もりであり、Google公式の発表ではありません。予測である旨を明記した箇所以外は、一次報道・企業発表に基づく事実として記述しています。

1. 2026年8月5日、Google AI組織の歴史的再編

Sundar Pichai氏とDemis Hassabis氏が連名でGoogle公式ブログに投稿した発表によれば、Hassabis氏はGoogle DeepMindのCEOを退き、同社の会長(Chair)およびAlphabet初のChief Scientistに就任した。創薬AI子会社Isomorphic Labsのトップは継続する。Hassabis氏は社員向けメモで「日々の運営責任を引き渡し、大局に集中する時間と余地を得るタイミングだと判断した」と説明している。

日常運営を引き継ぐのは、DeepMindのCTOを13年務めてきたKoray Kavukcuoglu氏で、SVPとしてPichai氏に直接報告する体制になった。Kavukcuoglu氏はWaveNetやDQN(Deep Q-Network)の開発を主導した古参であり、Gemini 4の開発を含むフロンティアAI研究・Geminiアプリ・開発者向けチームを統括する。同氏は「我々の使命は変わらないが、野心的なGeminiロードマップを実現する最も明確な道筋を確保することに全力を注ぐ。今の急速に変化する状況では、明確な意図とスピードをもって動かなければならない」との声明を出している。

同じ発表の中で、Chief Scientistのジェフ・ディーン氏(社員番号約30番、27年在籍)が退社し、AI科学スタートアップ「Discovery Loop」を共同設立することも明らかになった。Google Senior FellowのSanjay Ghemawat氏、DeepMind VPのOriol Vinyals氏、Google Brain共同創設者のQuoc Le氏の3名が同行する。Discovery Loopは公益法人(Public Benefit Corporation)として設立され、機械学習・科学・工学研究の自動化を目標に掲げる。GoogleはDiscovery Loopの出資者かつクラウド提供者になると発表されており、Radical VenturesとKhosla Venturesがシード資金を共同主導している(ラウンドは記事執筆時点で未クローズ、評価額は非開示)。ディーン氏はNew York Timesの取材に対し、「上場企業の外で活動することで、会社の純粋な財務的利益に必ずしも沿わない判断もできるようになる」と述べている。

この発表には、報道機関の間でも興味深い食い違いがある。Pichai氏のメモとX投稿は退社者としてディーン氏とGhemawat氏の2名のみを明示的に挙げたが、Discovery Loopの公式サイトはVinyals氏とLe氏を含む4名を創業メンバーとして掲載している。特にVinyals氏はX上の自己紹介で「Gemini co-lead」を名乗っており、Gemini 4の新責任者が発表されたまさにその日に、Geminiの技術共同リードが同時に離脱したという皮肉な符合が複数メディアで指摘された。Alphabet株はこの発表を受けて4〜5%下落した(報道によって幅がある。CNBCは約4%、Fortune・Yahoo Financeは約5%と伝えている)。

2. フラッグシップの現在地——Gemini 3.5 Proはなぜ遅れているのか

2026年5月19日のGoogle I/Oで、GoogleはGemini 3.5シリーズを発表し、軽量版のGemini 3.5 Flashを即日提供した。フラッグシップのGemini 3.5 Proについては、Pichai氏が「翌月(6月)」の提供を明言していた。しかしこの約束は8月上旬時点でも果たされておらず、Google公式のモデルカタログには依然としてGemini 3.5 Proのエントリが存在しない(Pro級として提供されているのはGemini 3.1 Pro(プレビュー)とGemini 2.5 Pro(安定版)のみ)。

Bloomberg(2026年7月16日、現・元従業員10名の証言に基づく)によれば、遅延の主因はコーディング性能が社内目標に届いていないことだ。Googleは2026年6月下旬に学習データを更新してコーディング能力の改善を試みたが、「結果は期待外れだった」という。この報道を受けてAlphabet株は約4.4%下落している。Google広報はBloombergに対し、「現在3.5 Proと改良版のFlashモデルをパートナーとテスト中」であり、「幅広いモデルを高いコスト効率を維持しながら迅速に出荷している」とコメントしている。

LA Times(7月17日)の報道では、遅延の背景としてGoogle Cloud・DeepMind・Android部門がそれぞれ独自にAIコーディングツールを開発する組織構造の重複が指摘されている。限られた計算資源を複数チームが奪い合う状況になっており、Googleはこれらを「Antigravity」という単一プラットフォームへ統合しようとしている。予測会社FutureSearchのDan Schwarz氏(元Google社員、2014〜2022年在籍)は、この報道を「Googleはベースモデルを白紙に戻して作り直した(scrapped and rebuilt the base model)」ことを示すものと解釈しており、当初の想定より深刻な事態だったとの見方を示している。

7月21日、Googleは軽量モデル3種(Gemini 3.6 Flash、3.5 Flash-Lite、セキュリティ特化のGemini 3.5 Flash Cyber)を投入した一方、フラッグシップのProについては「準備が整い次第、広く展開する」というのみで、具体的な日付は示さなかった。同じ発表の末尾で、Googleは次世代モデル「Gemini 4」の事前学習を既に開始したことを明らかにしている。2日後の7月23日、Q2決算説明会でPichai氏は、フロンティアで競争するには「より大きなベースモデルが必要」であり、コーディングと自律エージェントが次世代の優先課題になると述べた。

3. Gemini 4はいつ来るのか——事前学習開始と第三者予測

Googleが公式に確認しているのは、Gemini 4の事前学習を「これまでで最も野心的な学習run」として開始したという事実のみだ。リリース日、パラメータ規模、ベンチマーク、価格、コンテキスト長など、製品としての仕様は一切公表されていない。業界メディアの一部は2026年11〜12月頃のリリースを見込む向きもあるが、これはGoogleの公式なコミットメントではなく、過去のリリース間隔からの推測にすぎない。

この点について、FutureSearchのSchwarz氏は8月5日の再編を受けて確率的な予測を公表している。同社の見立てでは、Gemini 4の一般提供時期の中央値は2027年5月15日(80%予測区間は2027年通年)であり、「2026年内のリリースは80%区間の外」とされている。根拠として、同氏はフロンティア級の学習runには100日以上を要し、その後の事後学習・安全性評価に数か月、さらに各社の主要リリースには連邦政府による30日間のレビューが付随する点を挙げている。同氏は「2か月前はGoogleがフロンティアから6〜9か月遅れていると述べたが、今は約12か月遅れていると考える」とも記している。あくまで一予測会社による確率的見積もりであり、絶対視すべきではないが、参考情報として付記しておく。

なお同氏は、OpenAIのGPT-6についても「2026年3月24日に事前学習を完了し、Sam Altman氏は"数週間後"のローンチを示唆していたが、4か月半経った今も未提供で、その学習成果はGPT-5.5として点リリースされ、GPT-6自体はより大きな基盤でリスタートされたと報じられている」ことを引き合いに出し、「数週間おきに出る点リリースと、頓挫すればリスタートされる新世代の事前学習runを混同してはいけない」と指摘している。

4. 人材流出の全体像——2026年に去った顔ぶれ

2026年に入ってからのGoogle DeepMind/Google AI部門の主要な離脱は、以下のように整理できる。

氏名 発表時期 移籍先/新会社 元の役割・実績
Noam Shazeer 2026年6月18日 OpenAI Gemini共同リード(VP of Engineering)。Transformer論文「Attention Is All You Need」共著者。2024年にCharacter.AI経由(約27億ドル規模の取引)でGoogle復帰していた
John Jumper 2026年6月19日 Anthropic AlphaFold開発、2024年ノーベル化学賞受賞。9年弱DeepMindに在籍
Jonas Adler/Alexander Pritzel 2026年6月 Anthropic Gemini/AlphaFold関連の上級研究者
Denny Zhou 2026年2月頃(非公表、後にLinkedInの更新で判明) Meta Superintelligence Labs Google Brainの推論研究チーム創設者。8年在籍
David Silver 2026年1月 自ら設立(Ineffable Intelligence) DeepMind最初期メンバー、強化学習チームを主導。AlphaGo・AlphaZero・MuZeroの開発者
Jeff Dean 2026年8月5日 自ら設立(Discovery Loop) Alphabet Chief Scientist。27年在籍、社員番号約30番
Sanjay Ghemawat/Oriol Vinyals/Quoc Le 2026年8月5日 Discovery Loop Google Senior Fellow/DeepMind VP(Gemini co-lead)/Google Brain共同創設者

Silver氏の事例は、Googleの対応パターンを考えるうえで示唆に富む。同氏は2026年1月にDeepMindを離れ、ロンドンで強化学習ベースの超知能開発を掲げるIneffable Intelligenceを設立したが、同年4月27日、同社はSequoia・Lightspeedが共同主導する欧州最大級となる11億ドルのシード資金調達(評価額51億ドル)を発表している。この調達にはNvidiaとともにGoogle自身も出資者として名を連ねた。離脱した研究者の新会社にGoogleが出資し、クラウド顧客として関係を維持するというパターンは、8月のDiscovery Loop(Google自身が投資家兼クラウド提供者)とも共通しており、単純な「人材流出=完全な喪失」という図式には収まらない側面がある。

5. なぜ人は去るのか

複数の報道を総合すると、離脱の背景には主に次のような要因が挙げられている。

  • 報酬とプレIPOのアップサイド:AnthropicとOpenAIはいずれもIPOを視野に入れており、上場済みのAlphabetが構造的に提供しづらいプレIPOエクイティを提示できる。Anthropicは2026年5月末に約965億ドルの評価額でシリーズHラウンド(650億ドル)を完了させており、3か月前の380億ドルから急伸している。
  • 計算資源へのアクセス:CNBC(8月5日)は複数の匿名情報源を引用し、Google CloudがAnthropicを含む外部顧客にTPUを販売する一方で、社内の研究者が自らのプロジェクトに必要な計算能力へのアクセスに不満を募らせていると報じている。
  • 組織の複雑さ:検索・Maps・YouTubeなど広範な製品群にAIを統合する過程で、承認プロセスが多層化し、リリースの機動力を損なっているとの指摘がある。
  • 軍事契約への異論:Googleは2026年4月、Geminiを「あらゆる合法的な政府目的」に開放する機密のペンタゴン契約を締結したと報じられている。これに対し、ロンドン拠点のDeepMindスタッフ約300名が労働組合を結成する動きが2026年5月に報じられており、軍事協力を巡る内部での意見対立が士気に影響しているとの分析もある。

なお、この一連の離脱報道に対し、Googleは8月の再編以前(7月23日付Axios報道)の時点で反論を示していた。2026年上半期のAI人材の離職率は前年同期より低く、AI関連職のオファーの90%超が受諾されていると主張している。ただしこの反論は8月5日の再編発表より前のものであり、Dean氏らの離脱に対する直接のコメントではない点には留意が必要だ。

6. 市場とアナリストの反応

今回の一連の離脱・再編に対する株式市場の反応は、6月と8月の2度にわたって表れている。6月22日、Shazeer氏とJumper氏の連続離脱を受けてAlphabet株は取引時間中に一時7%下落し、1年超で最大級の下落幅を記録した。8月5日の再編発表でも株価は4〜5%下落しており、Cryptonomistは時価総額の減少を約1,900億ドルと試算、FutureSearchのSchwarz氏は自身のブログで「市場の約2,000億ドル規模の下落」に言及している(いずれも二次的な試算であり、幅を持って見るべき数字である点に注意されたい)。

アナリストの受け止めは一様ではない。D.A. DavidsonのGil Luria氏は6月の離脱時点で「GoogleはAIフロンティアにおける人材獲得競争で負けつつあるという懸念が強まっている」とコメントした。一方、JefferiesのBrent Thill氏は8月の再編後、「AI人材獲得競争が激化している」との認識を示しつつも、「IPOを控えたフロンティアラボが優秀な研究者の獲得競争で優位に立ちつつある一方、Googleは依然として深いAI専門性と加速するクラウド成長の恩恵を受けている」と指摘し、離脱を「沈みゆく船からの逃避」ではなく「潤沢な資金にアクセスできる創業者への転身が可能になった労働市場の変化」として捉える見方を示した。同氏は6月時点でも、Googleの約19万4,668人(2026年第1四半期時点、前年比5%増)という従業員基盤と、検索・Cloud・Workspaceにまたがる合計30億ユーザー規模の配荷力、TPUによるコスト優位性を根拠に、Geminiが最高性能のモデルである必要は必ずしもないと論じている。

FutureSearchのSchwarz氏の分析はさらに踏み込んでいる。同氏は、AIラボ157件のモデルリリースと171件の人事異動を統計的に分析したMike Frantzen氏の調査("The masthead is not the moat")を引用し、「著名研究者を多く失ったラボほど、その後より優れたモデルを開発する傾向がある」という逆説的な結果を紹介している。これは、優秀な人材はどの企業も「勝っているラボ」から引き抜こうとするためであり、真の堀(moat)は看板研究者ではなく学習スタックそのものと、報道に名前が出ない中堅層の厚みにあるという解釈だ。この見立てを踏まえ、同氏は「今回の市場の約2,000億ドルの下落は、人材流出そのものというより、モデルのタイムラインに対する懸念だと考える」と結論づけている。同社は今後6か月間で、DeepMindに残る上級研究・エンジニアリング指導者(約15名と推定)のうち中央値で2名(0〜6名の範囲)が追加で離脱すると予測している。

7. クラウドは絶好調という逆説——「勝者に土地を貸す」シナリオ

今回の一連の出来事を語るうえで見落とせないのが、Google Cloud事業そのものは記録的な成長を続けているという対照的な事実だ。Google Cloudの売上は2026年第2四半期に前年同期比82%増となっており、この成長の一部は、他ならぬフロンティアAIラボへのインフラ賃貸によって支えられている。中でも大きいのがAnthropicとの関係で、報道(The Informationの報道をReutersが伝えたところによれば)によると、Anthropicは2027年からの5年間で総額約2,000億ドルをGoogle Cloudに投じることをコミットしたとされ、最大100万基規模のTPUと複数ギガワット級の次世代computeを対象とする契約と伝えられている。Discovery LoopやIneffable IntelligenceがいずれもGoogleからcompute供給を受ける関係にあることも同じ文脈で理解できる。

これをGemini自体の商業的な規模と比較すると、対照はより鮮明になる。Morningstarの推計(FutureSearch経由)によれば、Gemini APIの売上は年換算で約150億ドル程度とされ、消費者向けAIサブスクリプションの規模はさらに小さいとみられる。正確な数字を得るのは難しいものの、この比較は「Geminiの収益規模はGoogleにとってCloud事業ほど大きくはないかもしれない」ことを示唆している。FutureSearchはこの構図から、「2028年より前にAnthropicの年換算Google Cloud支出額がAlphabet自身のGemini収益(API+消費者向けサブスクリプション)を上回るか」という問いを立て、60%の確率を見積もっている。

この見方が示唆するのは、Googleが必ずしも「フロンティアモデルそのもので勝つ」ことに固執する必要はなく、TPUとクラウドインフラを軸に「フロンティアの勝者に土地を貸す」立場としても十分な事業機会を持ちうるという、垂直統合戦略のもう一つの解釈だ。これは前回記事で論じた「モデル・半導体・配荷網の一体運用」という強みの中の、半導体・インフラの側面がむしろ独立した収益源として機能し始めている可能性を意味している。もっとも、これは仮説的なシナリオであり、Gemini自体の競争力低下を正当化するものではない点には留意したい。

まとめ

この2週間の動きを整理すると、Googleは「フロンティアモデルの実行力」という一点で明確な逆風に直面しつつも、「インフラ・配荷・資本力」という土台は揺らいでいないという、ねじれた構図が浮かび上がる。Gemini 3.5 Proの遅延は単なるスケジュールの後ろ倒しではなく、ベースモデルを作り直すレベルの手戻りを伴っていたとみられ、Gemini 4への軸足移動もその帰結として理解できる。人材流出についても、著名研究者の離脱そのものより、彼らが去った先で何を作るか(そしてGoogleがその出資者・クラウド提供者であり続けるか)の方が、中長期的には重要な変数になりそうだ。

今後の観測点としては、(1)Gemini 3.5 Proが実際にいつ、どの程度の性能で一般提供されるか、(2)Kavukcuoglu体制下でGemini 4の開発ペースが実際に上がるか、(3)今後半年でDeepMindの上級研究者がどの程度追加で離脱するか、(4)AnthropicをはじめとするCloud顧客からの収益がGemini自体の収益規模を上回っていくか、の4点を挙げておきたい。前回記事で示した「垂直統合の強みと、収益基盤の緊張」という構図に、今回は「フロンティア実行力の遅れ」という新たな軸が加わった形になる。

土曜日, 8月 08, 2026

Macはなぜ671BのLLMを動かせるのか——ユニファイドメモリの仕組みと2026年DRAM危機の現実

RTX 5090は32GBのVRAMを積んだNVIDIAの最上位コンシューマーGPUだが、70Bクラスの大規模言語モデル(LLM)を4bit量子化してもそのままでは載らない。ところが40万円台のMac Studioなら、パラメータ数671BのDeepSeek R1をまるごとメモリに載せて動かせてしまう。なぜMacだけがこんな芸当をやってのけるのか——答えは「ユニファイドメモリアーキテクチャ(UMA)」にある。

ローカルLLM界隈でこの1年ボトルネックとして語られてきたのは、GPUの演算性能(TFLOPS)ではなく「メモリ容量」と「メモリ帯域」だ。Googleの研究者David Pattersonらが2026年5月のIEEE Computer誌で指摘した通り、AIチップの計算性能はこの10年で80倍に伸びた一方、メモリ帯域の伸びは17倍にとどまり、両者のギャップは4.7倍に開いている。この文脈で、AppleがM1シリーズから一貫して採用してきたUMAが、図らずも「個人がAIモデルを手元で動かす」という新しいニーズに刺さった格好だ。

結論を先に言うと、Macの強みは「容量」であって「速度」ではない。そしてこの構図に気づいたAMD・NVIDIA・Qualcommも、それぞれのやり方でユニファイドメモリ型のアーキテクチャに追随し始めている。さらに2026年に入ってから深刻化したDRAM価格の高騰により、Mac Studio自体の買える構成が様変わりしている。本稿では技術的な仕組みから、競合との比較、そして「結局2026年8月時点で何を買うべきか」まで整理する。

本稿の価格・在庫関連の記述は2026年8月時点のものです。DRAM市場の需給は急速に変動しており、時間が経てば陳腐化する可能性があります。またM5 Ultra搭載Mac StudioやAMDの次世代APUなど、一部は正式発表前の観測筋情報として扱い、その旨を本文中に明記しています。

1. ユニファイドメモリアーキテクチャ(UMA)とは何か

従来型のPCでは、GPUは専用のVRAMを持ち、CPU側のシステムRAMとは物理的に分離している。LLMがVRAMに収まりきらない場合、推論エンジンはモデルの層をGPUとCPU RAMに分割し、そのたびにPCIeバスを跨いでデータをやり取りする。PCIe 5.0 x16でも理論値で片方向約64GB/sしか出ず、モデルの一部でもVRAMからあふれた瞬間に推論速度は大きく落ち込む。

Appleシリコンのユニファイドメモリアーキテクチャは、CPU・GPU・Neural Engine(NPU)が単一の物理メモリプールを共有することで、この「詰め替え」を原理的になくす設計だ。GPUがモデル重みにアクセスする際にPCIe転送のオーバーヘッドが発生せず、マシンに搭載された全メモリがそのまま「VRAM」として使える。

LLMのメモリ所要量は大まかに次の式で見積もれる。4bit量子化(Q4)の場合、実務上の目安として「10億パラメータあたり約0.6GB」に、コンテキスト長に応じたKVキャッシュ分を加える。70BモデルはQ4で約40〜48GB、FP16なら約140GB必要になる。この「140GB」という数字だけで、24GBや32GBのコンシューマーGPU1枚では端から歯が立たないことがわかる。

2. Appleシリコンの世代別スペック

LLMのトークン生成(デコード)は基本的に「メモリ帯域律速」で、帯域がほぼそのまま生成速度を決める。Appleシリコンの帯域は世代とグレードでかなり幅がある。

チップ メモリ帯域 最大UMA容量 メモリ種別
M4(素) 120GB/s 32GB LPDDR5X
M5(素) 153GB/s 32GB LPDDR5X
M5 Pro 307GB/s 64GB LPDDR5X
M5 Max(32コアGPU) 460GB/s 36GB LPDDR5X
M5 Max(40コアGPU) 614GB/s 128GB LPDDR5X
M3 Ultra 819GB/s 512GB(構成上の理論最大) LPDDR5X

M3 ProはM1/M2 Proの200GB/sから150GB/sへと帯域が後退した世代があり、Appleが「up to」という表現を多用する点にも注意したい。M5 Max自体、GPUコア数によって460GB/sと614GB/sの2段階があり、同じ「M5 Max」でも構成次第で帯域が3割以上変わる。

3. 「容量」の圧勝と、「速度」で見劣りする理由

YouTuberのDave2D(Dave Lee氏)が512GB構成のMac Studio(M3 Ultra)でDeepSeek R1の671Bモデル(4bit量子化、ストレージ消費404GB)を動かした検証はよく引用される。macOSのデフォルトのVRAM割り当て上限をTerminalコマンドで448GBまで手動拡張し、約17〜18トークン/秒で生成、消費電力は200W未満だったという。複数のGPUをまたいで分散させる必要がある規模のモデルを、単一マシン・低消費電力で動かせる点は、他のパーソナルコンピュータには真似できない。

ただし、これは「容量」の勝利であって「速度」の勝利ではない。RTX 5090(32GB、1,792GB/s)はM4 Max(546GB/s)やM3 Ultra(819GB/s)より帯域そのものは高く、VRAMに収まる範囲(〜32GB程度)のモデルではNVIDIA側が明確に速い。プロンプト処理(プリフィル、最初の1トークンが出るまでの時間)についても、llama.cppのMetalバックエンドは長年「遅い」と指摘されてきた領域で、長いコンテキストを扱うほどNVIDIA勢との差が開く。

この弱点に対するApple側の回答が、GPUコアに新設された「Neural Accelerator」と、MLXフレームワークの強化だ。Appleの機械学習研究チームが公開したベンチマークでは、M5搭載機(24GB構成)はM4比でプリフィルが最大4.06倍、生成速度が19〜27%向上したという。ただしこの数値はベースM5とベースM4の比較であり、M5 MaxのようなハイエンドSKUでの数値ではない点には注意したい。2026年3月にはOllamaもmacOS向けの推論バックエンドをMLXへ切り替え、M5 Max上のQwen3.5-35B-A3Bでプリフィルが1,154→1,810トークン/秒、生成が58→112トークン/秒に向上したと公表している。ただしこの比較は量子化形式が異なる(旧側はQ4_K_M、新側はNVFP4)非等価比較であり、対応モデルもプレビュー時点ではQwen3.5系に限られる。独立検証でも効果はモデル依存で、Qwen3.6ではほとんど変化がなかったという報告もある。MLX自体にも弱点があり、トークンを出力する前に入力全体のプリフィルを完了させる設計のため、長いコンテキストではTTFT(最初のトークンが出るまでの時間)が入力長に比例して伸びる。8.5Kトークンのプロンプトで、UI上の表示は51トークン/秒でも実効スループットは3トークン/秒しか出なかった、という報告もある。

4. 他社も雪崩を打って追随するユニファイドメモリ

AppleのUMAに最も忠実に追随したのがAMDの「Strix Halo」ことRyzen AI Max+ 395だ。16基のZen 5コア、40基のRDNA 3.5コンピュートユニット、50 TOPSのXDNA 2 NPUを1パッケージに統合し、最大128GBのLPDDR5X-8000を共有する。256bitバスの理論帯域は256GB/sだが、実測は約212〜215GB/sにとどまる。AMD公式は最大約112GBをGPU用に割り当て可能としている。帯域自体はApple Maxクラスに及ばない。128GB構成は2026年初頭こそ1,500〜1,800ドル程度で手に入ったが、DRAM高騰の波はこの陣営にも及んでおり、2026年半ば以降は市場価格が3,000ドルを超え、7〜8月には3,400〜3,800ドル程度まで上昇している。もはやDGX Spark(3,999〜4,699ドル)と比べて「圧倒的に安い」とは言いにくい水準だ。なおAMDは2025年に「Strix HaloはDeepSeek R1でRTX 5080比最大3.05倍」という自社ベンチマークを公表しているが、これはRTX 5080のVRAM(16GB)を超えるモデルサイズでの比較であり、方法論も非公開のため、生の演算性能の優劣を示すものではない点に注意したい。

NVIDIAはデータセンター向けのGrace HopperやGrace Blackwellで、独自のコヒーレント統合メモリを推進しているほか、デスクトップ機の「DGX Spark」(GB10、128GB LPDDR5X、273GB/s、3,999〜4,699ドル)でも同様の思想を採用している。ただしDGX Sparkの実力は用途によって大きく分かれる。dense(非MoE)の70Bクラスモデルでは、第三者ベンチマーク(LMSYS)でLlama 3.1 70B(FP8)のデコードが2.7トークン/秒、Qwen 2.5 72BやLlama 3.2 90Bでも4.6トークン/秒程度と、実用的な対話速度には届かない。長いプロンプトのTTFTも数分単位(Llama 3.2 90Bで133秒、DeepSeek R1 70Bで180秒)とかなり長い。一方で、MoE(後述)アーキテクチャのgpt-oss-120B(総パラメータ120B・活性約5B)では35〜80トークン/秒という報告があり、DGX Sparkの強みは「dense 70B」ではなく「MoEアーキテクチャ」または「vLLM等を使った高並列度でのバッチ処理」(同一条件で高負荷時に単発リクエスト比120倍のスループットという報告もある)にあると見るべきだろう。

QualcommのSnapdragon X2 Elite Extreme(X2E-96-100)は、12チャネル(192bit)のオンパッケージLPDDR5Xで228GB/sを実現し、初代Snapdragon X Elite(135GB/s)から約7割向上した。NPU(Hexagon)はTOPSベースで45→80と倍近くに伸びている。ただしこのラインには帯域192GB/sより低い廉価SKU(X2E-88-100など、128bitバスで152GB/s)も併存しており、「X2 Elite」とひとくくりに語ると数値を取り違えやすい。

5. NPUのTOPS表記に踊らされてはいけない

AI PCのマーケティングでは「NPU〇〇TOPS」という数字が独り歩きしがちだが、大型LLMの実効速度を決めるのは基本的にメモリ帯域であり、TOPSではない。典型的な混同例がIntelのLunar Lake(Core Ultra 200V)だ。NPU単体は48 TOPSだが、GPU・CPU分も合算した「プラットフォーム合計120 TOPS」という数字がしばしばNPU単体の性能であるかのように引用される。搭載メモリも最大32GBのオンパッケージLPDDR5X-8533にとどまり、大型LLM向けの構成ではない。

NPU TOPS(INT8) 備考
Apple Neural Engine(M4) 38 TOPS 16コア
Qualcomm Hexagon(X Elite初代) 45 TOPS 帯域135GB/s
Qualcomm Hexagon(X2 Elite Extreme) 80 TOPS 帯域228GB/s(廉価SKUは152GB/s)
Intel NPU 4.0(Lunar Lake) 48 TOPS 「プラットフォーム合計120 TOPS」と混同されやすい
AMD XDNA 2(Strix Halo) 50 TOPS -

現状、大型LLMの推論はNPUではなくGPU(Apple環境ではMetal/MLX経由)で回すのが主流で、NPUの出番は7〜8B級の量子化モデルまでの常時稼働タスク(要約、字幕生成など)に限られる。実際、MLX自体もMetal経由でGPUを使う設計で、Neural Engine(ANE)を直接使ってはいない。

6. モデル規模別の適材適所とMoEとの相性

モデル規模 向くハードウェア 理由
1B〜8B NPU/エッジ/任意のGPU 省電力・常時稼働向け。8GBでも4bitで動作可
13B〜34B コンシューマーGPU(16〜32GB VRAM)またはMac 32〜64GB VRAMに収まる範囲ではNVIDIAが速い
70B級(dense) Mac Studio/Strix Halo(いずれも96〜128GB) 単一コンシューマーGPUには載らない。UMAが実質的な受け皿
100B〜数百B(MoE中心) 大容量UMA機、またはDGX SparkのようなMoE最適化機 総パラメータは容量を食うが、活性パラメータは一部のみ

MoE(Mixture of Experts)は総パラメータが巨大でも、トークンごとに一部のエキスパートしか活性化しない。DeepSeek-V3は671B中37Bのみ、gpt-oss-120Bは128エキスパート中4つ(総パラメータの一部)だけが動く。重要なのは、全エキスパートをメモリに常駐させる必要がある(=容量を食う)一方、トークンあたりに読み込むのは活性化分だけ(=帯域負荷は小さい)という非対称性だ。これがUMA機(Mac、Strix Halo、DGX Spark)とMoEの相性の良さの正体で、DGX Sparkのgpt-oss-120Bが35〜80トークン/秒出るのもこの原理による。

ただし「MoEなら常に速い」というわけでもない。大学の研究チームがOLMoE-1B-7B(活性1.3B・総7B)をApple M2ProとNVIDIA Jetson Orin Nanoで検証した論文では、帯域律速の環境ではMoEの推論コストは活性パラメータではなく総パラメータに追随する傾向が見られ、エッジ環境では同じ活性パラメータ数のdenseモデルに対して約31%遅い結果になったと報告されている。全重みが物理メモリに載り切る大容量UMA機でこそMoEの利点が生きる、という理解が実態に近い。

7. 2026年のDRAM危機で覆ったMac Studioの現実

ここまでの技術的な議論はMac側にかなり有利な材料が並ぶが、2026年に入ってからの状況変化を無視できない。TrendForceは2026年第1四半期のDRAM契約価格見通しを前四半期比90〜95%上方修正し、Gartnerは年間のDRAM+SSD価格が130%上昇すると予測した。AI向けHBMへの生産能力シフトが、コンシューマー向けDRAMの供給を圧迫している。

この余波でApple自身のMac Studioラインナップが目に見えて縮小した。2026年3月、512GB構成(旧価格9,499ドル)がオンラインストアから消え、上限は256GBに。256GBへのアップグレード価格も1,600ドルから2,000ドルへ引き上げられた。さらに5月には256GB構成も削除され、M3 Ultra Mac Studioは96GB構成の一択に。6月25日の全体的な値上げでは、その96GB構成自体も3,999ドルから5,299ドルへと1,300ドル値上がりしている。Appleの技術仕様ページ自体には256GBの記載が残っており、これが恒久的な仕様変更なのか一時的な販売制限なのか、Appleは公式には説明していない。

結果として、2026年8月時点で実際にApple直販で買える「最大メモリを積んだMac」は、Mac Studioではなく128GB構成のM5 Max MacBook Proという逆転現象が起きている。macOS Tahoe 26.2で追加されたThunderbolt 5クラスタ機能を使えば、256GB機を2台束ねて疑似的に512GBプールを作ることも理論上は可能だが、合計コストは旧512GB構成の単体価格を上回り、インターコネクトのレイテンシも単一ダイのUMAには及ばない。なおMac Proは2026年3月26日付けで販売終了となり(Appleは後継モデルの計画がないことも公表済み)、Mac Studioが名実ともにAppleのフラッグシップワークステーションとなっている。

Bloombergのマーク・ガーマン氏は、M5 Ultra搭載Mac Studioが2026年10月前後に登場し、最大768GBのユニファイドメモリをテスト中と報じているが、これは正式発表前の観測筋情報であり、供給状況次第では実際に販売される上限がそれより低くなる可能性がある。ガーマン氏はまた、AppleがM6世代のPro/Maxチップを見送り、AI性能強化を優先したM7世代を前倒しする計画だとも伝えている。

8. 結局、個人が70B超をローカルで動かすには何を買うべきか

選択肢 実効メモリ/帯域 想定価格 向き・不向き
Mac Studio(M3 Ultra 96GB) 96GB/819GB/s 約5,299ドル〜 70B Q4は載る。静音・省電力。100B超やFP16の70Bは容量不足
M5 Max MacBook Pro 128GB/614GB/s 約6,999ドル(16インチ・2TB。2026年6月の値上げ前は約5,099〜5,399ドル) 2026年8月時点で実際に買える中では最大メモリのApple製品。ノート機であること自体は制約にならない
AMD Strix Halo搭載機 128GB/実測約212〜215GB/s 2026年初頭は約1,500〜1,800ドル。DRAM高騰で2026年半ば以降は3,000〜3,800ドル程度に上昇 dense 70Bも実用速度。ただしDGX Sparkとの価格差はDRAM高騰でほぼ解消した。ソフト面はMetal/MLXほど成熟していない
NVIDIA DGX Spark 128GB/273GB/s 約3,999〜4,699ドル MoEモデル(gpt-oss-120B等)や高並列バッチ処理に強い。dense 70Bの単発対話は非常に遅い(数トークン/秒)

まとめると、dense(非MoE)の70Bクラスモデルを単発の対話用途でローカルに動かしたいなら、Mac StudioかStrix Halo搭載機が現実的な選択肢になる。逆にgpt-oss-120Bのような大型MoEモデルを動かしたい、あるいはチーム内の小規模な推論サーバーとして複数リクエストを捌きたいなら、CUDAエコシステムとFP4ネイティブ対応を持つDGX Sparkに分がある。エンタープライズ向けのマルチユーザー・高スループット推論であれば、この価格帯の議論はそもそも成立せず、H100/H200/B200クラスのデータセンターGPUを使うのが妥当だ。

購入前に確認すべきは「TOPS」ではなく、(1)メモリ帯域(GB/s)、(2)実効メモリ容量(GB)、(3)動かしたいモデルの量子化後フットプリント、(4)dense構成かMoE構成か、の4点だ。とりわけ2026年後半は在庫と価格の変動が激しいため、購入直前にメーカー直販ページで実際に選べる構成を確認することを勧めたい。

まとめ

Macが大型LLMを動かせる理由は、CPU・GPU・NPUが単一の高帯域メモリプールを共有するユニファイドメモリアーキテクチャにある。その本質は「容量の勝利」であり、「速度の勝利」ではない。VRAMに収まる規模のモデルではNVIDIAのコンシューマーGPUが依然として速く、プロンプト処理の弱さもMac側に残る課題だ。そしてこの構図はAppleの独壇場ではなくなりつつある。AMD Strix Halo、NVIDIA DGX Spark、Qualcomm Snapdragon X2という形で、業界全体がユニファイドメモリという方向に収斂している。

一方で、2026年のDRAM価格高騰はMac Studioという製品そのものの立ち位置を揺るがした。512GBという看板構成はすでに市場から姿を消し、96GBが現実的な上限になっている。この波はAppleだけでなく、Strix Halo搭載機のような「安価な代替」を謳ってきた陣営にも等しく及んでおり、128GB構成の実売価格は2026年初頭の1,500ドル台から半年余りで3,000ドル台後半まで上昇した。「大容量が欲しければMacを買えばいい」「Macが高いならStrix Haloを買えばいい」といった単純な図式は、少なくとも執筆時点ではもう成立しない。ハードウェア選びは、動かしたいモデルがdenseかMoEか、単発対話か並列処理か、という要件と、購入直前の実売価格に立ち返って判断する必要がある。

金曜日, 8月 07, 2026

蒸留か、フルスクラッチか ― 楽天・Sakana AI・富士通に見る国産LLMの作り方

2026年3月、楽天グループが「国内最大規模」として公開した大規模言語モデル「Rakuten AI 3.0」を巡り、技術コミュニティで騒動が起きた。Hugging Face上の設定ファイルを見た開発者たちが、そのアーキテクチャが中国DeepSeek社の「DeepSeek V3」と一致することに気づいたのだ。楽天は当初「ベースモデルは非開示」と回答を避けたが、指摘から10日後、DeepSeekのオープンモデルを採用したことを公式に認めた。

この一件は、「国産LLM」という言葉が実際には何を指しているのかを改めて問い直す出来事になった。楽天だけの話ではない。今回取り上げるSakana AIの最新モデルも、富士通のTakaneも、土台にあるのは海外で作られたオープンモデルや商用モデルである。ゼロから学習する「フルスクラッチ型」は、むしろ少数派だ。

本稿では、蒸留・チューニングによって作られる国産LLMの現状を整理し、このアプローチのメリット・デメリット、そして今後の行方を考える。結論を先に言えば、蒸留・チューニング型は今後も国産LLMの主流であり続けるが、楽天とSakana AIの対照的な対応が示すように、今後は「何をベースにしたか」を隠さず説明できるかどうかが、モデルの評価を左右するようになっていく。

本稿で挙げるベンチマーク数値の多くは、各社が自ら測定・公表した値であり、第三者による独立検証を経ていないものを含む。その旨は該当箇所に明記した。また「今後の展望」の内容は筆者の推定であり、確定的な予測ではない。

1. 「国産LLM」の2つのタイプ

「国産LLM」と呼ばれるモデルは、大きく2つのタイプに分けられる。ひとつは、Llama・Qwen・DeepSeek・Command R+・Kimiといった海外のオープンウェイトモデルや商用モデルを土台に、継続事前学習・指示チューニング・モデルマージ・知識蒸留などの手法で日本語化した「蒸留・チューニング型」。もうひとつは、トークナイザからアーキテクチャ、学習データまで完全に独自に構築する「フルスクラッチ型」だ。国内で名前の挙がるモデルの大半は前者にあたる。

モデル 開発元 ベースモデル 手法
Rakuten AI 7B / 2.0 / 3.0 楽天グループ Mistral-7B(7B)→ DeepSeek V3(3.0) 継続事前学習、MoE拡張、指示チューニング
Llama-3.1-ELYZA-JP-70B ELYZA(KDDI傘下) Llama 3.1 継続事前学習+指示チューニング
Swallow 東京科学大学・産総研 Llama 2 / Llama 3.1 継続事前学習(アカデミック)
Takane 32B 富士通・Cohere共同 Command R+ 追加学習+ファインチューニング
ABEJA QwQ/Qwen派生 ABEJA Qwen2.5シリーズ 継続事前学習+ChatVector(モデルマージ)
TinySwallow-1.5B Sakana AI Qwen2.5-32B → Qwen2.5-1.5B TAID知識蒸留(研究用途限定ライセンス)
Sakana Namazu Sakana AI Kimi K2.6(Moonshot AI) 日本語事後学習+出力の偏り抑制チューニング

一方、フルスクラッチ型は少数だが、いずれも「学習データを完全に制御できる」ことを最大の売りにしている。

モデル 開発元 規模 特徴
tsuzumi 2 NTT 30B GPU1基で動作。2025年10月提供開始
Sarashina2 SB Intuitions(ソフトバンク) 460億 2025年11月に商用API提供開始
PLaMo Preferred Networks 31B(2.x系) SSM-Attentionハイブリッド。3.0でフルスクラッチ再構築
LLM-jp-3 国立情報学研究所 172B 学習データまで含め完全公開
Stockmark-2 Stockmark 100B MITライセンスで公開

2. 楽天・Sakana AI・富士通 ― 3つの選択

楽天 Rakuten AI 3.0は2026年3月17日、Apache 2.0ライセンスで無償公開された。プレスリリースでは「オープンソースコミュニティ上の最良なモデルを基に」開発したとするのみでベースモデル名は伏せられていたが、Hugging Face上のconfig.jsonにはアーキテクチャとして「DeepseekV3ForCausalLM」、総パラメータ671B・トークンあたり活性化37Bという、DeepSeek V3と完全に一致する仕様が記載されていた。3月19日の取材に対し楽天は「ベースモデルは非開示」と回答したが、3月27日になって広報からDeepSeekのオープンモデルを採用したとの回答があった。また当初のリポジトリにはDeepSeek V3のMITライセンスが求める著作権表示が欠落しており、指摘を受けて後日NOTICEファイルが追加されている。技術的な手法自体(オープンモデルをベースにしたファインチューニング)は業界で広く行われているものであり、問題視されたのは開示の遅れとライセンス表記の不備だった。開発はGENIAC第3期の補助を受けている。

Sakana AIは対照的な対応を取った。2026年8月3日に提供開始したLLM API「Sakana Namazu」は、Moonshot AIが公開するオープンモデル「Kimi K2.6」を土台に、独自データで日本語と日本の商習慣への適合を進め、特定の話題での応答回避や出力の偏りを抑えるチューニングを施したものだ。公式発表では「Kimi K2.6をはじめとする、オープンなAIエコシステムの上に成り立っている」とベースモデルを明記し、開発コミュニティへの謝辞まで添えている。日本語指示追従を測るJFBench(Preferred Networks開発)、日英翻訳タスク、政治的中立性を測る独自ベンチマークFairPoliticsQAでベースモデルを上回り、特にFairPoliticsQAは34.10%から56.30%へ向上したという。なお、同社が2025年1月に発表した小型モデル「TinySwallow-1.5B」は、Qwen2.5-32B-InstructからQwen2.5-1.5B-Instructへ知識を転移させる独自の蒸留手法TAID(ICLR 2025 Spotlight採択)で作られたものだが、モデルカード上は研究開発目的に限定され、商用利用は想定されていない。

富士通のTakaneは2024年9月30日、CohereのCommand R+をベースに、日本語強化のための追加学習とファインチューニングを施して提供開始された。日本語理解ベンチマークJGLUEで「世界最高記録」を達成したとされるが、これは富士通とCohereによる自社測定であり、公式リリースにも「JNLIとJCoLAについては正解データに不確かさがあったため、複数人のアノテーターにより正解データを修正して測定した参考値」との注記がある。第三者評価であるNejumi LLMリーダーボード3では意味理解0.862、構文解析0.773というスコアも公表している。金融・製造・安全保障分野などセキュアなプライベート環境での利用を主眼としている。

3. ベンチマークの読み方

各社が公表する「世界最高」「最高性能」といった主張の多くは、測定条件を限定した自社測定であり、独立した第三者検証ではない。中立的な指標として国内で最も参照されるのは、Weights & Biases Japanが運営する「Nejumi LLMリーダーボード」(現行はLeaderboard 4)だ。汎用言語性能とアラインメントの2軸で、翻訳・要約・推論・コーディングから毒性・バイアス・真実性までを評価する。

2026年3月時点の分析によれば、Nejumi Leaderboard 4の総合スコアTop 50に日本産モデルは1つも入っていない。最上位はNVIDIA製の「Nemotron Nano 9B Japanese」(0.7111)で、11位のQwen3.5-27B(0.8049)とも大きな差がある。国産モデルの強みは総合スコアではなく、JFBenchのような日本語特化タスクや、日本固有の文脈・慣習への適合度にあるというのが実態に近い。

4. メリット・デメリット

蒸留・チューニング型のメリット

  • フルスクラッチの数分の一以下の開発コスト・期間で、Kimi・DeepSeek・Qwenなど強力な基盤モデルの性能をそのまま活用できる
  • 少ない追加学習量で高い日本語性能に到達しやすい(費用対効果が高い)
  • モデルマージやChatVectorなど低コストな手法で業務特化・軽量化がしやすい

蒸留・チューニング型のデメリット

  • 元モデルの能力を大きくは超えられず、性能の天井が基盤モデル依存になる
  • Llama・Qwen・DeepSeekなどのライセンス条項が派生物にも及ぶ。再配布や商用利用の可否を確認する必要がある
  • 学習データの起源や重みの中身を完全には検証できず、「国産」を名乗ることの妥当性が問われうる。Rakuten AI 3.0の一件はこれを象徴する

フルスクラッチ型の特徴

  • 学習データの権利・品質・バイアスを完全に管理でき、データ主権・透明性を訴求できる
  • 莫大な計算資源・データ・資金が必要で、同予算では絶対性能で見劣りしがち

5. 政府支援の現状 ― GENIACと源内

経済産業省とNEDOが2024年2月から進める計算資源支援プロジェクト「GENIAC」は、蒸留・チューニング型とフルスクラッチ型の双方を支えてきた。第2期(2024年10月開始)では約20テーマ、第3期(2025年8月開始)では24件が採択され、2026年6月4日に発表された第4期でも16件が採択されている。採択企業にはPreferred Networks、ABEJA、Sakana AI、楽天など、両タイプの開発元が並ぶ。

より踏み込んだ動きが、デジタル庁の政府共用生成AI基盤「源内(げんない)」だ。2026年3月6日、デジタル庁は令和7年12月2日から令和8年1月31日にかけて実施した公募の結果を発表した。応募15件のうち書類審査と評価テストを経て選定されたのは7件で、内訳はNTTデータ「tsuzumi 2」、カスタマークラウド「CC Gov-LLM」、KDDI・ELYZA共同応募体「Llama-3.1-ELYZA-JP-70B」、ソフトバンク「Sarashina2 mini」、NEC「cotomi v3」、富士通「Takane 32B」、Preferred Networks「PLaMo 2.0 Prime」となっている。

モデル 応募元 系統 備考
tsuzumi 2 NTTデータ フルスクラッチ NTT開発の30Bモデル
Llama-3.1-ELYZA-JP-70B KDDI・ELYZA 蒸留・チューニング Llama 3.1ベース
Sarashina2 mini ソフトバンク フルスクラッチ由来の蒸留 自社フルスクラッチ大型モデルを圧縮した派生形
cotomi v3 NEC 非公表 開発方式の詳細は未確認
Takane 32B 富士通 蒸留・チューニング Command R+ベース
PLaMo 2.0 Prime Preferred Networks フルスクラッチ 独自アーキテクチャ
CC Gov-LLM カスタマークラウド 非公表 開発方式の詳細は未確認

興味深いのは、7件のうち少なくとも2件(ELYZA、Takane)が明確な蒸留・チューニング型であり、政府調達候補にも派生型が普通に含まれている点だ。さらに、デジタル庁が公表した選定基準の1つ目には「国内で開発された大規模言語モデルであること。また、開発経緯や開発方法、開発体制、独自開発モデルか派生モデルかの区別等が具体的に説明可能であること」と明記されている。つまり政府は、フルスクラッチかどうかを問うのではなく、「どちらであるかを説明できるか」=透明性そのものを審査基準に据えている。楽天の一件が示した教訓が、公共調達の設計に先取りされている形だ。選定モデルは2026年8月頃から源内で試用が始まり、2027年1月頃に評価結果の一部が公表され、2027年4月から優れたモデルの政府調達(有償)が検討される予定になっている。

6. 今後の展望

蒸留・チューニング型は、今後も国産LLMの主流であり続けるとみてよい。Kimi K2.6やDeepSeek V3のような高性能オープンモデルが次々と登場する以上、それを土台にする方が費用対効果で圧倒的に有利という構図は変わらない。焦点は「フルスクラッチかどうか」から「何をベースにしたかを説明できるか」へと移りつつある。源内の選定基準がすでにその方向を示しており、今後の公共調達では同様の透明性要件が標準化していく可能性が高い。

一方でフルスクラッチ型は、学習データの完全な統制が要件となる金融・医療・防衛・行政といった領域で、少数派ながら存在感を保ち続けるだろう。ソフトバンクのSarashina2 miniのように「自社フルスクラッチモデルを蒸留して軽量版を作る」という中間的なアプローチも今後増えていくと考えられ、「フルスクラッチか派生か」という二分法自体が、実務上はグラデーションになっていくのではないか。

まとめ

「国産LLM」の大半は、海外オープンモデルへの継続事前学習・チューニング・蒸留によって作られた派生型であり、これ自体は業界標準の手法で問題ではない。楽天のRakuten AI 3.0が炎上したのは、DeepSeek V3を使ったこと自体ではなく、それを開示しなかったことだった。対照的にSakana AIは、直近のNamazuでKimi K2.6という土台を明記し、コミュニティへの敬意まで表明した。デジタル庁の源内が選定基準に「独自開発か派生かを説明できること」を明記したように、今後の国産LLM評価の軸は、開発方式そのものよりも透明性に移っていくと考えられる。

日曜日, 8月 02, 2026

DenseからMoEへ:2024–2026年のLLMアーキテクチャ大転換を読み解く

2024年から2026年にかけて、大規模言語モデル(LLM)の内部構造は静かに、しかし決定的に姿を変えました。それまで主流だった「Dense(密)」構成――すべてのパラメータが毎回のトークン処理で活性化する標準的なTransformer――に代わって、「MoE(Mixture of Experts、専門家混合)」構成を採用するモデルが急速に増えているのです。Red Hatの調査では2025年に公開されたオープンソースAIモデルの60%超がMoEを採用したと報告されており、AI性能を横断的に評価するArtificial Analysisのリーダーボードでも、知能指数上位16モデルのうち12モデルがMoE構成だとする分析があります。DeepSeek、Meta、Alibaba、Mistral、Moonshot、OpenAIといった主要プレイヤーが軒並みMoEへ舵を切った背景には、単なる流行ではない明確な工学的理由があります。

この構成の違いは、ベンチマークスコアの上でしか意味を持たない話ではありません。同じ「◯◯Bパラメータ」というラベルのモデルでも、Denseなのか、それとも活性化がわずか数%のMoEなのかによって、必要なGPUメモリ、推論コスト、レイテンシの予測可能性はまったく異なります。オンプレミス環境の構築を検討する立場や、モデル選定・調達の判断を下す立場にとって、「総パラメータ数」と「アクティブパラメータ数」を区別できるかどうかは、そのままインフラ設計の精度に直結します。

結論を先に述べると、DenseからMoEへの移行は「計算量(FLOPs)を総パラメータ数から切り離す」という一点に集約されます。DeepSeek-V3が確立した「MLA(Attention効率化)+補助損失フリーのルーティング+共有エキスパート」という設計は、その後のLlama 4・Qwen3・Kimi K2・Mistral Large 3にほぼそのまま踏襲され、事実上の業界標準になりました。一方でMoEには「全エキスパートをメモリに載せておく必要がある」という見落とされがちな制約があり、Denseにも依然として明確な居場所があります。さらにState Space Model(Mamba)とTransformerを組み合わせるハイブリッド構成も模索されていますが、日本発の実例からは、この技術がまだ発展途上であることを示す興味深い教訓も得られています。本記事では、これらの構成パターンを一次情報に基づいて整理します。

本記事に記載するパラメータ数・アーキテクチャの詳細は、各社が公表した技術レポートやモデルカード、公式ブログ記事など一次情報を優先して確認したものです。ただし一部のモデル(特にGPT-4やGPT-5系列)については開発元が内部構造を公式に開示していないため、報道や第三者の分析に基づく情報であることを本文中に明記しています。パラメータ規模や仕様は各社の発表時点のものであり、記事公開後に変更・更新されている可能性がある点にご留意ください。

1. Dense(密)アーキテクチャ:標準の姿

Denseは、GPT-3以来長く標準とされてきた構成です。デコーダのみのTransformerブロック(マルチヘッド自己注意+フィードフォワードネットワーク)を数十層積み重ね、入力されたすべてのトークンに対して、モデルが持つ全パラメータが等しく計算に関与します。ルーティングや条件分岐は一切なく、「大きくすればするほど、計算コストもそのまま増える」という単純明快な関係が成り立ちます。

この単純さこそがDenseの最大の強みです。実装・学習が安定しており、推論レイテンシが予測しやすく、ルーティングに起因する不確実性がありません。MetaのLlamaシリーズは、7Bから始まりLlama 3.1(405B)に至るまで一貫してDense構成を採用してきました(後述するLlama 4で初めてMoEへ転換します)。Mistral AIのMistral Large 2(123B、2024年7月24日発表)も、単一ノードでの高スループット推論を狙ってあえて123Bという規模に抑えたDenseモデルで、128Kトークンの文脈長と80以上のプログラミング言語対応を特徴としていました。

日本国内では、理化学研究所のスーパーコンピュータ「富岳」を用いて学習されたFugaku-LLM(13B、2024年5月公開)がDense構成の代表例です。東京工業大学・東北大学・富士通・理化学研究所・名古屋大学・サイバーエージェント・Kotoba Technologiesが共同開発したこのモデルは、深層学習フレームワーク「Megatron-DeepSpeed」を富岳向けに移植することで演算速度を既存比6倍、通信速度を3倍に高速化し、GPUではなく富岳の富士通製CPUを用いて現実的な時間内での学習を実現した点が特徴です。約3,800億トークン(うち約6割が日本語)で学習されています。

Denseの弱点は、スケールに伴って計算コストが総パラメータ数に比例して増大する点です。1兆パラメータ級のDenseモデルを学習・運用しようとすれば、その計算コストは現実的な範囲を超えてしまいます。ここに、次に説明するMoEが台頭してきた理由があります。

2. MoE(Mixture of Experts)アーキテクチャ:仕組みと代表モデル

MoEの基本的な発想は、Transformer各層のフィードフォワードネットワーク部分を、複数の「エキスパート」と呼ばれる小さなネットワークの集合に置き換えることです。トークンが層を通過するたびに、「ルーター」と呼ばれる小さなゲーティング機構がそのトークンに最も適したエキスパートを数個選び出し、選ばれたエキスパートだけが計算を行います。これにより、モデル全体としては巨大な知識容量(総パラメータ数)を持ちながら、実際に1トークンあたり計算に関与するパラメータ数(アクティブパラメータ数)は総数のごく一部に抑えられます。

オープンなMoEモデルとしてこの手法の実用性を最初に広く示したのは、2023年12月にMistral AIが公開したMixtral 8x7B(総46.7B/アクティブ12.9B、8エキスパート中top-2を選択)でした。その後、この設計思想を大きく発展させ、現在の「標準テンプレート」を確立したのが、2024年12月に公開されたDeepSeekのDeepSeek-V3です。同社の技術レポートによれば、DeepSeek-V3は671Bの総パラメータのうち、1トークンあたり37Bのみを活性化する構成で、Multi-head Latent Attention(MLA、詳細は次章)と、負荷分散のための補助損失を使わない新しいルーティング手法(後述)を採用しています。学習は14.8兆トークンで行われ、必要とされたGPU時間はわずか278.8万H800 GPU時間(1GPU時間あたり2ドルで換算すると約558万ドル)とされ、これは既存のフロンティアモデルの学習コストと比べて際立って低い数字でした。

DeepSeek-V3のルーティング設計における重要な工夫は、256個のルーテッドエキスパートに加えて1個の「共有エキスパート」を常時活性化させ、汎用的な知識をそこに担わせている点です。また、エキスパートへの負荷が偏らないよう調整する「負荷分散」の仕組みについても、従来主流だった補助損失(学習の主目的とは別に負荷分散のためだけに加える損失項)を使う方式ではなく、各エキスパートに割り当てた学習可能なバイアス項を、通常の勾配計算とは別枠で動的に調整する「補助損失フリー」戦略を採用しました。これにより、負荷分散のための調整が本来の学習目的(言語モデルとしての性能向上)を妨げにくくなるとされています。

この「MLA+共有エキスパート+補助損失フリー」というDeepSeek-V3のテンプレートは、その後多くのモデルに踏襲されました。ただし、すべてのMoEモデルが共有エキスパートを採用しているわけではない点には注意が必要です。たとえばOpenAIのgpt-ossシリーズやAlibabaのQwen3は共有エキスパートを持たず、選ばれたエキスパート全員に特化を委ねる設計を取っています。共有エキスパート方式はDeepSeek系やLlama 4系で採用される設計であり、MoE全体の必須要件ではありません。主要なMoEモデルの構成を整理すると、次のようになります。

モデル 開発元 総パラメータ/アクティブ エキスパート構成 備考
Mixtral 8x7B Mistral AI 46.7B/12.9B 8個中top-2 2023年12月公開。オープンMoEの実用性を最初に広く示した
Grok-1 xAI 314B/86B 8個中top-2、64層 2024年3月、Apache 2.0で重みを公開
DeepSeek-V3 DeepSeek 671B/37B 256個+共有1個中top-8 MLA、補助損失フリー、FP8学習、Multi-Token Prediction
DeepSeek-R1 DeepSeek 671B/37B V3と同一構成 2025年1月公開。強化学習による推論特化版
Llama 4 Scout Meta 109B/17B 16個中1個+共有1個 2025年4月。10Mトークンの長文脈、単一H100で稼働可能
Llama 4 Maverick Meta 400B/17B 128個中1個+共有1個 denseとMoE層を交互配置。単一H100 DGXホストで稼働
Qwen3-235B-A22B Alibaba 235B/22B 128個中top-8 94層。thinking/non-thinkingモードを単一モデルに統合
Qwen3-30B-A3B Alibaba 30.5B/3.3B 128個中top-8 軽量MoE。10倍のアクティブパラメータを持つ他モデルに匹敵
Kimi K2 Moonshot AI 1.04T/32B 384個中top-8+共有1個、61層 2025年7月。DeepSeek-V3を踏襲しつつエキスパート数を256→384に増加
gpt-oss-120b OpenAI 116.8B/5.1B 128個中top-4、36層 MXFP4量子化(4.25bit)で単一80GB GPUに収まる設計
gpt-oss-20b OpenAI 20.9B/3.6B 32個中top-4、24層 16GBメモリで動作可能
Mistral Large 3 Mistral AI 675B/41B granular MoE(詳細非公開) 2025年12月。Apache 2.0、256K文脈、ネイティブマルチモーダル

この表から読み取れる傾向として、①「総パラメータに対するアクティブパラメータの比率」が時代を追うごとに下がっていること(Mixtralの約28%からKimi K2の約3%へ)、②top-Kのkの値やエキスパート総数はモデルによってまちまちで、共有エキスパートの有無も設計思想の違いを反映していること、の2点が挙げられます。特にKimi K2は、スパース性(総エキスパート数と活性化数の比率)を高めるほど性能が向上するというスケーリング則の分析結果を根拠に、DeepSeek-V3の256個から384個へとエキスパート数を意図的に増やしています。

3. Dense vs MoE:何が変わるのか

MoEの最大のメリットは、同じ計算コスト(FLOPs)であればDenseより大きな知識容量を持てる、つまり「賢さ」と「計算コスト」を分離できる点にあります。Mixtral 8x7Bが70B級のDenseモデルに匹敵する性能を13B級の計算コストで実現したように、MoEは推論コストを大幅に下げながら品質を維持できます。大規模になるほどこの効果は顕著で、DeepSeek-V3が671Bという総パラメータ規模を持ちながら、既存の大規模モデルと比べて際立って低い学習コストで仕上がったことは、その象徴的な例といえます。

一方で、MoEには見落とされがちな重大な制約があります。それは「推論時にはすべてのエキスパートをGPUメモリ上に載せておく必要がある」という点です。ルーターがどのエキスパートを選ぶかはトークンごとに動的に決まるため、事前にどのエキスパートが不要かを予測してメモリから外しておくことができません。つまり、Mistral Large 3のように総パラメータ675B・アクティブパラメータ41Bというモデルであっても、必要なVRAM容量は675B相当のままです。計算コストはアクティブパラメータに比例して小さくなる一方、メモリコストは総パラメータのまま高止まりする――これがMoEを扱う上での最大の落とし穴です。

これに加えて、MoEは学習が不安定になりやすく(特定のエキスパートに負荷が偏る「ルーティング崩壊」のリスク)、分散推論のエンジニアリングも複雑になります。実際、Metaが公開を予告しながら難航したとされる2兆パラメータ級の「Llama 4 Behemoth」は、この種の課題を象徴する事例として報道でたびたび言及されています。Dense構成には、実装・学習の単純さ、推論レイテンシの予測可能性という明確な優位性が今なお残っており、エッジデバイスや中小規模の導入では十分に合理的な選択肢です。両者の違いを整理すると、次のようになります。

観点 Dense MoE
代表例 Mistral Large 2(123B)、Llama 3.1(405B)、Fugaku-LLM(13B) DeepSeek-V3(671B/37B)、Kimi K2(1T/32B)
アクティブ/総パラメータ比 100% 数%〜15%程度
推論の計算コスト 総パラメータに比例 アクティブパラメータに比例(大幅減)
必要VRAM パラメータ数相当 総パラメータ数相当(全エキスパート常駐が必要)
学習の安定性 高い ルーティング崩壊などのリスクがある
実装・運用の複雑さ 単純 複雑(分散推論、ルーティング設計)
向いている用途 エッジ、低レイテンシ要件、中小規模の導入 大規模フロンティアモデル、計算コスト効率を重視するスケーリング

4. Attentionの効率化とハイブリッド構成

MoEがフィードフォワード層を対象とする効率化だとすれば、もう一つの重要な潮流はAttention機構そのものの効率化です。その代表格が、DeepSeek-V2(2024年5月)で導入され、DeepSeek-V3やKimi K2にも受け継がれているMulti-head Latent Attention(MLA)です。

通常のAttention機構では、推論時に過去のすべてのトークンのKey・Value(KV)ベクトルをメモリ上のキャッシュに保持しておく必要があり、文脈が長くなるほどこのKVキャッシュが肥大化し、メモリを圧迫します。MLAは、このKey・Valueを低ランクの潜在ベクトルに圧縮してキャッシュすることで、メモリ使用量を劇的に削減する手法です。DeepSeekの技術レポートによれば、DeepSeek-V2は先代のDeepSeek 67B(Dense)と比較して、KVキャッシュを93.3%削減し、最大生成スループットを5.76倍に、さらに学習コストを42.5%削減したとされています。位置エンコーディング(RoPE)との非互換性という技術的な課題は、「decoupled RoPE」と呼ばれる仕組みで解決されました。

もう一つの潮流が、State Space Model(SSM、状態空間モデル)であるMambaとTransformerを組み合わせるハイブリッド構成です。MambaはAttentionのように全トークンのペアを比較するのではなく、入力を逐次的な状態遷移として処理するため、系列長に対して計算量が線形に増加します(Attentionは系列長の2乗に比例して増加します)。長文脈処理において理論上有利とされる一方で、Mamba単体のモデルはICL(in-context learning、文脈内の情報を柔軟に参照する能力)が弱いという弱点が知られており、これを補うために一定間隔でAttention層を挟み込むハイブリッド構成が考案されました。イスラエルのAI21 LabsによるJambaは、この分野の先駆けです。同社の技術レポートによれば、Jamba-1.5-Largeは8層を1ブロックとし、その中でAttentionとMambaの層数比を1対7に設定、さらに2層ごとにMoE(16エキスパート中top-2)を組み込む構成で、398Bの総パラメータのうち94Bをアクティブパラメータとしています。

日本でこの分野に最も踏み込んだ挑戦をしたのが、Preferred Networks(PFN)のPLaMo 2(2025年5月22日リリース、8B/31Bの2系列)です。PLaMo 2は、MambaとSliding Window Attentionを組み合わせた「Samba」系のハイブリッド構成を採用し、長い文章を読み込ませても処理が破綻しにくく、文字の生成速度も向上したとPFNの技術ブログは報告しています。しかしこの挑戦は、SSM系ハイブリッドが抱える構造的な課題も同時に明らかにしました。PFNのポストトレーニングに関する技術ブログによれば、PLaMo 2はNeedle-in-a-Haystack型の情報検索タスク(特に「Phonebook」と呼ばれる、文脈中の特定の情報をピンポイントで思い出すタスク)で一貫して性能が振るわなかったといいます。同社はこの原因を、SSMが過去の情報を固定長の隠れ状態へと圧縮して伝播させるという構造そのものに起因する、要約・圧縮は得意でも任意の位置にある情報を損失なく再現することは原理的に難しい特性だと分析しています。

この教訓を踏まえ、PFNは後継となるPLaMo 3(2025年11月)で方針を転換しました。同社の技術ブログでは、Sambaベースの構成は長い系列長での性能向上を狙ったものだったが実際には向上が難しく、短い系列長でわずかな推論効率の改善が見られた程度だったこと、加えてSambaを採用するモデルが少ないためTransformerに比べてライブラリやアプリケーションのサポートといったアクセシビリティ面で課題があったことを理由に挙げ、PLaMo 3ではAttentionとSliding Window Attentionを組み合わせた、GoogleのGemma 3に近い構成へと変更したと説明されています。SSMハイブリッドは長文脈処理における理論的な魅力を持つ一方で、実運用の壁にぶつかった具体例として、PLaMo 2から3への転換は示唆的な事例といえるでしょう。

5. マルチモーダル対応と軽量化技術

画像や音声などを扱うマルチモーダルモデルの構成にも、大きく分けて2つのアプローチがあります。一つは、画像トークンとテキストトークンを最初から同一のTransformerに入力する「Early fusion(早期融合)」です。Llama 4はこの方式をネイティブに採用しており、独立したビジョンエンコーダを経由せずにテキストと視覚情報を統合的に処理します。もう一つは、独立したビジョンエンコーダで画像を視覚トークンに変換してからLLMに注入する「Late fusion(後期融合)」で、LLaVAのようなモデルがこの方式に該当します。

2025年4月にAppleの研究チームが発表した論文(457個のモデルを学習させた大規模なスケーリング則の研究)は、この設計選択に興味深い知見を加えました。同論文によれば、ゼロから学習する場合にlate fusionがearly fusionより本質的に優れているという証拠はなく、むしろearly fusionはパラメータ数が少ない領域でより高い性能を示し、学習効率も高く、デプロイも容易だったといいます。さらに、early fusion構成にMoEを組み込むと、モデルがモダリティ(テキスト・画像など)ごとに特化した重みを自然に学習するようになり、性能が大きく向上することも報告されています。

もう一つの重要な潮流が、量子化や蒸留によるモデルの軽量化です。gpt-ossは、MoEの重みを4.25ビット/パラメータという極めて低いビット数で表現する「MXFP4」量子化を後段階で適用することで、120Bモデルを単一の80GB GPUに収める設計を実現しています。国内では、富士通が2025年9月に発表した「生成AI再構成技術」が注目を集めました。同社のプレスリリースによれば、独自の量子化技術(層をまたいだ誤差の蓄積を抑制する「QEP」)を自社LLM「Takane」に適用したところ、重みを1ビットまで量子化してもメモリ消費量を最大94%削減しながら、量子化前と比較した精度維持率89%、推論速度3倍を達成したとしています。同社は、従来主流とされる量子化手法「GPTQ」の精度維持率が20%以下にとどまるケースが多いのに対し、これを大きく上回るとも説明しています。ただし、これは富士通による自社ベンチマークに基づく発表であり、標準的な公開ベンチマーク(MMLU等)を用いた第三者による独立検証は、現時点の公開情報からは確認できていません。

6. 主要企業のアーキテクチャ選択

ここまで見てきた技術要素を踏まえて、主要なAI企業がどのようなアーキテクチャ選択をしてきたかを整理します。DeepSeekはMoE・MLA・補助損失フリーのルーティングという組み合わせを一貫して推し進め、事実上の業界標準を作った立場にあります。Metaは Llama 3までDense路線を貫いていましたが、Llama 4で明確にMoEへと転換しました。Alibaba(Qwen)は同一世代の中にDenseモデルとMoEモデルの両系統を持たせるという、他社にはあまり見られない併存戦略を取っています。Mistral AIは、Mixtral(MoE)→ Large 2(Dense)→ Large 3(再びMoE)と、世代ごとに揺れ動きながら最終的にMoEへ回帰しました。xAIはGrok-1でMoE(314B)を採用し、Moonshot AIはKimi K2でMLAを採用した1兆パラメータ級のMoEを実現しています。

OpenAIとGoogleについては、フラッグシップモデルの内部構造が公式に開示されていないため、確度に差のある情報として扱う必要があります。Googleについては、Gemini 1.5世代以降にMoEを採用していることを自ら公表しています。一方OpenAIのGPT-4については、2023年7月に調査会社SemiAnalysisが報じた内容として、約1.8兆パラメータ・16個のエキスパート(各エキスパートは約1,110億パラメータ)によるMoE構成で、1トークンあたりの推定アクティブパラメータは約2,800億とする情報が広く流通しています。この情報はその後複数の技術メディアで参照されていますが、OpenAI自身がこれを公式に確認したことは一度もなく、あくまで報道ベースの情報として理解する必要があります。

GPT-5については、これとは異なる種類の情報が公式に開示されています。OpenAIのシステムカードによれば、GPT-5は単一の巨大モデルではなく、「ほとんどの質問に答える高速なモデル(gpt-5-main)」「難しい問題向けのより深い推論モデル(gpt-5-thinking)」、そして会話の種類・複雑さ・ツールの要否・ユーザーの明示的な意図に基づいてどちらを使うかを瞬時に判断する「リアルタイムルーター」から構成される「統合システム」だと説明されています。これは、1つのモデル内部でトークンごとに専門家を切り替える従来型のMoEとは異なる、システムレベルでの条件付き計算という新しいアプローチです。OpenAIは将来的にこれらの機能を単一モデルへ統合する方針を示していますが、各サブモデル自体がMoE構成か否か、総パラメータ数がどの程度かについては、現時点で公開されていません。

7. 日本の国産LLMにおけるアーキテクチャの実態

日本国内で開発が進む大規模言語モデルのアーキテクチャを見渡すと、海外フロンティアモデルほど急速なMoE化は進んでおらず、Dense構成が主流を占めています。これは、多くの国産LLMが「1GPUで動作する軽量さ」や「オンプレミス環境での運用」といった、大規模MoEとは異なる価値軸を重視していることの表れといえます。とはいえ例外もあり、日本国内でも多様なアーキテクチャの模索が進んでいる点は見逃せません。

モデル 開発元 アーキテクチャ パラメータ規模 備考
Fugaku-LLM 東工大・富士通・理研等 Denseトランスフォーマー 13B スパコン「富岳」(CPU)でフルスクラッチ学習。学習トークンの約6割が日本語
PLaMo 2.0 Prime Preferred Networks SSM(Mamba-2)+Sliding Window Attentionのハイブリッド(Samba系) 8B/31B 2025年5月22日リリース。後継PLaMo 3では通常のAttention構成へ回帰
tsuzumi 2 NTT 非公開(1GPU動作を前提とした軽量設計) 30B 2025年10月提供開始。金融・医療分野の知識を強化。個社・業界特化のチューニングに強み
Sarashina2-8x70B SB Intuitions MoE(8エキスパート、sparse upcycling) 総約450〜465B Sarashina2-70Bを元に、既存のDenseモデルをMoE化するsparse upcycling手法で構築
Takane 富士通×Cohere Denseトランスフォーマー(Command R+ベース) 非公開(中型) 2024年9月提供開始。業種特化カスタマイズを前提としたエンタープライズ向け。2025年に1ビット量子化技術を適用
Llama-3.1-ELYZA-JP-70B ELYZA Denseトランスフォーマー(Llama 3.1ベース) 70B 2024年10月発表。Llama-3.1-70Bに日本語追加事前学習・指示学習を実施。前世代比で長文処理と指示追従能力を改善
cotomi v3 NEC 非公開 非公開 2025年7月発表。MCP(Model Context Protocol)準拠、128Kトークン対応。v1では13Bと公表していたがv2以降は非公開(NECは「サイズはこれまでとほぼ同じ」と説明)

この一覧が示すように、日本の国産LLMの多くは「1GPU・オンプレミス・データ主権・日本語特化」という価値軸を重視しており、大規模なMoE化よりもDense構成と軽量化技術(量子化・蒸留)に軸足を置く傾向が見られます。その中で、SB IntuitionsのSarashina2-8x70Bは既存のDenseモデルを「sparse upcycling」と呼ばれる手法でMoE化した数少ない事例であり、比較的小規模なMoEモデルが公開される中でこの規模での学習成功例は珍しいとSB Intuitions自身が述べています。またPreferred NetworksのPLaMo 2は、SSMハイブリッドという野心的な構成に挑戦した末に、次世代モデルでは標準的なAttention構成へ回帰するという貴重な実地の知見を残しました。

8. 今後の展望

以下は現時点(2026年8月)で観測できる技術トレンドから筆者が読み取った見立てであり、各社のロードマップとして確定した情報ではありません。今後の技術発表によって展開が変わる可能性がある点をあらかじめお断りしておきます。

MoEのスパース化(総エキスパート数に対する活性化エキスパート数の比率を下げる方向)は、当面さらに進むと見られます。Kimi K2がDeepSeek-V3の256個から384個へエキスパート数を増やし、スケーリング則の分析からスパース化が性能向上に寄与すると結論づけたことは、この方向性を後押しする一つの根拠です。

SSMとAttentionを組み合わせたハイブリッド構成については、Jamba型の「Transformer+Mamba+MoE」の三位一体構成が長文脈処理での効率という理論的な魅力を持ち続けている一方、前章で見たPLaMo 2から3への転換が示すように、実運用における情報検索精度の課題は依然として未解決です。この技術がフロンティアモデルの主流になるかどうかは、現時点ではまだ見通せない段階にあると捉えるのが妥当でしょう。

GPT-5に見られる「システム単位でのモデル振り分け(ルーティング)」は、従来型のトークン単位のMoEとは異なる軸での条件付き計算のアプローチとして注目されます。OpenAIは将来的にこれを単一モデルへ統合する方針を示しており、事前学習時のスケーリングと推論時のスケーリング(いわゆるo系モデルのような、回答時によく考えさせる仕組み)を統合していく流れも、今後さらに広がっていく可能性があります。また、gpt-ossのMXFP4のように、学習後の量子化を前提としてモデルを設計する「量子化ネイティブ」な考え方も、標準的な設計手法の一つとして定着しつつあります。

まとめ

2024年から2026年にかけてのLLMアーキテクチャの変遷を一言でまとめるなら、「計算量と知識容量を切り離す」という発想の広がりだといえます。MoEはこの発想を体現する最も成功した実装であり、DeepSeek-V3が示した設計テンプレートは、わずか1〜2年の間に業界の共通言語のようなものになりました。しかし同時に、MoEが万能ではないことも明らかになっています。VRAM要件は総パラメータ数に縛られ続けるという制約、学習の不安定さ、分散推論の複雑さは、Dense構成が今なお持つ「単純さ」という価値を色あせさせるものではありません。

モデルを選定・評価する立場からは、「◯◯Bパラメータ」という見出しの数字だけでなく、アクティブパラメータ数、エキスパート構成、KVキャッシュの圧縮手法(MLAの有無)といった内部構造まで踏み込んで比較することが、これまで以上に重要になっています。総パラメータ数だけを見て「軽そうだ」と判断すると、実際に必要なメモリ容量を見誤りかねません。日本国内の国産LLMを見渡しても、Dense中心の堅実な設計から、MoEへの挑戦、そしてSSMハイブリッドの模索とその軌道修正まで、各社各様のアプローチが並行して進んでいます。アーキテクチャの選択に「唯一の正解」がない以上、それぞれの設計判断の背景にある技術的なトレードオフを理解しておくことが、今後のモデル活用を考えるうえでの土台になるはずです。

土曜日, 8月 01, 2026

K-RACER量産機X3、2028年へ ― 川崎重工の無人ヘリが直面する型式証明の壁と世界の競合

川崎重工業が開発を進める無人ヘリコプター「K-RACER」——最大200kgの貨物を運べる、国内で開発された無人機としては最大のペイロードを誇るこの機体は、2026年に入ってから送電鉄塔の資材輸送や風力発電ブレードの補修など、具体的な事業領域での実証を着々と積み重ねています。川崎重工の執行役員は今年3月、自社メディアで「2028年の事業化を前倒しするくらいの気持ちで加速させたい」と明言しました。

しかし同じ時期、太平洋の向こうでは別の動きが進んでいます。米国のElroy Air社が開発する競合機「Chaparral」が、企業価値約10億ドルでの株式上場を発表し、しかも陸上自衛隊による評価試験にすでに合格していました。K-RACERが最も期待をかける日本の防衛・離島物流市場に、資金力で勝る米国勢が食い込みつつあるのです。中国では、AutoFlight社の2トン級貨物eVTOLがすでに世界初の完全認証を取得し、洋上プラットフォームへの実運用ミッションまでこなしています。

本記事では、K-RACERの最新動向、そして意外と語られてこなかった世界の重量物輸送ドローン勢力図との競合状況、直面する課題、そして2028年事業化という目標に対する見通しを、一次情報に基づいて整理します。

本記事には2028年の事業化目標や市場規模予測など、将来に関する記述が含まれます。これらは各社・各機関が公表した目標値や推計であり、確定した事実ではありません。また、受注パイプラインなど企業が自己申告する数値は、独立した第三者による検証を経ていない場合がある点にもご留意ください。

1. K-RACERとは何か

K-RACER(Kawasaki Researching Autonomic Compound to Exceed Rotorcraft)は、川崎重工の航空宇宙システムカンパニーが開発する無人ヘリコプターです。機体には、川崎重工グループが持つ3つの技術が集約されています。1つ目は、エアバスと共同開発してきたBK117ヘリコプターシリーズで培ったローター・飛行制御技術。BK117は1983年の初号機納入から2024年12月までに納入累計2,000機、飛行時間累計800万時間を達成しており、両社は同月4日にドイツ・ドナウヴェルト工場で記念式典を開催しています。2つ目は、カワサキモータースのスーパーバイク「Ninja H2R」用998cc直列4気筒スーパーチャージドエンジン(228kW/310PS)。3つ目は、産業用ロボットで培われた自律制御技術です。

現行の実証機「K-RACER-X2」の主要諸元は、メインローター径7.0m、全高2.0m、駆動方式はレシプロエンジン(ハイオクガソリン)、航続距離100km以上、連続運用可能時間1時間以上です。最大の売りである貨物搭載量は「標高0mで200kg」ですが、標高3,100mでは100kgまで低下するとされており、高地での運用では搭載量が目減りする点は覚えておく必要があります。もう一つの特徴が耐風性能で、約18m/sという値は、一般的な高性能ドローンの耐風10m/s程度を大きく上回ります。山岳地帯や洋上といった局地風の強い環境での運用を狙う機体設計だといえるでしょう。

運用面での特徴としては、荷吊りから荷降ろしまで人手を介さず完結できる「自動結合システム」、ローターを折りたためば4トントラックに積載でき2人で運搬・展開5分というコンパクトさ、そして大型ヘリコプター比で部品点数が約3分の1というメンテナンス性の高さが挙げられます。

2. 開発の系譜——X1、X2、そして量産機X3へ

K-RACERの開発は2020年10月6日、北海道大樹町の多目的航空公園での初飛行試験にさかのぼります。この初代機は、通常のヘリコプターのようにメインローター(直径4m)を持ちながら、テールローターの代わりに左右両舷に主翼とプロペラを備える「コンパウンド(複合型)ヘリコプター」と呼ばれる特殊な形態でした。左右のプロペラがメインローターの回転トルクを打ち消しつつ前進推力を発生し、前進飛行時には主翼が揚力を分担することで、従来のヘリコプターでは達成できない高速飛行を狙う設計です。

2021〜2022年には、実証機「K-RACER-X1」を使い、長野県伊那市で配送ロボットとの連携実証や、標高850mでの飛行実証が行われました。伊那市とのこのプロジェクトは、令和3年度(2021年度)に「無人VTOL機による物資輸送プラットフォーム構築事業」としてスタートしたもので、中央アルプス・南アルプスにある山小屋(西駒山荘、仙丈小屋、塩見小屋)への物資輸送ルートと持続可能なビジネスモデルの構築を目指しています。伊那市の公式発表によれば、令和7年度(2025年度)までにルートとモデルを構築し、川崎重工との連携は令和8年度(2026年度)以降も継続、令和10年度(2028年度)からの物資輸送事業開始を目指すとされています。

2023年8月には、現行の実証機「K-RACER-X2」が初飛行しました。X1にあった主翼とサイドプロペラを廃止し、純粋なヘリコプター型(二重反転ローター)へと形態を転換、メインローター径も4mから7mへ拡大したことで、標高0mでの貨物搭載量は100kgから200kgへと倍増しています。同年11月14日には伊那スキーリゾート(標高850m)で飛行試験・デモ飛行を実施し、12月22日には福島ロボットテストフィールドで200kgの貨物搭載能力を公式に実証しました(発表は2024年1月12日)。国内で開発された無人機としては最大の貨物搭載能力とされています。

そして、X2の次に控えるのが量産機「X3」です。川崎重工が2025年10月21日に総務省へ提出した資料「無操縦者航空機 K-RACER 川崎重工における電波上空利用に関する取組み」では、機体開発スケジュールとして「〜FY2028 量産機X3開発完了」と明記されています。つまりK-RACERの開発系譜は、初代機(コンパウンド型)→X1→X2(実証機)→X3(量産機)という流れであり、2028年度までにX3の開発を完了させるというのが公式のロードマップということになります。前述した加賀谷執行役員の「2028年の事業化を前倒しするくらいの気持ちで」という発言も、このX3開発完了スケジュールと符合しています。川崎重工は現在、X2による飛行実証で得られたデータや運用ノウハウを反映しながら、量産機の開発を並行して推進しているとしています。

3. 最新動向——送電鉄塔・風力ブレード・防衛のトリプル展開

2025年後半から2026年にかけて、K-RACERの実証は3つの事業領域で並行して進んでいます。もっとも力が入っているのが送電鉄塔向けの資材輸送です。2025年3月13日、川崎重工・かんでんエンジニアリング・エアロトヨタ(旧・朝日航洋)の3社が協業検討に関する合意書を締結しました。合意書では「1回あたり最大100kg〜200kgの物資を運搬することが可能な無人ヘリコプターK-RACERを活用した本サービスの事業化を目指した検討を協力して行う」としています。国内には約24万基の送電鉄塔があり、山間地にあるものの建替・更新・保守には有人ヘリコプターやモノレール、索道、人肩運搬などが使われてきましたが、少子高齢化による労働人口減少で新たな輸送手段が求められている、というのが背景です。

そして2025年12月1日、関西電力送配電の甲賀訓練場(滋賀県甲賀市)で大きな実証成果がありました。塗料の一斗缶や懸垂がいし、工事用はしごといった実際の資材(ペイロード100kg以上)を使い、目視外・自動飛行での荷揚げ・荷降ろしに成功したのです。飛行距離は1km強、荷降ろし地点は2m×2mという狭小地で、送電線などの障害物を回避しながらのウェイポイント自動飛行だったといいます。エアロトヨタの加藤社長は自社メディアの取材に対し、「大型ヘリで中継地点まで運び、そこから必要な物資をK-RACERで小さく高頻度で運ぶ」というハブ&スポーク型の輸送構想を語り、「2028年の量産化を見越し、シナリオや具体的オペレーションメニューを早くつくり上げたい」と述べています。かんでんエンジニアリングの齊藤執行役員も、「関西だけで送電鉄塔は約3万基あるが、施工能力の関係で年間150基しか建て替えられず、全て建て替えるには200年かかる計算になる。その間はメンテナンスで維持する必要がある」と、構造的な需要の大きさを説明しています。

こうした事業化への機運を象徴するのが、川崎重工の加賀谷博昭執行役員の発言です。2026年3月18日公開の自社メディア「ANSWERS」の記事で、同氏は「2028年の事業化を前倒しするくらいの気持ちで加速させていきたい」と述べる一方、「量産化までにはまだまだクリアしないといけない課題がある」とも語っており、意欲と現実的な難しさの両方を認めている点が印象的です。

2番目の事業領域は風力発電のブレード補修です。2025年12月15日、川崎重工はデンマークのBladeRobots A/S社と戦略的パートナーシップを締結しました。K-RACERでブレード前縁補修用のロボットを吊り上げ、ブレード前縁に設置・回収するという一連のプロセスを、Vestas Wind Systemsの支援を受けながらデンマークの風力発電所(強風環境)で自動飛行・遠隔操作によって実証済みです。世界の風力発電の累計設備容量はすでに1テラワットを超えており、メンテナンス需要の急拡大が背景にあります。

3番目が防衛・災害対応です。2025年1月13日には、陸上自衛隊中部方面隊が主催した「南海レスキュー2024」(三重県志摩市、南海トラフ地震想定訓練)にJUIDAと連携して参加し、人の手を一切介さない無人物資輸送を実証しました。さかのぼって2024年1〜2月には、海上自衛隊の館山航空基地・横須賀(船越)地区で試験艦「あすか」への物資輸送(約30kg吊下げ)を実証しています。海上自衛隊は「広域に分散展開した部隊への迅速補給のため輸送用UAVの導入を検討している」としており、防衛調達への組み入れも視野に入ってきそうです。

4. 規制動向——型式証明という高い壁

規制面では、2025年に国内でBVLOS(目視外飛行)の許可を取得したことが確認されています。無人航空機の型式認証・機体認証制度自体は2022年12月から始まっており、2026年3月19日付で航空法施行規則の一部改正(同年3月31日施行)も行われました。

ただし、ここにK-RACERならではの高いハードルがあります。K-RACERは最大離陸重量が150kgを超えるため、通常のドローンではなく「航空機」カテゴリーに分類され、一般的なドローンの型式認証ではなく、より厳格な型式証明(耐空証明)の枠組みが必要になるのです。実際、後述するヤマハ発動機の「FAZER R G2」がドローンの型式認証を先に取得している一方、K-RACERはこの型式証明をまだ取得していません。数年単位の時間とコストがかかるとされるこの手続きが、2028年事業化という目標達成の最大の不確定要素になっていると言えるでしょう。

もう一つの隠れた課題が通信インフラです。山間地はLTEの電波が乏しく、Starlinkなど低軌道(LEO)衛星による通信の上空利用が、現状の日本の規制では制限されています。川崎重工は総務省に対し、上空利用の解禁と衛星通信費の低減を要望しているとされます。

5. 競合分析——世界の重量物輸送ドローン勢力図

K-RACERが属する「100kg超級の重量物輸送無人機」という市場は、実は世界中で開発競争が激化している分野です。まずは主要な競合機の性能を比較してみましょう。

機体 メーカー・国 方式 ペイロード 航続距離
K-RACER-X2 川崎重工/日本 エンジン式ヘリ(ガソリン) 200kg(標高0m)/100kg(標高3,100m) 100km以上
FAZER R G2 ヤマハ発動機/日本 エンジン式ヘリ(ガソリン) 標準38kg/大型ローター仕様50kg 衛星通信仕様で最大130km
Chaparral C1 Elroy Air/米国 ハイブリッド電動VTOL固定翼 約136kg(300lb) 約483km(300マイル)
CarryAll(V2000CG) AutoFlight/中国 全電動eVTOL 約400kg 約200km
FlyCart 100(FC100) DJI/中国 電動マルチローター 単電池80kg/二重電池65kg 単電池6km/二重電池12km
R550X Rotor Technologies/米国 自律ヘリ(Robinson R44改造・ガソリン) 約550kg(1,212lb) 約650km(350nm)
Rhaegal-B Sabrewing/米国 ハイブリッド電動VTOL固定翼 約2,450kg(VTOL時) 長距離(1,850km、STOL時)
VoloDrone Volocopter(現・万豊傘下)/独 全電動eVTOL 200kg 40km
EH216-L EHang/中国 全電動eVTOL 226kg 約120km

続けて、それぞれの認証状況と量産・事業化の進捗を見てみます。

機体 認証状況 量産・価格動向 特記事項
K-RACER-X2 型式証明未取得・BVLOS許可済(2025年) 2028年事業化目標・サービス提供型を志向 耐風18m/s、自動吊下げ、国内無人機最大搭載量
FAZER R G2 第二種型式認証取得(2025年9月12日付、5機種同時) 販売・レンタル・業務受託で展開中 エンジン駆動モデル・農業用途製品として初の型式認証取得
Chaparral C1 FAA/EASA認証前・米軍での実証多数 2026年後半量産開始予定。需要パイプライン1,400機超(企業側公表値) 陸自の評価試験22項目に全合格(2025年9月)
CarryAll(V2000CG) CAAC三認証取得済(TC2024年3月・PC2024年12月・AC2025年7月) 量産・納入済(2025年7月)、2026年6月にインドネシアで世界初の海外VTC取得 世界初の2トン級eVTOL完全認証取得。洋上プラットフォームへの実運用ミッション実績あり
FlyCart 100(FC100) グローバル発売済(米国のみ非対応) 2025年12月グローバル発売・量産販売中 パラシュート・LiDAR搭載。前身FlyCart 30はエベレストでの空輸実績あり
R550X 実験カテゴリー・型式証明未取得 生産開始(農業向け中心) 世界最大級の民間無人ヘリ、Robinson社と共同開発・展示
Rhaegal-B EASA認証プロセス中 サウジADMC等から受注、受注残32億ドル超(企業側公表値、6〜7年分) 大型・長距離貨物特化

最大の脅威はElroy Air(米国)

K-RACERにとって最も警戒すべき存在が、米国のElroy Air社が開発するChaparralです。ハイブリッド電動VTOL固定翼機で、ペイロード約136kg・航続約483km・巡航132mph。製造はKratos Defense(NASDAQ: KTOS)がカリフォルニア州サクラメントの拡張工場で担い、初号生産機は2026年後半を予定しています。需要パイプラインは同社公表値で1,400機超、潜在売上は約50億ドル超とされていますが、これらの多くは拘束力のないLOI(意向表明書)ベースの数字である点には注意が必要です。

そのElroy Airが2026年6月26日、SPAC(特別買収目的会社)であるColumbus Circle Capital Corp IIとの合併により株式上場することを発表しました。取引はpre-money株式価値約8億ドル、取引後の企業価値(EV)約10.0億ドルとされ、1.65億ドル超の確定PIPE(未上場株への私募増資)を確保、2026年第4四半期のクロージングを予定しています。顧客・パートナーにはFedEx、Bristow、そしてアブダビでの2億ドル規模の合弁会社設立で提携するBarq Groupなどが名を連ね、米陸軍・海兵隊・空軍とは6年以上のプログラム実績があります。

そして何より見過ごせないのが、日本市場への直接的な進出です。陸上自衛隊は2025年9月、米国でChaparralの検証を実施し、離陸・巡航・着陸の安定性、島しょ部隊への物資投下、悪天候時の安定飛行、地上整備性、通信・遠隔制御の安定性など22項目にわたる評価すべてに合格したと報じられています。Elroy Air社の発表によれば、この試験には25マイルの自律的な地点間飛行で300ポンド(約136kg)の貨物を運搬する内容も含まれていたとのことです。陸上自衛隊の公式Xアカウントは、この検証の目的を「我が国の沿岸部周辺の情報収集や、島しょ等に展開する部隊への物資輸送等の任務を遂行可能な各種無人機の導入」と説明しています。これはK-RACERが最も期待をかけている日本の防衛・離島物流市場に、資金力・量産体制・実績のいずれでも先行する米国企業が食い込んでいるという構図であり、K-RACERにとって最大の競争リスクといえるでしょう。ちなみに陸上自衛隊はK-RACER-X2も前述の「南海レスキュー2024」で試験しており、両機は日本の防衛市場で正面から競合する関係にあります。

認証で世界最先端を行く中国勢

認証取得の速さという点で世界最先端を走るのが、中国AutoFlight社のCarryAll(V2000CG)です。最大離陸重量2トン、全電動13ローターのこの機体は、型式証明TC(2024年3月)、生産証明PC(2024年12月24日、世界初の2トン級eVTOL量産証明)、耐空証明AC(2025年7月21日)と、中国民用航空局(CAAC)の主要3認証をすべて取得しています。ペイロード約400kg・航続約200km・巡航200km/h。初号機は耐空証明取得と前後して物流企業のHeli Chuangxing Intelligentへ納入され、2025年8月3日には深セン〜中国海洋石油(CNOOC)恵州19-3の洋上プラットフォーム間、約150kmを58分で結ぶ実運用ミッション(物資400kg搭載)まで実施しています。さらに2026年6月3日には、インドネシアの民間航空総局(DGCA)から世界初となるeVTOLの海外VTC(Validation of Type Certificate)を取得し、国際展開でも先行しつつあります。より大型のV5000CGH(最大離陸重量5.7トン、ペイロード1.5トン、航続1,500km、ハイブリッド)も2026年2月に遷移飛行に成功しCAAC認証プロセスに入っていますが、これらの性能値はあくまで設計目標であり、まだ認証済みの実績値ではありません。

より軽量級では、DJIのFlyCart 100(FC100)が2025年12月にグローバル市場へ発売され、すでに量産販売中です。ペイロードは二重電池で65kg(航続12km)、単電池の緊急モードで80kg(航続6km)。パラシュートやLiDARを標準搭載し、前身のFlyCart 30はエベレストでの空輸実績を持ちます。米国のみ未対応ですが、それ以外の地域では広く展開されており、価格競争力も高いとされています。ただし中国勢は総じて航続距離が短く、K-RACERが狙う「100km以上・200kg・耐風18m/s」という運用領域とは、現時点では棲み分けができている状況です。

有人ヘリの無人化という別の潮流

競合の切り口としてもう一つ見逃せないのが、既存の有人ヘリコプターを無人化する動きです。米Rotor Technologies社のR550Xは、Robinson R44を改造した自律ヘリで、ペイロード約550kg・航続約650kmという「世界最大級の民間無人ヘリ」を掲げ、Robinson社とも共同で開発・展示を行っています。ヘリコプター業界では慢性的なパイロット不足が構造的な課題として指摘されており、有人ヘリの無人化・自律化はこうした需要への一つの回答になっています。K-RACERが掲げる「パイロット2人分の仕事を無人機で代替する」というコンセプトも、この大きな潮流の一部と位置づけられるでしょう。なお、大型・長距離貨物に特化した米Sabrewing社のRhaegal-Bは、サウジアラビアのArabian Development & Marketing Company(ADMC、リヤド本社)などから受注を獲得しており、企業側公表値で約32億ドル(6〜7年分)の受注残を抱えています。K-RACERとは市場のすみ分けができている存在です。

6. K-RACERが直面する課題

ここまで見てきた最新動向と競合状況を踏まえると、K-RACERが抱える課題は大きく5つに整理できます。

第一に、型式証明という壁です。前述のとおり、K-RACERは最大離陸重量150kg超のため「航空機」カテゴリーに分類され、ヤマハFAZER Rシリーズが取得したようなドローンの型式認証とは別次元の型式証明・耐空証明が必要になります。これには数年単位の時間とコストがかかるとされ、当初「2026年度」に近いニュアンスで語られていた事業化目標が、現在では「2028年(前倒し意欲)」という水準感に落ち着いていることからも、その難しさがうかがえます。

第二に、脱炭素化への対応です。現状はハイオクガソリンを使うレシプロエンジンで、川崎重工自身も「将来的に脱炭素化を見据えたパワーユニットの採用も検討」と公式に表明しています。Elroy Air(ハイブリッド電動)やAutoFlight・DJI(全電動)と比べるとCO2排出面では見劣りしますが、一方で電動勢は航続距離や搭載量でエンジン式に劣るというトレードオフもあり、当面はガソリンエンジンの実用性が優位に働くとみられます。

第三に、価格と事業モデルです。川崎重工は機体そのものの販売ではなく「輸送サービス提供型」の事業モデルを志向しているとみられ、具体的な価格は非公開です。有人ヘリコプター(Robinson R22で約4,500万円、R44で約6,400万円、Bell 505で約2億円)との運用コスト比較が、事業化の成否を左右する鍵になりそうです。

第四に、安全性と物理的な制約です。K-RACERの運用は原則、無人地帯の上空に限定される設計になっていますが、加えて搭載量が標高の上昇に伴って低下するという物理的な制約もあります(標高0mで200kg、標高3,100mで100kg)。高地での運用ではペイロードが目減りする点は、事業性を検討する上で無視できない要素です。

第五に、国際競合のスピードです。Elroy Airの資金力(企業価値約10億ドル)・量産体制(Kratos)・受注残(1,400機超)・日本防衛市場への進出、AutoFlightの認証先行(CAAC三認証+インドネシアVTC)といった状況を踏まえると、K-RACERは認証・量産・国際展開のいずれの面でも明確に出遅れていると言わざるを得ません。

最後に、やや技術的な話になりますが、山間地での通信インフラも隠れた課題です。LTE電波が乏しい山間地での運用にはStarlinkなどの低軌道衛星通信の活用が有効と考えられますが、現状の日本の規制では上空利用が制限されており、川崎重工は総務省に対し規制緩和と通信費低減を要望しているとされています。

7. 今後の見通し

最も重要な公式ロードマップは、前述した伊那市の「令和10年度(2028年度)からの物資輸送事業開始を目指す」という表明でしょう。これは川崎重工が総務省提出資料で示した「〜FY2028 量産機X3開発完了」というスケジュールとも整合します。川崎重工と伊那市の連携も令和8年度(2026年度)以降継続するとされており、X2による実証データを反映した量産機X3の開発が並行して進んでいます。今後は送電鉄塔・山岳輸送・災害対応・海自向け・風力ブレード補修という5つの用途で、水平展開が図られていくとみられます。

市場全体の追い風という観点では、調査会社Mordor Intelligenceはカーゴドローン市場全体の規模を2025年に19.6億ドル、2030年には105.2億ドル(年平均成長率39.94%)に達すると推計しています。他の調査機関はさらに高い成長率を示す推計を出していることもありますが、対象とする重量帯や地域、用途の定義が機関によって異なるため、こうした数字は一つの参考値として捉えるのが妥当でしょう。

今後、K-RACERの実現可能性を左右する要因を整理すると、次の5点に集約されそうです。①型式証明取得の可否とそのスピード、②量産機X3の価格が有人ヘリコプターと電動ドローンの双方に対して競争力を持てるか、③かんでんエンジニアリング・エアロトヨタとの3社協業による事業スキームの確立度合い、④Elroy Airをはじめとする国際競合が日本市場をどこまで浸食するか、⑤LEO衛星通信の上空利用解禁や飛行カテゴリー拡大といった規制の進展。とりわけ①の型式証明の進捗と、④のElroy Air日本進出の行方は、今後もっとも注視すべきポイントだといえます。

まとめ

K-RACERは、200kgという国内無人機最大の搭載量と、耐風18m/sという山岳・洋上向けの堅牢性を武器に、送電鉄塔保守・風力ブレード補修・防衛と災害対応という3つの現実的な事業領域で着実に実証を重ねています。2026年3月の「2028年前倒し」発言は、川崎重工の本気度を示すものといえるでしょう。

一方で、型式証明という制度的な壁は依然として高く、そして何より、日本の防衛・離島物流市場という「本丸」に、資金力と実績で勝る米国のElroy Airが陸上自衛隊の評価試験合格という実績を引っさげて食い込みつつあることは、看過できないリスクです。中国勢が認証取得のスピードで世界の一歩先を行っていることも合わせて考えると、K-RACERにとって2026年から2028年は、技術実証のフェーズから、型式証明の取得と国際競合への対応という、より厳しい経営判断が問われるフェーズへの転換点になりそうです。

Gemini・TPU・Cloudの垂直統合と、規制・資本市場からの逆風——Google AI戦略の現在地

検索広告で世界の情報流通を握ってきたGoogleは、この1年で「AIエージェントの会社」への転身を急いでいる。Google I/O 2026では自律的にタスクをこなすエージェント群を前面に押し出し、自社設計半導体TPUへの投資は前年の2倍を優に超える規模に膨らんだ。一方でクラウド市場ではAWS・Azureに次ぐ3番手の立場が続き、収益面では新興のAnthropicがOpenAIを追い抜くという番狂わせも起きている。垂直統合という看板戦略は、規模がそのまま強さにつながっているのだろうか。

この問いを掘り下げる価値があるのは、Googleが賭けている金額の桁が変わってきているからだ。2026年の設備投資(capex)ガイダンスは年内に3度引き上げられ、上限は2,050億ドルに達した。これは自己資金だけでは賄いきれず、Alphabetは創業以来初めてとなる大型の株式による資金調達にも踏み切っている。同時に、EUの規制当局やドイツの裁判所からは検索とAIの一体化そのものに疑問符が突きつけられ、パブリッシャーからの訴訟も相次ぐ。投資の規模と逆風の大きさが、ともに過去最大になっているタイミングだ。

結論を先に示すと、Googleの強みは「フロンティアモデル(Gemini)×自社半導体(TPU)×圧倒的な配荷網(検索・Android・Cloud)」を一体で持つ点にあり、これは他社が容易には模倣できない構造的優位である。しかしその裏側では、検索広告という既存の収益基盤とAIエージェント化が互いを侵食し合う緊張、資本市場からの投資対効果への懐疑、そして規制・司法からの圧力という3つの逆風が同時に強まっている。以下、具体的な数字とともに見ていく。

本稿の一部(各社の投資競争の帰趨、規制対応のペースなど)には筆者の推定を含みます。精密な予測ではなく、公開情報から読み取れる方向性としてご参照ください。

1. Google I/O 2026とその後の展開

2026年5月19〜20日のGoogle I/Oでは、あらゆる入力から動画などを生成できる「Gemini Omni」と、フロンティア級の知能と行動力を統合した「Gemini 3.5 Flash」が発表され、エージェント開発基盤「Google Antigravity 2.0」を通じて「書くのを助けるAI」から「行動するAIエージェント」への転換が明確に打ち出された。個別の機能も具体的に固まっている。

  • Gemini Spark:24時間365日バックグラウンドで動く「パーソナルAIエージェント」。ユーザーの指示のもとで代理行動を取り、重要な操作の前には確認を挟む設計で、まずGoogle AI Ultra(月額100ドルの新プラン)加入者向けにベータ提供された。
  • Daily Brief:夜間にメール・カレンダー・タスクを解析し、朝に優先度付きのダイジェストを届ける機能。
  • Universal Cart:検索・Gemini・YouTube・Gmailを横断する「インテリジェントな買い物かご」。価格追跡や在庫復活通知などをバックグラウンドで行い、2026年夏より順次展開されている。

Gemini appの月間アクティブユーザーは9億人超(1年前の4億人から倍増以上)、Search AI Modeは月間10億人超に到達したとGoogleは発表している。I/O後も動きは止まっておらず、2026年7月21日には後継モデル「Gemini 3.6 Flash」「Gemini 3.5 Flash-Lite」が投入された(フラッグシップの3.5 Proは「パートナーとテスト中」の段階)。DeepMindは次世代の「Gemini 4」についても、最も野心的な事前学習をすでに開始したと明らかにしており、モデル刷新のサイクルはむしろ短くなっている。

2. インフラ投資と技術的優位性

Googleの最大の武器は自社設計半導体TPUによる垂直統合である。第7世代TPU「Ironwood」は2026年4月22日(Google Cloud Next)に一般提供が始まり、1チップ当たり192GBのHBM3E(帯域7.37TB/s)、4,614 FP8 TFLOPSの性能を持ち、9,216チップのポッド構成で42.5 FP8エクサFLOPS・1.77PBの共有メモリを実現する。前世代TPU v5pの約10倍、TPU v6e(Trillium)比でも4倍以上の性能向上に相当し、FP8をネイティブサポートした初めての世代でもある。これらの数値はGoogle自身の発表であり、第三者による独立再現はまだ行われていない点には留意したい。

この投資を支える資本支出ガイダンスは、2026年に入ってから3段階で引き上げられてきた。

発表時期 2026年capexガイダンス
2026年2月(Q4 2025決算) 1,750億〜1,850億ドル
2026年4月(Q1 2026決算) 1,800億〜1,900億ドル
2026年7月22日(Q2 2026決算) 1,950億〜2,050億ドル

2025年の実績capexは914億ドル(正確には914.47億ドル)であり、2026年ガイダンスの上限(2,050億ドル)は前年の2倍を優に超える。2027年についても「さらに大幅増」とCFOアナット・アシュケナジは述べている。この資金需要を賄うため、Alphabetは2026年6月1〜2日に総額800億ドル(最終的に847.5億ドルにアップサイズ)の株式による資金調達を発表した。内訳は300億ドルの引受公募、400億ドルのATM(随時売出)プログラム、そしてバークシャー・ハサウェイによる100億ドルの相対出資である。自己資金・借入(年内だけで850億ドル超の債券発行)に加えて初めて大規模なエクイティ調達に踏み出した点は、投資規模の大きさを象徴している。

Google Cloudの受注残高(Remaining Performance Obligations)は2026年第2四半期に5,140億ドルへ拡大し、クラウド収益は前年同期比82%増の248億ドルに達した。これは同じ四半期のAWS(37%成長)、Microsoft Azure(43%成長)を上回るペースだが、他社との2026年capex比較では、Amazonが2026年7月30日の決算で2,000億ドルから2,200億ドルへ引き上げ、Microsoftは7月29日の決算で従来通り約1,900億ドルを据え置き、Metaも7月29日に1,300億〜1,450億ドルへガイダンスを引き上げた(当初の1,150億〜1,350億ドルから拡大)。4社合計では前年比7割前後の増加になる見込みで、Googleは業界最大級の投資競争のただ中にある。

半導体の調達先も一社依存からの脱却が進んでいる。次世代TPU v8は訓練用(コードネームSunfish)をBroadcom、推論用(コードネームZebrafish)をMediaTekが担当する形で設計を分割し、Marvellをネットワーキング用ASICのパートナーに、Intel Foundry Servicesを2028年以降の予備製造委託先に加える「4社体制」を構築中だ。あわせてHBM(広帯域メモリ)はSamsungが約6割、SK Hynixが約4割を供給しており、TPUの生産量を実質的に左右する制約要因になっているとの分析もある。

3. モデル性能とエコシステムへの浸透

Gemini 3 Deep Thinkは2025年の国際数学オリンピック(IMO)、国際物理学オリンピック、国際化学オリンピックの理論・記述問題で金メダル級の成績を達成しており、IMOについては国際数学オリンピック機構の協力のもとで検証されている。あわせてHumanity's Last Examで48.4%、ARC-AGI-2で84.6%(ARC Prize Foundationが検証)、Codeforcesの競技プログラミングでEloレーティング3455を記録した。ただし第三者ベンチマークを見る限り、単純な優劣で語れる状況ではない。Gemini 3系は推論・科学分野や100万トークン級の長文コンテキスト処理で強みを見せる一方、実際のソフトウェア課題を解く「SWE-bench Verified」ではClaudeが僅差で先行する結果が複数のベンチマークサイトで報告されており、分野ごとに一長一短というのが実態に近い。

配荷網の広さもGoogleの強みだ。GeminiはAndroid・検索・Workspace・YouTube・Gmail・スマートアイウェアなど広範なエコシステムに統合されている。さらに2026年1月12日、AppleがSiriの刷新にGoogleのカスタムGeminiモデル(推定1.2兆パラメータ規模)を採用する複数年契約を締結したと発表された。Appleは年額約10億ドルを支払うとされ、Gemini搭載の新Siriは2026年内に約14億台のiPhoneに展開される見通しだ(Appleは処理をPrivate Cloud Compute内で完結させ、Googleにユーザーデータを渡さない設計としている)。スマートフォン全体での「デフォルトAI」の地位を、Googleは自社製品の外側でも固めつつある。

4. 市場シェアの現状

複数の指標で見ると、Geminiは急速に存在感を拡大している。Sensor TowerのState of AI 2026レポート(2026年6月16日発表)によれば、アプリのユニークユーザーに基づく世界シェア(True Audience)でChatGPTが46.4%(2026年3月に初めて50%を下回った)、Geminiが27.7%(月間利用者6.62億人)、Claudeが10.3%(月間利用者2.45億人)となった。Webトラフィックベース(Similarweb、2026年4月)ではChatGPT 54.7%、Gemini 27.4%であり、Geminiは2025年1月の5.4%から急伸している。

一方、利用時間(エンゲージメント)で見るとChatGPT・DeepSeek・Geminiの3者が合計で市場のほぼ90%を占め、単純なアプリシェア指標だけでは競争の全体像を測れない。それを象徴するのが収益面での逆転劇だ。Anthropicの年間換算収益(ARR)は2026年4月にOpenAIを上回り、2026年5月時点で約470億ドル(OpenAIは約250億ドル)に達したとされる。アプリのユーザー数ではまだChatGPT・Geminiに大きく水をあけられているAnthropicが、収益では先頭に立っているという事実は、AI市場の競争軸がユーザー数だけではないことを示している。

5. 規制・訴訟という逆風

EUはデジタル市場法(DMA)に基づき、Androidの主要機能(起動ワード、画面内容やセンサー情報などのコンテキスト、画面操作などのアクション、オンデバイスモデルなどのリソース)についてGemini以外のAIアシスタントにも同等のアクセスを認めるよう求めていた。この件は2026年1月27日の手続き開始、4月の予備的見解公表を経て、2026年7月16日に欧州委員会が拘束力のある仕様決定を採択し、GoogleはAndroid 18リリース(2027年8月1日を予定)までに大半の措置を実装するよう義務付けられた。同時に、検索データを競合の検索エンジンやAIチャットボット提供者に公平な条件で共有することも義務付けられている。

パブリッシャー側からの圧力も強まっている。欧州出版者評議会(EPC)は2026年2月10日、AI OverviewsとAI Modeに関する独占禁止法上の申立てをEUに提出し、パブリッシャーの合意やオプトアウト、公正な対価なしでのコンテンツ利用を問題視した。米国ではPenske Media(Rolling Stone、Billboard、Variety等の親会社)が2025年9月、AI OverviewsによるトラフィックとAdセンス収益の損失を主張してGoogleを提訴(アフィリエイト収益がピーク比3分の1超減少と主張)しており、Cheggによる同種の訴訟も先行して起こされている。

法的責任の所在を巡る判断も出始めた。ドイツでは2026年5月28日、ミュンヘン地方裁判所がAI Overviewsによる2つの出版社に関する誤った説明について、Googleに対する仮差止めを認めた。同裁判所は、AI Overviewsが従来の検索結果と異なり「独立した新規かつ実質的な言明」を生成しているとして、検索エンジンに認められてきた責任限定の判例は適用されないと判断している。さらに2026年7月14日には、ドイツの複数のメディア規制当局がGoogle AI OverviewsとPerplexity AIを「コンテンツの発行者」として扱う判断を下し、EUのプラットフォーム責任免除が及ばないとした。世界で初めてメディア法をAI生成の検索結果に正式適用した事例とされる。背景には、AI Overviewsがパブリッシャーのクリックスルー率を58%押し下げているという推計(2026年2月時点、30万キーワードを分析したAhrefsの調査)がある。

6. 資本市場は懐疑的

2026年第2四半期決算は売上高1,198億ドル(前年比24%増)、Cloud成長82%という好内容だったにもかかわらず、capexガイダンスの引き上げ(上限で150億ドル増額)への懸念から株価は5%下落した。同四半期のフリーキャッシュフローは59億ドルの赤字(営業キャッシュフロー391億ドルに対しcapexが449億ドル)となり、2004年の株式上場以来初めてのマイナスを記録、自社株買いも一時停止されている。増収増益でも株価が売られるという反応は、投資家がキャッシュフローの視界不良をどれだけ重く見ているかを物語る。

供給制約も無視できない。TPU・データセンター供給網の制約は2027年まで続くとされ、成長は需要ではなく供給能力によって頭打ちになっているとCFOアナット・アシュケナジも認めている。前述のチップ調達先の多様化(Broadcom・MediaTek・Marvell・Intel)は、この制約への対応という文脈で捉えると理解しやすい。

7. 強み・弱みの整理

観点 強み 弱み
技術基盤 自社設計TPU(Ironwood)による垂直統合でNVIDIA依存を回避し、コスト・電力効率で優位 TPUエコシステムはCUDAほど汎用性・外部開発者コミュニティが成熟していない。Broadcom一社依存からの脱却も途上
モデル性能 Gemini 3 Deep Thinkが国際科学オリンピックで金メダル級、多くのベンチマークで首位級 優位は短期間で他社に追随されやすく、モデル改廃サイクルも速い(3.5→3.6→4のペース)
配荷力 検索・Android・Workspace・YouTube・Chrome等の巨大基盤にGeminiを標準搭載。Apple Siri採用でさらに拡大 検索広告への依存度が高く、AI機能の展開が既存の広告モデルを侵食するリスク(カニバリゼーション)
クラウド事業 Google Cloud売上が82%成長、受注残高5,140億ドルと勢い最大 AWS(約28〜30%)・Azure(約21〜25%)に対し依然シェアで劣後(Google Cloudは約13〜14%)
資本力 潤沢なキャッシュフローと2,050億ドル規模のcapexで長期投資が可能。847.5億ドルの株式調達も実行 capex急拡大と初のマイナスFCFが投資家の懸念を招き、株価が下落(Q2決算後5%安、自社株買い停止)
収益化 「Gemini Enterprise」で法人需要を統合、月間処理トークン数が前年比約7倍(3.2京トークン/月)に急増 Gemini単体の直接課金(サブスクリプション)収益は小さく、有料転換率もClaude(利用者の約13%が課金)等に比べ低いとの指摘がある。ただしGoogleは広告改善・Cloud契約・Workspaceバンドルでの間接的な収益化を主戦略としており、単純な「収益化の失敗」とは言い切れない面もある
規制・信頼性 独自のResponsible AI原則とガバナンス体制を長年運用 EUのDMA最終決定(Android開放義務)、複数訴訟・独禁法申立て、ドイツでの法的責任判断など規制圧力が強まる

まとめ

Googleの最大の強みは「モデル・インフラ・配荷」の垂直統合にあり、TPUによるコスト構造の優位性と、検索・Android・Cloudという複数の巨大チャネルを同時に活かせる点に現れている。一方で最大の弱みは、検索広告という既存の収益基盤とAI Overviews/エージェント化との間の構造的な緊張、急増する資本支出と初のマイナスフリーキャッシュフローに対する資本市場の懐疑、そして2026年後半から本格化するEUのAndroid開放義務への対応である。今後の成否は、TPU供給の拡大ペース(Broadcom・MediaTek・Marvell・Intelへの分散を含む)、Cloud事業のシェア拡大速度、そして各国の規制当局・裁判所との関係構築にかかっていると言えそうだ。