月曜日, 1月 05, 2026

ガバメントクラウド:「コスト3割削減」の約束はなぜ破綻したのか

 

エグゼクティブサマリー

日本政府が推進する「ガバメントクラウド」は、全国1,700超の自治体の基幹業務システムを共通クラウド基盤上に移行し、「2018年度比で運用経費を少なくとも3割削減する」という野心的な目標を掲げて始まった。しかし2025年を迎えた今、その約束は大きく揺らいでいる。

東京都の調査では移行後の運用経費が約1.6倍に増加する見込みとなり、中核市市長会の調査でも平均2.3倍、最大では5〜6倍にまで膨らむケースが報告されている。「コスト削減」を旗印に掲げた国家プロジェクトが、なぜ真逆の結果を招いているのか。本稿では、ガバメントクラウドが抱える構造的問題を多角的に分析し、行政関係者・ビジネスパーソンが知るべき論点を整理する。

第1章:ガバメントクラウドとは何か

1.1 制度の概要と背景

ガバメントクラウドは、デジタル庁が整備する「政府共通のクラウドサービス利用環境」である。2021年9月に施行された「地方公共団体情報システムの標準化に関する法律(標準化法)」を根拠として、全国の自治体は2025年度末(2026年3月末)までに、住民基本台帳、税務、福祉など20の基幹業務システムを国が定める標準仕様に準拠させ、原則としてガバメントクラウド上で運用することが求められている。

この制度が生まれた直接的契機は、2020年のコロナ禍における特別定額給付金の支給混乱である。自治体ごとにバラバラだったシステム、紙中心の事務処理、データ形式の不統一が、迅速な行政サービス提供の障壁となったことが白日の下に晒された。当時の菅義偉政権は「デジタル敗戦」という危機感のもと、全国一斉の自治体システム標準化に着手した。

1.2 政府が掲げた理想像

デジタル庁は当初、ガバメントクラウドの導入によって以下のメリットが実現されると説明していた。

  • 運用経費の大幅削減:共同調達によるスケールメリット、重複投資の排除

  • セキュリティの向上:最新のクラウドセキュリティ技術の活用、集中的な監視体制

  • 迅速なシステム構築:標準化されたAPIによる連携、柔軟なスケーリング

  • データ利活用の促進:自治体間・府省庁間のデータ連携基盤の整備

特に「2018年度比で少なくとも3割の運用経費削減」という数値目標は、財政難に苦しむ多くの自治体にとって魅力的な約束に映った。しかし、その約束は今や空手形と化しつつある。

第2章:噴出する問題─「理想」と「現実」の乖離

2.1 コスト増加の衝撃的実態

2024年から2025年にかけて、ガバメントクラウド移行に伴うコスト増加の実態が次々と明らかになった。

東京都の緊急声明(2024年5月)では、都内自治体の運用経費が移行前と比較して全体で約1.6倍に増える見込みであることが公表された。小池知事をはじめ、特別区長会、市長会、町村会の代表が連名で、国に対して試算根拠の明示と財政支援を求める異例の要請を行った。

中核市市長会の調査では、移行後の運用経費が平均2.3倍に増嵩し、5割以上の自治体で2倍以上の増加が見込まれることが判明した。最も深刻なケースでは5〜6倍にまで膨らむ試算も報告されている。

2025年5月に開催された「政令市・中核市・特別区CIOフォーラム」では、過去最多となる127団体が参加し、運用コスト問題への危機感が共有された。奈良市CIOの報告によれば、業務システムごとに見た場合、ガバメントクラウド利用料そのものよりも、ライセンス費や保守費用の方が大きく、それだけで従来の運用費を超えるケースが確認されている。

2.2 AWSへの極端な依存─マルチクラウドの虚構

ガバメントクラウドは「マルチクラウド」を標榜し、複数のクラウドサービスから選択できることをメリットとして掲げてきた。現在、AWS、Google Cloud、Microsoft Azure、Oracle Cloud Infrastructure、そして国産クラウドとしてさくらインターネットの5社が認定されている。

しかし、2025年3月末時点の実態は衝撃的である。国と地方自治体の全システム2,808件のうち、約97%にあたる2,729件がAWSを利用している。デジタル庁は「どのクラウドを使うかは自然体でこうなっている」と説明するが、事実上のAWS寡占状態であり、「マルチクラウドによるベンダーロックイン解消」という当初の理念は形骸化している。

2.3 2025年10月AWS大規模障害─露呈した単一障害点リスク

2025年10月20日、AWSで約15時間にわたる世界的な大規模障害が発生した。米国東部(バージニア北部)リージョンのDNS解決の異常を発端に、DynamoDB、EC2、Lambda、CloudWatchなど多数のサービスが連鎖的に機能不全に陥った。

この障害により、Snapchat、Fortnite、Slack、Nintendo Switch Onlineなど数多くのサービスが停止。影響を受けた企業は世界で数千社に上り、経済的損失は数十兆円規模とも試算されている。日本国内でも業務システムやECサイトでアクセス障害が相次いだ。

この障害は、ガバメントクラウドのAWS依存がもたらす「単一障害点(SPOF)」リスクを改めて浮き彫りにした。2025年4月にもAWS東京リージョンで障害が発生し、デジタル庁も「ガバクラにも一定の影響があった」と認めている。行政の基幹システムが特定の民間クラウド事業者に過度に依存することの危険性は、もはや理論上の懸念ではなく現実の脅威である。

2.4 国産クラウドの苦闘─さくらインターネットの挑戦

国産クラウドとして唯一ガバメントクラウドに採択されたさくらインターネットは、2025年度末までに119項目の技術要件を満たすことを条件とした「条件付き認定」を受けている。しかし、2025年9月末時点の進捗報告では、「体制及び計画の見直しが必要となる開発項目がある」ことが確認されており、完全な要件充足への道のりは依然として険しい。

要件の内容は、IAM(アイデンティティ管理)、セキュリティ、ネットワーク、データベース、監視運用など多岐にわたり、AWSなど大手パブリッククラウドに匹敵する機能性が求められている。国産クラウドの育成という政策目的と、現実の技術的・経営的ハードルとの間には大きなギャップが存在する。

第3章:なぜこうなったのか─構造的要因の分析

3.1 拙速な制度設計と短すぎたスケジュール

ガバメントクラウドをめぐる混乱の最大の要因は、コロナ禍を契機とした「政策スピード優先」のアプローチにある。2020年12月に当時の菅政権が号令をかけてから、2025年度末という移行期限までわずか5年。全国1,700超の自治体、20の基幹業務、数千のシステムを一斉に移行させるには、あまりにも短い期間であった。

詳細な標準仕様やガイドラインは「走りながら整備」される形となり、自治体とベンダーは「仕様が固まらないまま計画と見積もりを組まざるを得ない」状態が長く続いた。ある自治体CIO補佐官は、「移行期限までの期間が短く、ベンダー間の競争環境が排除された」ことがコスト増加の一因だと指摘している。

3.2 「理想先行」のアーキテクチャ設計

デジタル庁は、「全国統一SaaSモデル」「クラウドネイティブ」「マルチクラウド」「ベンダーロックイン解消」といった理想的なアーキテクチャ像を掲げた。単なるオンプレミスからの「リフト&シフト」ではなく、「モダン化」─すなわちAPIベース、ステートレス、マネージドサービス活用といった最新技術への全面的な移行を求めた。

しかし、多くの自治体の現行システムは、レガシーパッケージに個別カスタマイズを重ね、地場ベンダーと長年の関係性の中で運用されてきたものである。一気にモダン設計へとジャンプするには、人材・予算・時間のすべてが不足していた。

「おいしいカレーライスが出てくると思ってレストランに入ったら、ジャガイモやニンジンが並んでいる料理教室だった」

─ある専門家は、自治体担当者の戸惑いをこう表現した。標準化された完成品が提供されると期待していたら、実際には各自治体がベンダーとともにシステムを一から構築しなければならなかったのである。

3.3 「共同利用」の名の下での個別構築

「共同利用」という言葉からは、複数の自治体がリソースを共有し、規模の経済を享受するイメージが浮かぶ。しかし実態は大きく異なる。

多くのシステム開発ベンダーは「アカウント分離」「ネットワーク分離」方式を採用しており、自治体ごとにサーバーとデータベースが個別に構築されている。デジタル庁自身が「リソース効率の低い方式」と認めるこの構成が、2025年度末時点の標準的な姿となっている。

結果として、オンプレミス時代と本質的に変わらない構成のまま、クラウドの従量課金モデルや専用線接続費用が上乗せされ、コスト増加につながっている。真の意味での「共同利用」によるスケールメリットが発揮されるのは、早くても2026年度以降とされている。

3.4 現場能力と要求水準のミスマッチ

日本の多くの自治体、特に中小規模の自治体では、IT専門人材が極めて少ない。少人数の情報政策課やシステム担当者が、住民サービスから庁内業務まであらゆるシステムを支えている現実がある。

一方、ガバメントクラウドの運用には、クラウドネイティブなアーキテクチャ設計、ゼロトラストセキュリティ、マルチクラウド環境でのコスト最適化(FinOps)といった高度なスキルが求められる。このギャップを埋めるため、多くの自治体は外部コンサルタントやベンダーに依存せざるを得ず、運用管理補助委託経費の増加がコスト押し上げ要因となっている。

3.5 責任分界の曖昧さ

制度設計上の根本的な問題として、「標準化」は法的義務であるのに対し、「ガバメントクラウド利用」は努力義務という複雑な位置づけがある。国・デジタル庁・所管省庁・自治体・ベンダー・クラウド事業者の間で、どこがどこまで責任を負うのかが不明瞭なまま推進されてきた。

トラブルやコスト増加が発生した際、「誰の責任か」が見えにくい構造は、関係者間の信頼関係を損ない、建設的な問題解決を困難にしている。2023年1月にデジタル庁が開催した自治体向け説明会が「炎上」したのは、まさにこの信頼の欠如を象徴する出来事であった。

第4章:データ主権と安全保障─見過ごされた論点

4.1 外資クラウドへのデータ集約

ガバメントクラウドをめぐっては、コスト問題と並んで、データ主権・安全保障の観点からも重大な懸念が提起されている。

全国の自治体が保有する住民基本台帳データ、税務データ、福祉・医療データなど、国民の根幹に関わる行政データの大部分が、米国企業であるAWSのクラウド基盤に集約されつつある。これらのデータが米国の法制度(CLOUD Act等)の適用を受ける可能性、地政学的リスク、経済安全保障上の懸念は、十分に議論されてきたとは言い難い。

4.2 為替リスクと財政の不安定化

外資クラウドの利用料は基本的にドル建てである。2018年から2020年にかけて1ドル100〜110円で推移していた為替レートは、2023年以降130〜150円台で推移している。この円安の影響だけで、クラウド利用料は2〜4割程度上昇した計算になる。

単年度予算で運営される自治体財政にとって、為替変動という制御不能なリスク要因を抱え込むことの影響は深刻である。加えて、物価上昇、人件費高騰などのマクロ経済環境の変化も、運用経費を押し上げる構造的要因となっている。

第5章:政府の対応と今後の展望

5.1 遅まきながらの対策

自治体からの悲鳴を受け、政府もようやく対策に乗り出している。2025年4月のデジタル行財政改革会議では、石破総理の指示のもと、地方三団体の代表も加わったワーキングチームが設置され、「総合的な対策」の検討が進められている。

デジタル庁が打ち出している主な対策は以下の通りである。

  • コスト最適化のアプローチガイド:インスタンスサイズの見直し、リソース利用状況の最適化手法の提示

  • 見積チェックリスト:自治体がベンダーの見積もりを精査するための観点整理

  • FinOps実践ガイド:クラウドコストの管理・最適化手法の普及

  • 一括支払い制度:国がCSPへの利用料を一括支払いし、大口割引を適用

しかし、これらの対策は「コスト増加を緩和する」ものであり、当初約束された「3割削減」を実現するものではない。地方三団体からは「想定を上回る運用経費の増大については、国の責任において適切に財政措置を行うこと」との強い要望が出されている。

5.2 2026年以降の現実的シナリオ

2025年度末の移行期限を迎えた後、ガバメントクラウドはどのような道を歩むのか。現時点で想定されるシナリオは以下の通りである。

短期(2026年度):移行完了団体の本格運用開始。しかし、多くのシステムは「リフト&シフト」段階にとどまり、真のモダン化・コスト最適化は進まない。移行困難団体への経過措置継続。

中期(2027〜2029年度):「公共SaaS」の普及により、一部の業務領域で真の共同利用・コスト削減が実現し始める可能性。一方、老朽化した標準仕様の見直し、次世代アーキテクチャへの移行議論が浮上。

長期(2030年代):国産クラウドの成熟、あるいはマルチクラウド環境の実質的な確立。行政データの主権確保に向けた制度的枠組みの再構築。

第6章:何が問われているのか─結論と提言

6.1 構造問題としてのガバメントクラウド

ガバメントクラウドの混迷は、単なる「技術選定の失敗」や「見積もりの甘さ」では説明できない。本稿で分析してきたように、以下の要因が複合的に絡み合った構造問題として理解すべきである。

  • コロナ禍を契機とした急激な制度変更と短すぎたスケジュール

  • 理想先行のアーキテクチャ設計と現場能力の著しいギャップ

  • 外資クラウド依存を前提とした戦略とデータ主権・安全保障議論の欠如

  • 自治体・ベンダーの歴史的構造との摩擦

  • 責任分界が曖昧な政策ガバナンス

そのしわ寄せが、自治体現場の予算・人材・運用負荷として顕在化し、「ガバクラはコスト高で誰のための制度かわからない」という不信につながっている。

6.2 行政関係者・ビジネスパーソンへの示唆

自治体関係者に対して

  • ベンダーからの見積もりを鵜呑みにせず、デジタル庁のチェックリストやアプローチガイドを活用した精査を行う

  • 近隣自治体との情報共有、共同調達の可能性を積極的に探る

  • 長期的なコスト見通しを立て、議会や住民への説明責任を果たす準備をする

  • 国への財政支援要望を、具体的なデータに基づいて継続的に行う

ITベンダー・SIerに対して

  • コスト構造とリスクを明確に説明し、自治体との信頼関係構築に努める

  • クラウドネイティブ技術への投資と人材育成を加速し、真のモダン化を実現できる体制を整える

  • 短期的な利益追求ではなく、持続可能なパートナーシップを志向する

政策立案者・国会議員に対して

  • 「3割削減」目標の現実性を再検証し、必要に応じて見直す勇気を持つ

  • データ主権・経済安全保障の観点から、国産クラウド育成と外資依存リスク軽減の両立策を検討する

  • 自治体への財政支援の枠組みを早急に整備する

  • 責任の所在を明確化し、透明性の高い政策運営を実現する

6.3 おわりに──「誰のため」のデジタル化か

ガバメントクラウドは、日本の行政デジタル化における最大級のプロジェクトである。その理念─行政サービスの効率化、住民の利便性向上、データ利活用の促進─は正しい。問題は、その実現手段と進め方にある。

「誰のためのデジタル化か」という問いに立ち返れば、答えは明らかだ。最終的な受益者は国民・住民であり、その行政サービスを担う自治体職員であるべきだ。彼らの負担を増やし、財政を圧迫し、不安と混乱をもたらすような「デジタル化」は、本末転倒と言わざるを得ない。

今なお混迷の渦中にあるガバメントクラウドが、真に国民のためのインフラとなりうるか。その答えは、関係するすべてのステークホルダーの、これからの行動にかかっている。

参考情報

本稿の作成にあたり、デジタル庁公表資料、デジタル行財政改革会議資料、各種報道(日経クロステック、ITmedia等)、自治体・地方三団体の声明・要望書、業界専門家の分析等を参照した。


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